ライムの薫りが広がった。
差し出されたグラスを挟んで、女と男の表情は、実に対照的だった。
つまり、女は呆れ、男は………。
「私の顔に何か付いてでも?」
全く涼しげな笑顔である。
「……怒ると口調がぞんざいになるのは相変わらずね、マスター……。」
「相手に応じての態度で接しているだけですよ。
『慇懃無礼』も、まあ、ありでしょうが……『慇懃無礼』すら分からない方もいますから。」
「あ、そっ。」
女は、肩をすくめ、ジンライムのグラスに手を伸ばした。
一口味わい、ところで、と切り出す。
「あいつ、結局、帰れなかったの?」
「さあ。」
「さあ、って……。」
「行こうとしていたマンションに行けなかったのは、確かです。
帰り道は……あの男の中に導(しるべ)になるだけのものが、残っていたかどうかですが……。」
「残っていた?なにが?理性?」
「いいえ、今の場合は『良心』でしょう、本物のね。ですが………。」
軽く首を振ったマスターから、グラスに揺らぐアルコールへと視線を移し、女は呟く。
「『本物の良心』ねぇ…。」
女は、それきり黙り、グラスを傾け、静かに流れるジャズを聞いているようだった。
暫くして、彼女は、空になったグラスをマスターに手渡しながら、尋ねた。
「……あいつ、最後に凄まじい声をあげていたけど、なんで?
やっぱり残ってたってたんじゃない、『良心』が?」
「いいえ。」
マスターは、あっさり否定した。
そして、にっこりとして続けた。
「誰しも、死体は見慣れていないものです。特に、自分自身のは、ね。」
「なっ!」
「他人の痛みが分からない人ほど、自分が傷つくのは耐えられませんから。」
「マスター……。」
「強いアルコールに幻覚は、まあ、付き物ですから。」
極上の笑みで、マスターは答えた。
2杯めのジンライムを作るマスターを見つめながら、女は軽く吐息をついた。
そして、再び、ライムの清々しい薫りがBarに広がっていくのであった。
……………END.