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皆様は

イエス様の再臨を心待ちにしてますか?お願い

 

 

本日の説教内容は

イエス様の再臨についてですラブラブ

 

 

聖書にはイエス様の初臨と再臨について

数えきれない数の預言が記されていて

「もうすぐ帰るからね!もう少し待っててね!」

と約束してくださる神様の

優しい励ましがたくさん散りばめられていますおねがい

 

 

 

 

 

 

私はイエス様にお会いできる日が

とても楽しみですドキドキ

 

 

しかし以前まではそのように

思えませんでした笑い泣き

 

 

 

 

「イエス様にお会いするのがなんだか怖い」

「面と向かってお会いできる自信がない、逃げたい、避けたい」

この世の方が好きだから

正直イエス様の再臨は私が死んだ後にきてほしい

 

 

 

 

 

などなど

今では考えられないような事を

思っていました笑い泣き

 

 

 

 

 

 

エデンの園でアダム達が罪を犯した後に

神様から姿を隠したように

 

 

まさに過去の私は

親に隠れてお留守番中に

悪い事をしてしまって

 

 

 

だからなんだか親を避けたくなり

親の帰りが待ち遠しくなくなる心理と同じだと思いました。。

 

 

 

反対に親に

「いい子にしててね!悪い人が来たら家に入れちゃだめよ!」

と言われて約束通りに

良い子にお留守番しながら

親のために何か料理したり

準備をしている時は

早く帰ってこないかなお願いドキドキ

と待ち遠しくなるものですねラブ

 

 

 

 

 

とにかく今はそんな気持ちで

毎日を

親の帰りがいつになるか分からないその日を

待ちわびながら

良い子にしてお留守番中ですドキドキ

 

 

 

 

 

 

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旧約聖書で最も強調されている真理は、メシヤ、救い主が来られるということでした。真のメシヤがこの地上においでになることについて強調し、預言しているのです。それでは、新約聖書で最も強調されている真理は何でしょうか? もちろん十字架で亡くなられたイエス様が、そのメシヤであるということです。またその方がこの地上に裁き主として再臨されるという約束です。

ユダヤ人たちはその約束を信じ、教えてきたのですが、どれだけ長い期間、メシヤを待ち望んできたことでしょう。

アブラハムの時代から考えると、約2000年間約束されたメシヤを信じ待ち望みました。しかし、イエス様が実際にこの地上に来られた時、メシヤを認め、受け入れたのはほんの少数の人々でした。ベツレヘムの野にいた羊飼いたちと、東からの博士たちでした。

なぜでしょうか? 預言の教えを持っていたユダヤ人たちが霊的な眠りに陥っていて、神様の御子イエス様がこの地上に来られたことを知りませんでした。

聖書の中でとても明確に預言してあったにも関わらず彼らは知りませんでした。

皆さん、理解しておられますか? イエス様がこの地上に再臨される時も、教会の中で同じようなことが起きるのです。昔のユダヤ人の歴史は現代の教会の状況を表しています。大勢の人が教会に通いますが、彼らはほんとうにイエス様の十字架を理解し、再臨を待ち望んでいるでしょうか? 彼らは心から主が来られるのを待ち望んでいるでしょうか? 彼らはこの世のことに心を奪われているのではないでしょうか? ある人は、世の中のことに疲れ切って、天を求めているかもしれませんが、心から主が来られることを望んでいるでしょうか?

イエス様が十字架で亡くなられた時、弟子たちはどこかに逃げていってしまいました。ヨハネと母マリヤだけが十字架のすぐ近くに立っていました。ほかの弟子たちはどこにいましたか? イエス様が十字架にかかっておられた時には、むしろ一人のどろぼうとローマの百卒長がイエス様を神様の子だと告白したことを私たちは知っています。

また、アリマタヤのヨセフとニコデモがイエス様の死体を取りおろしたいと願い出ました。彼らは、最初は地位や名誉を失うことを恐れていましたが、聖書を通してこの方がほんとうのメシヤだと確信し、夕方、イエス様の死体を取りおろしたいと願い出ました。それに対して、弟子たちはイエス様のお葬式の準備すら出来ず、恐れて隠れていたのです。

皆さん、これからこの世界を大患難が襲うと聖書に書かれています。イエス様は人の子が来る時、地上に信仰が見られるであろうかと言われました。その時、この世の全てを捨てて主のために命をかけて立ち上がる人はどのぐらいいるでしょうか? 主の再臨を心から待ち望んでいる人はどれほどおられるでしょうか? ヨハネによる福音書20章19節を読みます。

