代理店新入社員が自殺が過労による労災認定されたことがニュースになっていた。
この業界のことをよく知る自分にとっては複雑な気持ちになるニュースではあった。
三島有紀子監督の「少女」という映画を見た。
本田翼、山本美月という人気女優が主演しているにしては重い映画だった。
湊かなえさん原作のこの物語のテーマの一つは「死を選び得る若さ」であるように思えた。この映画の中では「死ね」と「死にたい」が交互に登場する。
学生時代、それも中高生時代に自分も誰か知らない人に「死ね」と落書きされて落ち込んだ経験もあるし、その一方で告白するなら、誰かに「死ね」という言葉を投げかけたこともある。
「死にたい」と思って、自分の身体を傷つけようとしてカッターの刃を肌にあて、その恐怖に踏みとどまったこともある。
今思えば青春の1ページのようにも感じるし、忘れられないトラウマにもなっているようでもある。
でもどこかでバランスを取ることができたから今、僕はここにいる。
映画「少女」は最後に明るい兆しを見せて終わっていくのだが、それが若さにある未熟さを乗り越えていくことであり、誰もが避けて通れない道。
「老いる」とは死に近づくことであるが、未来のある「若い」時期の方が死が隣り合わせにあるようだ。
今、51歳の僕にとって死は避けようのないリアル。友人の何人かはすでにこの世にいないし、父親をはじめ身内には鬼籍に入っている人も多い。
いかにして「死を忘れて生きるか」が僕の日々でもある。
最期の一瞬まで後悔しない人生を送るか、それを日々考えている。
でも若い時はそうじゃない。
「死」は最期の一瞬まで後悔しないために選び得る選択肢の一つだ。
今年、少し前に女子中学生が手を繋いで電車に飛び込むという事件があった。
「人間関係の悩みがある。死にたい。」というメモも見つかったようだ。
友達と死を共に選ぶ。
その若さには不謹慎だが、文学的な美しささえあるように思う。
「死を選び得る若さ」は若者の誰にでもある。
「老い」の手前にいる自分はそれを止めたいとも思う。
岡真史の「僕は12歳」という詩集がある。1975年に12歳で自殺した少年が残した詩を両親であり、作家である高史明・岡百合子がまとめたものだ。
少年時代に僕はこれを読み、すごく刺激を受けた。
それは死に対する憧憬を増幅するものでもあったし、命の大切さを考えさせるものでもあった。
死す者と残される者。
最終的にはこの二つの立場が織りなす物語があるだけ。
最近発売された宇多田ヒカルのアルバム「ファントーム」にもそれが感じられて仕方がない。
死を選んだ者と残された者の物語は切ない。