皆様は
イエス様の再臨を心待ちにしてますか?![]()
本日の説教内容は
イエス様の再臨についてです![]()
聖書にはイエス様の初臨と再臨について
数えきれない数の預言が記されていて
「もうすぐ帰るからね!もう少し待っててね!」
と約束してくださる神様の
優しい励ましがたくさん散りばめられています![]()
私はイエス様にお会いできる日が
とても楽しみです![]()
しかし以前まではそのように
思えませんでした![]()
「イエス様にお会いするのがなんだか怖い」
「面と向かってお会いできる自信がない、逃げたい、避けたい」
この世の方が好きだから
正直イエス様の再臨は私が死んだ後にきてほしい
などなど
今では考えられないような事を
思っていました![]()
エデンの園でアダム達が罪を犯した後に
神様から姿を隠したように
まさに過去の私は
親に隠れてお留守番中に
悪い事をしてしまって
だからなんだか親を避けたくなり
親の帰りが待ち遠しくなくなる心理と同じだと思いました。。
反対に親に
「いい子にしててね!悪い人が来たら家に入れちゃだめよ!」
と言われて約束通りに
良い子にお留守番しながら
親のために何か料理したり
準備をしている時は
早く帰ってこないかな![]()
![]()
と待ち遠しくなるものですね![]()
とにかく今はそんな気持ちで
毎日を
親の帰りがいつになるか分からないその日を
待ちわびながら
良い子にしてお留守番中です![]()
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旧約聖書で最も強調されている真理は、メシヤ、救い主が来られるということでした。真のメシヤがこの地上においでになることについて強調し、預言しているのです。それでは、新約聖書で最も強調されている真理は何でしょうか? もちろん十字架で亡くなられたイエス様が、そのメシヤであるということです。またその方がこの地上に裁き主として再臨されるという約束です。
ユダヤ人たちはその約束を信じ、教えてきたのですが、どれだけ長い期間、メシヤを待ち望んできたことでしょう。
アブラハムの時代から考えると、約2000年間約束されたメシヤを信じ待ち望みました。しかし、イエス様が実際にこの地上に来られた時、メシヤを認め、受け入れたのはほんの少数の人々でした。ベツレヘムの野にいた羊飼いたちと、東からの博士たちでした。
なぜでしょうか? 預言の教えを持っていたユダヤ人たちが霊的な眠りに陥っていて、神様の御子イエス様がこの地上に来られたことを知りませんでした。
聖書の中でとても明確に預言してあったにも関わらず彼らは知りませんでした。
皆さん、理解しておられますか? イエス様がこの地上に再臨される時も、教会の中で同じようなことが起きるのです。昔のユダヤ人の歴史は現代の教会の状況を表しています。大勢の人が教会に通いますが、彼らはほんとうにイエス様の十字架を理解し、再臨を待ち望んでいるでしょうか? 彼らは心から主が来られるのを待ち望んでいるでしょうか? 彼らはこの世のことに心を奪われているのではないでしょうか? ある人は、世の中のことに疲れ切って、天を求めているかもしれませんが、心から主が来られることを望んでいるでしょうか?