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」。

イエス様は、恐れて隠れている弟子たちに、「安かれ」と言われました。彼らはきっとびっくりしたに違いありません。イエス様は金曜日に十字架で亡くなられました。十字架にかかられる二日前の水曜日には、エルサレムに凱旋将軍のように入城されました。しかし、翌日には、イエス様はゲッセマネで捕らえられて裁判を受けることになりました。一晩で全てが変わりました。全ての望みがなくなり、弟子たちは自分たちも十字架につけられると思って隠れてしまいました。

彼らはこの世の希望を失っただけではありませんでした。天の王国も失いかけていました。

しかし、彼らが恐れて隠れていた日曜日の夜、イエス様を見て喜びました。一晩で彼らに変化が起きました。なぜでしょうか? 彼らは復活を目の当たりにしたからです。イエス様が復活されたことをその目で見たのです。その結果、聖書の預言を完全に信頼するようになりました。イエス様がほんとうのメシヤだということをもういちどしっかり確認できたのです。

ペテロは、以前は自分を守る卑怯者でした。イエス様を否認しました。しかし、イエス様の復活を目の当たりにして、大胆な人になりました。主の復活を見て、イエス様が裁き主として、王として再臨される望みを持つようになりました。

イエス様こそ、自分の命をかけることのできる存在だと彼らは悟りました。そして、聖書の約束通り、イエス様が彼らを迎えに来てくださることを確信するようになりました。

イエス様が昇天された時の天使の約束を思い出してください。イエス様が昇天された時、天使たちは「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天にあげられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝111)と言いました。

聖書の約束通りイエス様は十字架で亡くなられました。聖書の預言通り三日目に復活されました。ですから彼らは、聖書の言葉通り再びイエス様が来られることを確信するようになりました。

彼らはもう何も恐れなくなりました。それから、ペンテコステの経験をしたあと、ペテロが大胆に説教すると、一日に3000人が悔い改めました。

使徒行伝4章13、14節にこのように言われています。

「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった」。驚くべき変化ですね。

 

皆さんはイエス様がもう間もなくこの世に再臨されることを信じていますか? 皆さんは主が私たち全ての悔い改めた罪人、つまり、義人たちを迎えにこの世に来られることを信じていますか? 主が報いを与えるために、地を新しくするために来られることを信じていますか?

聖書はまたこのように言います。使徒行伝12章1、2節です。

「そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した」。

これから、真のクリスチャンに対して死刑命令が出されます。イエス様を信じる者は皆殺せという命令が出されるのです。皆さんイエス様の弟子たちがどのようにして死んでいったかご存知ですか?

アルパヨの子ヤコブは頭を打たれて殺されました。ピリポはムチで打たれた後十字架につけられて亡くなりました。マルコは馬に引きずられて亡くなりました。ペテロは十字架に逆さまになって亡くなりました。

しかし、もう誰も弟子たちを止められませんでした。どうして彼らは恐怖心がなくなったのでしょうか? イエス様が再臨されるからです。イエス様の再臨は信じる人に希望と、喜びと、勇気を与えてくれるのです。

イエス様が再び来られます。再臨を信じていますか? 皆さんが再臨を信じているなら、何も恐れることなく過ごせます。病気になっても恐ろしくないし、試練があっても恐ろしくありません。迫害も、寂しさも恐ろしくありません。なぜでしょうか? 主イエス様が再臨なさるからです。私たちが住んでいるこの世は、消えていく霧のような一時的なものです。その後には永遠が待っているのです。

ヨハネの黙示録12章12節を見てみましょう。

「それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。

神様の真実な民は、イエス様が再び来られることを切に待ち望んでいる人々です。サタンはそのような人々を苦しめるために、ものすごい攻撃をしかけてきます。しかし、イエス様の再臨を待ち望んでいる人はこの世に勝ちます。サタンに勝ちます。全ての悲しみや試練に勝ちます。罪に勝利して清い心をもって主を待ちます。

マタイによる福音書25章に十人の乙女のたとえ話があります。

乙女たちは、花婿を迎えるために明かりを持って花婿を待ちました。これが現代の教会です。その中に油がない人たちがいます。聖霊の恵みがない人たちです。御言葉は持っていますが、その中に聖霊の恵みがありません。そのような思慮の浅い者がいるのです。いつそのような人が現れますか?

