樹齢が、900年以上といわれるクスノキ。
京都東山の新熊野神社の境内に
そびえたつように植生している。
壮観の言葉が、がふさわしように感じられる。
新熊野神社は
平安時代末の永暦元年(1160年)に
あの院政で、有名な後白河法皇によって創建される。
熊野信仰に熱心な法皇は
熊野の土砂、樹木などを
この地に運び、建造にあった
といわれる。
その際に,熊野のオオクスの木を、お手植えしたのが
現在のものといわれる。
神社入り口近くに、拝殿が設けられ
さすり木も その前に。
天皇の地位を3年つとめ後、院政をしいてその住まいに
したのが、三十三間堂の前にある法住寺。
当時は、法住寺殿と呼ばれたそうである。
その鎮守社として、新今熊野神社が造られれ
鎮守寺として、三十三間堂が造られたという。
三十三間堂の造営に当たったのは
平清盛、重盛の父子。
本殿前の様子
後白河天法皇は、紀州(和歌山)の熊野信仰が厚く
65年の生涯に、34回も参詣しているという。
単純に計算すると、2年に一回になるが。
熊野詣は、法皇だけでなかった。
「蟻の熊野詣」という言葉があるように
蟻が行列するように、熊野古道を
歩いて参詣したといわれる。
現今でも、車で現地に行くのに
京都からだと、紀伊半島を横断して、半日以上はかかる距離になる。
そんな遠方に、行かないでもいいように
熊野の新宮・別宮という意味合い持つ
新熊野神社が造られた。
長い間、京都の熊野信仰の中心地として
栄えたといわれる。
ついでながら、「新熊野」とか書いて、「いま熊野」と
呼ぶという。その理由は紀州の古い熊野に対して
京の新しい熊野という当時の
都人の認識が、その由来となっているそうである。
健康長寿、疫病退散の御利益(ごりやく)があるという。
熊野信仰とは、神と仏が
一緒になった神仏習合と、浄土信仰が
一体になったものといわれる。
それを表わすような、カラフルな絵馬のようなものが
境内に置かれていた、
この神社では、室町幕府の将軍足利義満が
初めて、観阿弥、世阿弥父子の能を
見た場所ともいわれる。
新今熊野神社の前の
東大路通り。
後白河法皇の時代は
その住まいの法住寺のエリアは
いまよりずっと大きく
七條通りから八条通りの
東山寄りまでに及んだそうである。
現在の京都駅の一部にも
平家の建物が、敷かれいたという。
当時、法住寺殿のあったところは現在、その中央にJRの
在来線と新幹線が走っている。









