





女の城主がいた。豊臣秀吉の側室で
一般に淀君といわれるお茶々の方である。
淀君であるお茶々は、大阪城の落城の
悲劇のヒロインとして有名。
お茶々は秀吉の上司である織田信長の
妹お市と浅井長政の間にできた娘である。
秀吉は大阪と京都の中間地点にある淀に
城を築き淀君に与える。主筋の信長の姪に対する
秀吉の手厚い処遇ともいわれる。
淀君が淀城にどれくらい、住んだかははっきりしない。
城は小さかったが、美しかったらしい。
秀吉にしてみれば、大坂ー淀ー伏見とつないで西の勢力から
京都を守る戦略的意図があったとも考えられる。
ところで、いま京阪電車淀駅の横にある淀城は
伏見城の廃城後に徳川二代目の秀忠が築城したもので
淀君の城は、いまの城より北500メートルくらいの
所にあった。いまの城には秀忠、家光親子が上洛の際
宿舎にしていた。その後、稲葉丹後守正知の居城となり
明治を迎える。城石にはなぜか島津藩の印字の石も積み重ねられている。
現在の淀城には井戸や洗面所跡があり、当時の面影も
うかがえるが荒れた状態で、修復、復元の動きもあるようだ。
淀には戦後まもなくまで、広大な巨椋池(おぐらいけ)が
あったが、埋め立てられた。古くからその名をはせていた淀競馬場は
京都競馬場に名前代わりしてから久しい。