花婿を待っている間に、思慮深い者と思慮の浅い者とが分けられます。油がある者と無い者、聖霊様の真の経験がある人とない人が分けられていきます。その時、サタンは現代の教会に偽りの霊を送り込んできます。外面的な異言や奇跡などを聖霊の働きだと考えさせ、それを求めることに集中させます。しかし、聖書を読むなら、真の聖霊の働きは私たちの心を変えさせ、品性を変えさせ、静かに聖霊の実を結ばせます。私たちを全ての真理に導いて下さるのが、聖霊の真の働きだと聖書は言います。

 

ルカによる福音書12章35節から40節にこの書いてあります。

「腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。

思いがけないときにイエス様が来られると書いてあります。主を信じるという人々が、世の中のことにあくせくしている時、お金を追い求めている時、この世の楽しみに浸っている時、そんな時主が来られると言います。

皆さんは油を用意していますか? 皆さんは思慮深い乙女ですか?それとも思慮の浅い乙女ですか? 皆さんは心から主の再臨を待ち望んでいますか?

イザヤ25章8、9節にこう書いてあります。

「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。

その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と」。

主が来られた時、私たちは、「主よ、お待ちしていました。お目にかかれてうれしいです」と、喜びを爆発させることでしょう。

「主よ、早く来てください」と言う人は、心を清くしながら待ち望んでいる人です。世の楽しみや罪に溺れている人たちではありません。主を一番重要に思っている人です。主のために、主の栄光のためにだけ生きている人たちです。

聖書の教えの中で、もっとも希望にあふれ、喜びに満ち、心を燃やす教理は何でしょうか? イエス様の栄光の再臨です。聖書の中でイエス様の再臨こそ、私たちにもっとも希望を与える真理です。しかし、現代のクリスチャンは、イエス様の再臨が切迫していることを信じ、伝える熱情が冷めてしまいました。

その理由をご存知ですか? 四つの理由があります。この中で当てはまるものがあるなら、皆さんには問題があります。目を覚まして下さい。主の再臨を待ち望む人々は自分の心を清くします。「きよくならなければ、だれも主を見ることは」できないからです(ヘブル1214)。

イエス様の再臨を熱心に求めない第1の理由は、再臨の正しい理解がないことです。サタンは過去にユダヤ人を欺き、イエス様の初臨に対して誤解させ、準備出来ないようにしました。つまり、私たちのために十字架で亡くなられるイエス様ではなく、王として来られるメシヤ、再臨の時のイエス様を待ち望むように誘導したのです。その誤解が非常に強かったため、人々は正しくメシヤを理解できず、イエス様をメシヤとして受け入れることができませんでした。彼らは聖書を誤解していました。

現代では、再臨に対して大きな欺瞞の罠を作りあげています。サタンは秘密携挙説を作りました。イエス様は目に見えない形でこっそり来られるとか、最後の大災害の前に信じる者は先に携挙されるので、患難を経験しないという説を作り出しました。また再臨前千年説を作りました。イエス様が再臨される前に、千年の祝福された王国が先に出現するという説を作り、再臨を待ち望む心を弱めてしまいました。

聖書によれば、イエス様は空中で義人を迎えられ、全ての人がイエス様を目撃すると言っています。また再臨のときに、義人の復活があり、大音響と天使たちを伴って来られると教えています。再臨は秘密に起きることではありません。

このように、イエス様の来られる時や、イエス様の来られる時に起きる出来ことについて聖書を誤解させ、イエス様の再臨について明確に悟れなくし、現在の生活を続けていけば再臨の時に救われるという、偽りの安心感を与えています。

イエス様の再臨がないなら、私たちの人生は何の意味もないのです。生まれては死んでいくだけで、復活することもありません。イエス様の再臨について、聖書の真理を誤解させて、再臨の情熱を冷ましたのです。

二つ目の理由です。現代のキリスト教会は、過去のイエス様だけを強調しています。過去の十字架の恵みだけを強調し、罪の赦しだけを強調し、私たちのために十字架で亡くなられよみがえられたイエス様が、今どこにおられ何をしておられるか、また今私たちに何を求めておられるのかを教えません。

皆さんお分かりですか? 現在、クリスチャンの間でイエス様が行方不明になっているのです。今、イエス様が天で何をしておられるのか、理解している人が少ないのです。天の聖所で主の民を清め、罪に勝利する力を与えて下さるイエス様の働きを強調しません。人々は救いの恵みを感謝し、十字架の赦しは感謝するのですが、イエス様と顔と顔をあわせて会うことを願いません。イエス様の再臨を期待し、追い求めていないのです。

