京都観光のトップクラスの金閣寺。
きらびやかな中に、エピソードみたいなものが
内在する場所でもある。
約200年前にやってきた滝沢馬琴という
江戸時代後期の戯作者が、金閣寺を評して
「~甚だ古雅なり。義満の像生けるがごとく威あり~」などと表現。
さらに、「金閣拝見の者、一人より十人までは銀二文なり~
東山銀閣寺もかくのごとし」と述べている。
当時から、拝観料なるものをとっていたわけで、現今の
拝観料徴収の始まりといわれる。
この衣笠山のふもとに
金閣寺を造ったのは、室町幕府の三代目将軍足利義満。
当時の内戦状態であった南北朝の争いに
終止符を打った人である。
義満がまだ春王といった5歳の頃
摂津の海辺で、一泊したことがある。
月明かりの海に見とれていた義満は
侍臣に「お前たち、この地を京都に運べ」と云ったそうである。
そんな義満が絶頂の時に、造った金閣寺という別荘ただけに
惜しみなく、金と労力を注ぎ込んだという。
金閣のある鏡湖池には、”畠山石””赤松石””細川石”など
当時の守護大名の姓をもった、名石が残っているそうである。
義満は太政大臣を辞任して
剃髪して僧籍に入る。しかし
当時の公家、武将もこれにならって
剃髪する人が続出。
これに対して、関白一条経嗣は
これでは、今後の朝政は難しくなると嘆いたそうである。
権勢を極めた、義満の次の願いは
天皇になることだといわれた。
しかし、これだけは実現できずに終わっている。
ただ、義満は明国(当時の中国)との貿易の際には
国書を送りその中で、自分のことを明の皇帝の
臣と呼び、本人は日本国王と署名したといわれる。
室町時代の性格として
一つは乱世、もう一つは都市文化の始まり、さらには
海に向かって開かれた国際性の時代だったといわれる。
それは南北朝争議の終焉、世阿弥と出会い
能楽を芸術までに育成したこと。そして、対明貿易による
経済の活性化による資金捻出である。
足利将軍歴代の菩提寺の等持院。
等持院の庭
義満の後は、銀閣寺が出来る。
金閣創建が1397年。その85年後に銀閣創建。
造ったのは義満の孫の、八代将軍義政。
この方の奥さんが日野富子さん。この時代の境目で
守護達と勢力争いと、将軍職の跡目をめぐり
京都を焼き尽くす、「応仁の乱」の始まりとなる。
参考 京都故事物語(奈良本辰也 編)(河出文庫)など。