イエス様が十字架で亡くなられた時、弟子たちはどこかに逃げていってしまいました。ヨハネと母マリヤだけが十字架のすぐ近くに立っていました。ほかの弟子たちはどこにいましたか? イエス様が十字架にかかっておられた時には、むしろ一人のどろぼうとローマの百卒長がイエス様を神様の子だと告白したことを私たちは知っています。
また、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエス様の死体を取りおろしたいと願い出ました。彼らは、最初は地位や名誉を失うことを恐れていましたが、聖書を通してこの方がほんとうのメシヤだと確信し、夕方、イエス様の死体を取りおろしたいと願い出ました。それに対して、弟子たちはイエス様のお葬式の準備すら出来ず、恐れて隠れていたのです。
皆さん、これからこの世界を大患難が襲うと聖書に書かれています。イエス様は人の子が来る時、地上に信仰が見られるであろうかと言われました。その時、この世の全てを捨てて主のために命をかけて立ち上がる人はどのぐらいいるでしょうか? 主の再臨を心から待ち望んでいる人はどれほどおられるでしょうか? ヨハネによる福音書20章19節を読みます。
「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。
イエス様は、恐れて隠れている弟子たちに、「安かれ」と言われました。彼らはきっとびっくりしたに違いありません。イエス様は金曜日に十字架で亡くなられました。十字架にかかられる二日前の水曜日には、エルサレムに凱旋将軍のように入城されました。しかし、翌日には、イエス様はゲッセマネで捕らえられて裁判を受けることになりました。一晩で全てが変わりました。全ての望みがなくなり、弟子たちは自分たちも十字架につけられると思って隠れてしまいました。
彼らはこの世の希望を失っただけではありませんでした。天の王国も失いかけていました。
しかし、彼らが恐れて隠れていた日曜日の夜、イエス様を見て喜びました。一晩で彼らに変化が起きました。なぜでしょうか? 彼らは復活を目の当たりにしたからです。イエス様が復活されたことをその目で見たのです。その結果、聖書の預言を完全に信頼するようになりました。イエス様がほんとうのメシヤだということをもういちどしっかり確認できたのです。
ペテロは、以前は自分を守る卑怯者でした。イエス様を否認しました。しかし、イエス様の復活を目の当たりにして、大胆な人になりました。主の復活を見て、イエス様が裁き主として、王として再臨される望みを持つようになりました。
イエス様こそ、自分の命をかけることのできる存在だと彼らは悟りました。そして、聖書の約束通り、イエス様が彼らを迎えに来てくださることを確信するようになりました。
イエス様が昇天された時の天使の約束を思い出してください。イエス様が昇天された時、天使たちは「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天にあげられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1:11)と言いました。
聖書の約束通りイエス様は十字架で亡くなられました。聖書の預言通り三日目に復活されました。ですから彼らは、聖書の言葉通り再びイエス様が来られることを確信するようになりました。
彼らはもう何も恐れなくなりました。それから、ペンテコステの経験をしたあと、ペテロが大胆に説教すると、一日に3000人が悔い改めました。
使徒行伝4章13、14節にこのように言われています。
「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった」。驚くべき変化ですね。
皆さんはイエス様がもう間もなくこの世に再臨されることを信じていますか? 皆さんは主が私たち全ての悔い改めた罪人、つまり、義人たちを迎えにこの世に来られることを信じていますか? 主が報いを与えるために、地を新しくするために来られることを信じていますか?
聖書はまたこのように言います。使徒行伝12章1、2節です。
「そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した」。
これから、真のクリスチャンに対して死刑命令が出されます。イエス様を信じる者は皆殺せという命令が出されるのです。皆さんイエス様の弟子たちがどのようにして死んでいったかご存知ですか?
アルパヨの子ヤコブは頭を打たれて殺されました。ピリポはムチで打たれた後十字架につけられて亡くなりました。マルコは馬に引きずられて亡くなりました。ペテロは十字架に逆さまになって亡くなりました。
しかし、もう誰も弟子たちを止められませんでした。どうして彼らは恐怖心がなくなったのでしょうか? イエス様が再臨されるからです。イエス様の再臨は信じる人に希望と、喜びと、勇気を与えてくれるのです。
イエス様が再び来られます。再臨を信じていますか? 皆さんが再臨を信じているなら、何も恐れることなく過ごせます。病気になっても恐ろしくないし、試練があっても恐ろしくありません。迫害も、寂しさも恐ろしくありません。なぜでしょうか? 主イエス様が再臨なさるからです。私たちが住んでいるこの世は、消えていく霧のような一時的なものです。その後には永遠が待っているのです。
ヨハネの黙示録12章12節を見てみましょう。
「それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。
神様の真実な民は、イエス様が再び来られることを切に待ち望んでいる人々です。サタンはそのような人々を苦しめるために、ものすごい攻撃をしかけてきます。しかし、イエス様の再臨を待ち望んでいる人はこの世に勝ちます。サタンに勝ちます。全ての悲しみや試練に勝ちます。罪に勝利して清い心をもって主を待ちます。
マタイによる福音書25章に十人の乙女のたとえ話があります。
乙女たちは、花婿を迎えるために明かりを持って花婿を待ちました。これが現代の教会です。その中に油がない人たちがいます。聖霊の恵みがない人たちです。御言葉は持っていますが、その中に聖霊の恵みがありません。そのような思慮の浅い者がいるのです。いつそのような人が現れますか?