三つ目の理由です。それはクリスチャンがこの世で暮らすことがたやすくなったからです。安楽な生活を送っています。この世から離れたくないと思っています。天国よりこの世の方が楽しいのです。世の中のドラマや映画の方が面白いのです。イエス様が私たちのために身代わりとして、全ての苦しみと死を受けて救いを成し遂げて下さったので、自分たちはただ救いを楽しむだけだと言う考えです。私たちがいくら罪を犯しても、救いは永遠に決定したので心配無用だと思って、神様の祝福をただ楽しむようになりました。イエス様の再臨を待ち望んでいないのです。世の中は便利で安楽になりました。しかし、過去の迫害されていた時代の教会のほうが、イエス様の再臨を切に待ち望んでいました。

第4番目の理由です。私たちがまだ心の中に罪を抱いているからです。罪を抱いているとイエス様の再臨が怖くなります。罪を抱き、罪を犯し、偶像を持っている者たちはイエス様が再臨されることを望みません。

そこで、ヨハネの黙示録22章20、21節に次のように言われています。

「これらのことをあかしするかたが仰せになる、『しかり、わたしはすぐに来る』。アァメン、主イエスよ、きたりませ。主イエスの恵みが、一同の者と共にあるように」。

皆さん、黙示録の最後の言葉は何でしたか?「しかり、私はすぐ来る」また預言者が最後に記録した言葉は何ですか?「主イエスよ、きたりませ」この言葉を語って聖書は終わります。

聖書の結末は、イエス様の再臨を待ち望む言葉で終わっています。しかし、現代の教会はイエス様の再臨を待ち望むこともなく、強調もしないまま過ごしています。

何かが間違っていませんか? イエス様が再臨される直前、多くの真実なクリスチャンは苦難を受けながら、世界の各地に散らばっています。なぜでしょうか? 七つの災害があるからです。そのために準備しなさいと聖書は言います。

何を準備するのですか? 罪を憎み義を憎む新しい心をいただき、主のみ心通りに生き、主の言葉に従順な信仰を育て、財産や金銭に頼らず、主だけを頼りにして、日々主のみ言葉を食べ、信仰から信仰へと成長していく経験を持つ必要があります。

その時主が再臨されるのです。その時、主のために命がけで試練や困難を耐えてきたクリスチャン、信仰を持ち、真理に従って生きてきたクリスチャンが、天を見上げるのです。天を見上げ、イエス様の約束を待ち望みます。その時、栄光のイエス様の雲が天に現れます。彼らは飛び上がり、賛美を歌いながら「わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう!」と叫ぶのです。

その時皆さんはどこにおられるでしょうか? 皆さんはその時どちらの側におられるのでしょう。獣の刻印を受けた側でしょうか? それともイエス様の再臨を追い求め、神様の印を受けた側におられるでしょうか?

皆さん、イエス様がいつ来られてもよいように、今日も、再臨に備えてお過ごし下さい。

 

 

 

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愛する皆様

おはようございますおねがい

 

 

雨の日々が続いて

なんだか気分が上がらないですが

こういう天気だからこそ

太陽のありがたみをより感じられて感謝ですねドキドキ

 

 

 

さて本日の説教内容は

霊的な成長の法則についてですが

 

 

 

霊的な成長は私達人間が赤ちゃんから

大人になるまでの成長と同じように

また植物が芽を出して成長していくのと同じように

雑草を抜いて水やりをして

日光に当たると順調に育っていくように

霊的な成長にもこのような事が必要なのですおねがい

 

 

 

 

私達の心の中の偶像という名の

霊的な雑草は何でしょうか?

 

 

 

見つけ次第取り除いて

日々成長していきたいものですねドキドキ

 

 

 

 

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今日は、私たちにとって非常に重要な霊的問題について考えてみましょう。私たちはどうすれば神様を知る知識と、またその経験に成長することができるでしょうか? 私たちの人生に起きてくるさまざまな困難や試練にどうすれば勝利できるでしょうか? 信仰を始めた時と今と比べて、信仰に変化がないまま同じ所にいるように感じていませんか? 信仰生活の長い人も信仰生活を始めたばかりの人も、信仰や品性に違いがないように見えませんか? 罪によって邪悪になった人間が神様に出会い、信仰生活を始めたのなら、当然変えられていく経験をしなければなりません。生きているというのは、成長していることです。成長していなければ死んでいるのと同じことです。

