『 Aesculapius 』Ⅴ vol.4 | シリウスはかく語りき

シリウスはかく語りき

日々の徒然。表管理人せつらと、裏管理人(別名 同居人)の呟き、趣味の話などなど。

ライムの薫りが広がった。

差し出されたグラスを挟んで、女と男の表情は、実に対照的だった。
つまり、女は呆れ、男は………。



「私の顔に何か付いてでも?」



全く涼しげな笑顔である。


「……怒ると口調がぞんざいになるのは相変わらずね、マスター……。」

「相手に応じての態度で接しているだけですよ。
『慇懃無礼』も、まあ、ありでしょうが……『慇懃無礼』すら分からない方もいますから。」

「あ、そっ。」



女は、肩をすくめ、ジンライムのグラスに手を伸ばした。
一口味わい、ところで、と切り出す。



「あいつ、結局、帰れなかったの?」

「さあ。」

「さあ、って……。」

「行こうとしていたマンションに行けなかったのは、確かです。
帰り道は……あの男の中に導(しるべ)になるだけのものが、残っていたかどうかですが……。」

「残っていた?なにが?理性?」

「いいえ、今の場合は『良心』でしょう、本物のね。ですが………。」



軽く首を振ったマスターから、グラスに揺らぐアルコールへと視線を移し、女は呟く。


「『本物の良心』ねぇ…。」



女は、それきり黙り、グラスを傾け、静かに流れるジャズを聞いているようだった。

暫くして、彼女は、空になったグラスをマスターに手渡しながら、尋ねた。



「……あいつ、最後に凄まじい声をあげていたけど、なんで?
やっぱり残ってたってたんじゃない、『良心』が?」

「いいえ。」



マスターは、あっさり否定した。
そして、にっこりとして続けた。



「誰しも、死体は見慣れていないものです。特に、自分自身のは、ね。」

「なっ!」

「他人の痛みが分からない人ほど、自分が傷つくのは耐えられませんから。」

「マスター……。」

「強いアルコールに幻覚は、まあ、付き物ですから。」



極上の笑みで、マスターは答えた。

2杯めのジンライムを作るマスターを見つめながら、女は軽く吐息をついた。

そして、再び、ライムの清々しい薫りがBarに広がっていくのであった。





……………END.