花婿を待っている間に、思慮深い者と思慮の浅い者とが分けられます。油がある者と無い者、聖霊様の真の経験がある人とない人が分けられていきます。その時、サタンは現代の教会に偽りの霊を送り込んできます。外面的な異言や奇跡などを聖霊の働きだと考えさせ、それを求めることに集中させます。しかし、聖書を読むなら、真の聖霊の働きは私たちの心を変えさせ、品性を変えさせ、静かに聖霊の実を結ばせます。私たちを全ての真理に導いて下さるのが、聖霊の真の働きだと聖書は言います。
ルカによる福音書12章35節から40節にこの書いてあります。
「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。
思いがけないときにイエス様が来られると書いてあります。主を信じるという人々が、世の中のことにあくせくしている時、お金を追い求めている時、この世の楽しみに浸っている時、そんな時主が来られると言います。
皆さんは油を用意していますか? 皆さんは思慮深い乙女ですか?それとも思慮の浅い乙女ですか? 皆さんは心から主の再臨を待ち望んでいますか?
イザヤ25章8、9節にこう書いてあります。
「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と」。
主が来られた時、私たちは、「主よ、お待ちしていました。お目にかかれてうれしいです」と、喜びを爆発させることでしょう。
「主よ、早く来てください」と言う人は、心を清くしながら待ち望んでいる人です。世の楽しみや罪に溺れている人たちではありません。主を一番重要に思っている人です。主のために、主の栄光のためにだけ生きている人たちです。
聖書の教えの中で、もっとも希望にあふれ、喜びに満ち、心を燃やす教理は何でしょうか? イエス様の栄光の再臨です。聖書の中でイエス様の再臨こそ、私たちにもっとも希望を与える真理です。しかし、現代のクリスチャンは、イエス様の再臨が切迫していることを信じ、伝える熱情が冷めてしまいました。
その理由をご存知ですか? 四つの理由があります。この中で当てはまるものがあるなら、皆さんには問題があります。目を覚まして下さい。主の再臨を待ち望む人々は自分の心を清くします。「きよくならなければ、だれも主を見ることは」できないからです(ヘブル12:14)。
イエス様の再臨を熱心に求めない第1の理由は、再臨の正しい理解がないことです。サタンは過去にユダヤ人を欺き、イエス様の初臨に対して誤解させ、準備出来ないようにしました。つまり、私たちのために十字架で亡くなられるイエス様ではなく、王として来られるメシヤ、再臨の時のイエス様を待ち望むように誘導したのです。その誤解が非常に強かったため、人々は正しくメシヤを理解できず、イエス様をメシヤとして受け入れることができませんでした。彼らは聖書を誤解していました。
現代では、再臨に対して大きな欺瞞の罠を作りあげています。サタンは秘密携挙説を作りました。イエス様は目に見えない形でこっそり来られるとか、最後の大災害の前に信じる者は先に携挙されるので、患難を経験しないという説を作り出しました。また再臨前千年説を作りました。イエス様が再臨される前に、千年の祝福された王国が先に出現するという説を作り、再臨を待ち望む心を弱めてしまいました。
聖書によれば、イエス様は空中で義人を迎えられ、全ての人がイエス様を目撃すると言っています。また再臨のときに、義人の復活があり、大音響と天使たちを伴って来られると教えています。再臨は秘密に起きることではありません。
このように、イエス様の来られる時や、イエス様の来られる時に起きる出来ことについて聖書を誤解させ、イエス様の再臨について明確に悟れなくし、現在の生活を続けていけば再臨の時に救われるという、偽りの安心感を与えています。