それでは、どうすれば神様が創造された目的を果たし、私たちの生涯に豊かな実を結べるのでしょうか? どうすれば私たちは神様のみかたちに回復されるのでしょうか

皆さん、福音は回復です。福音は主の力を受けることです。赦されるだけではなく、神様のご品性とみかたちに、再び回復されなければなりません。皆さんご存知ですか? 神様の創造の力は今も常に働いています。今も種が育ち花が咲いています。木が成長しています。赤ちゃんが誕生し、成長しています。神様の働きは今もあるのです。常に主の創造の力がこの世に存在しています。

しかし、ある人たちはその神様の働きを受けていないのです。神様の働きを邪魔する障害物が彼らの人生と心の中にあるからです。私たちはそのようなものをどのようにして除去することができるか、どのようにすれば私たちが主にあって成長できるか、どのようにすれば神様の目的通りに豊かな生涯を過ごし、成長する経験ができるかというのが今日の主題です。

創世記3章17から19節に次のように書いてあります。

「更に人に言われた、『あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、 地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る』」。

 

アダムとエバが罪を犯した後、美しかったエデンがのろわれた地になりました。この世がのろわれた地になってから色んな物が変形し、人間に害のある物に変わりました。罪ののろいは、神様の創造物に神様の命の力が直接流れ込まないように妨害したり、抑えたりします。私たちは神様の創造の力を受けなければなりませんが、私たちの人生の中でそれを妨げるものがあります。皆さんは、主の恵みと救いの働き、聖霊様の働きと主の創造の力を受けて、皆さんを生まれ変わらせてくださる働きを経験しなければなりません。しかし、それを防げているものがありませんか?

それは、皆さんの人生の中にある頑なな心、皆さんの罪と皆さんの自我ではありませんか? それらのせいで主の御言葉が心に根付かないのではありませんか? 主は御言葉によってこの世界を創造されました。ですから、主の御言葉の真理や光が、心の中に入り込まないと私たちは再創造されることも成長することもできません。

植物が成長することと、私たちが霊的に成長する法則は同じです。そこで神様は、私たちの霊的な成長と霊的な経験について、聖書の中で農業の法則と比較しながら教えてくださったのです。それは、種まきのたとえ(マタイ13123)、収穫のたとえ(マルコ4:26-29)、からし種のたとえなどです(マタイ133132)。

神様の創造の法則が働かなくなるなら奇形になってしまいます。畑の草を取らずそのままにしておくと、栄養が草に取られて作物が育ちません。草が生命力を全部奪うからです。

私たちの霊的な生命力を奪う雑草が心の中に生じていませんか? 私たちは毎日草を取らなければなりません。それは主に屈服する経験です。毎日その経験が必要です。主の恵みと力が私の中に流れて来るのをとどめてはいけません。さらに、邪魔な全ての雑草や小石を取り除き、土を耕す必要があります。春になると種をまく前に土を耕します。聖書は「あなたがたの新田を耕せ」(エレミヤ43)と教えています。

植物にはそれぞれに成長の法則があります。神様が種類別に法則を作られました。植物は自然に水分を吸い上げ、太陽を好むように作られています。そこに神様の法則があります。創造主の法則がその中に入っているのです。それを私たちは自然の法則と言います。その神様の法則が破られたり、妨げられたりすると病気になり死ぬのです。それ以上育たなくなるのです。

しかし、私たち人間には植物にはない理性があります。それが神様のみかたちです。私たちには分析する力があり、考える力があり、意志があり、良心があります。知性があります。さらに、私たちには道徳的な法があります。植物や動物には道徳な法がありません。彼らは善と悪を知りません。自分たちが生まれ持った性質のまま生きています。

しかし、生まれ変わった人の心の中には神様のみかたちの象徴である道徳的な法則があります。私たちのうちに道徳の法である十戒が書かれるようになるのです。私たちの中に神様の生命の法が流れ込んで来るのを防げたりしないかぎり、私たちは神様が私たちを創造された目的である完全な道徳的な品性、イエス様の品性に似ることができるのです。神様のみかたちに造り変えられるのです。

パウロは、私たちが信仰によって栄光から栄光へと神様の品性に変えられていくと言いました(2コリント318)。この品性は善と悪を識別し、善を行うことによって積み上げていく道徳的な美しい性質です。習慣の結果です。