イエス様の再臨がないなら、私たちの人生は何の意味もないのです。生まれては死んでいくだけで、復活することもありません。イエス様の再臨について、聖書の真理を誤解させて、再臨の情熱を冷ましたのです。
二つ目の理由です。現代のキリスト教会は、過去のイエス様だけを強調しています。過去の十字架の恵みだけを強調し、罪の赦しだけを強調し、私たちのために十字架で亡くなられよみがえられたイエス様が、今どこにおられ何をしておられるか、また今私たちに何を求めておられるのかを教えません。
皆さんお分かりですか? 現在、クリスチャンの間でイエス様が行方不明になっているのです。今、イエス様が天で何をしておられるのか、理解している人が少ないのです。天の聖所で主の民を清め、罪に勝利する力を与えて下さるイエス様の働きを強調しません。人々は救いの恵みを感謝し、十字架の赦しは感謝するのですが、イエス様と顔と顔をあわせて会うことを願いません。イエス様の再臨を期待し、追い求めていないのです。
三つ目の理由です。それはクリスチャンがこの世で暮らすことがたやすくなったからです。安楽な生活を送っています。この世から離れたくないと思っています。天国よりこの世の方が楽しいのです。世の中のドラマや映画の方が面白いのです。イエス様が私たちのために身代わりとして、全ての苦しみと死を受けて救いを成し遂げて下さったので、自分たちはただ救いを楽しむだけだと言う考えです。私たちがいくら罪を犯しても、救いは永遠に決定したので心配無用だと思って、神様の祝福をただ楽しむようになりました。イエス様の再臨を待ち望んでいないのです。世の中は便利で安楽になりました。しかし、過去の迫害されていた時代の教会のほうが、イエス様の再臨を切に待ち望んでいました。
第4番目の理由です。私たちがまだ心の中に罪を抱いているからです。罪を抱いているとイエス様の再臨が怖くなります。罪を抱き、罪を犯し、偶像を持っている者たちはイエス様が再臨されることを望みません。
そこで、ヨハネの黙示録22章20、21節に次のように言われています。
「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように」。
皆さん、黙示録の最後の言葉は何でしたか?「しかり、私はすぐ来る」。また預言者が最後に記録した言葉は何ですか?「主イエスよ、きたりませ」。この言葉を語って聖書は終わります。
聖書の結末は、イエス様の再臨を待ち望む言葉で終わっています。しかし、現代の教会はイエス様の再臨を待ち望むこともなく、強調もしないまま過ごしています。
何かが間違っていませんか? イエス様が再臨される直前、多くの真実なクリスチャンは苦難を受けながら、世界の各地に散らばっています。なぜでしょうか? 七つの災害があるからです。そのために準備しなさいと聖書は言います。
何を準備するのですか? 罪を憎み義を憎む新しい心をいただき、主のみ心通りに生き、主の言葉に従順な信仰を育て、財産や金銭に頼らず、主だけを頼りにして、日々主のみ言葉を食べ、信仰から信仰へと成長していく経験を持つ必要があります。
その時主が再臨されるのです。その時、主のために命がけで試練や困難を耐えてきたクリスチャン、信仰を持ち、真理に従って生きてきたクリスチャンが、天を見上げるのです。天を見上げ、イエス様の約束を待ち望みます。その時、栄光のイエス様の雲が天に現れます。彼らは飛び上がり、賛美を歌いながら「わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう!」と叫ぶのです。
その時皆さんはどこにおられるでしょうか? 皆さんはその時どちらの側におられるのでしょう。獣の刻印を受けた側でしょうか? それともイエス様の再臨を追い求め、神様の印を受けた側におられるでしょうか?
皆さん、イエス様がいつ来られてもよいように、今日も、再臨に備えてお過ごし下さい。
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