罪にも習慣がありますか? もちろんです。同じ罪を繰り返すとその罪は習慣になるのです。罪深い考えを頻繁に持ち続けるとその考えが習慣になります。人を憎んだり、恨んだりするならそれは習慣になります。

反対に、美しい道徳的な義の習慣があります。私たちは良いことを思い、良い感情を持ち、良いものを見て、良いものを食べて、良いものを聞き、良いことを語り、良いものを読む習慣を育てなければなりません。それは神様がしてくださることではありません。それは私たちが選択し、私たちが行うことです。

人間をそのように美しくする法則を、道徳的な法則と言うことができます。 それは植物が日光を受け水分を吸い上げ、成長することよりもっとすばらしい、人を聖なるものに造り変える再創造の働きです。それは植物や動物にはありません。ですからこの世界で何より美しいのは、人間なのです。宇宙で最も尊く価値のある存在は、道徳的に生きる人間なのです。神様が人間をそのようなものとして創造してくださったのです。

神様は、太陽よりも、月、星よりも、他のどんな被造物よりも高貴なものとして人間を創造されました。そして、この素晴らしく造られた人間が美しい品性を作りあげ、神様を賛美し、他の被造物を喜ばせ、神様に栄光を与える存在として生きるようになることが、創造の目的です。

周囲に助けや幸福を与える存在となり、自然界を支配し、もっと発展させ万物の頭となること、それが、神様が人間を創造された目的です。

しかしこの神様の目的は、私たちの中に罪があっては実現されません。この神様の創造の計画は人間の罪によって破壊されてしまいました。反逆的で利己的で、傲慢で自分のことしか考えず、競争し、自分が上に立とうとし、すぐ人を憎み、怒り、自己中心な生き方をすることによって神様のみかたちが破壊されてしまったのです。さらに、人間は自然界を破壊し始めました。神様は最初この地球のすべてを、人間のために美しく創造してくださいました。しかし人間の罪によって自然界は破壊されてしまったので、全被造物は神の子たちの出現を待ち望んでいると聖書は言っています。

ローマ人への手紙8章19から23節まで見てみましょう。

8:19被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。 8:20なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 8:21かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。 8:22実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。 8:23それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」。

ここで聖書は、被造物全体が神の子たちが出現するのを待ち望んでいると言っています。なぜでしょうか? 人間が主の品性のように成長して神様の真実な子となり、イエス様が世界を回復されるとき、万物もあがなわれて回復されるからです。

実に、物言わぬ植物全体がうめいています。植物が枯れて落ちるとき、彼らはうめいているのです。動物が死ぬときうめいています。寒くてこごえ死ぬとき、食べ物がなくて死ぬとき、車に轢かれて死ぬときうめいているのです。「人間よ、早く悔い改めて再臨の備えをし、神様が早くこの地上に来られて万物が回復されるようにして下さい」と、うめいています。この世界のすべての被造物は人間のせいでうめくようになり、苦しみの中にいるようになったのです。そして、私たちクリスチャンも、万物が新しくされ、体があがなわれるのを待ち望んでうめいているのです。

しかし、まだ神様の生命の法則は、この地上に依然として存在しています。とうもろこしを成長させる神様の生命の法則によって、実の中に栄養分が入ります。それで私たちがそのとうもろこしを食べると、私たちの体にその栄養が入るのです。また植物が種をつけます。その種には神様の生命力があります。成長する生命力があります。その種に成長する力があります。その栄養が私たちの体に入り私たちの体を作ってくれます。神様が生命力を種の中に入れてくださいました。人間の道徳的な成長も同じです。

ペテロ第1の手紙1章23節にこう言われています。

「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」。

私たちが何によって新たに生まれたと言っていますか? 神様の御言葉によってと言っています。私たちが主の御言葉を受け入れるとき、真理を受け入れ毎日ごはんを食べるように聖書を読むとき、私たちは成長するのです。

ヨハネによる福音書6章53から58節、その次に63節に次のような御言葉があります。

「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう』」

「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。

「私があなた方に話した言葉は霊であり、また命である」とあります。

神様の生きた御言葉を食べて生きると言う意味です。私たちはどのようにして生命をもらって、どのようにして成長しますか? 主の御言葉を信じ、主を受け入れる時です。私の肉を食べ、私の血を飲むとはどんな意味でしょうか?

聖書には、この正しい意味を理解できなくて、この言葉を聞いた人たちがイエス様から離れたと書かれています。その話がヨハネによる福音書6章に出てきます。

これは何を意味していますか? イエス様の肉を食べ血を飲むとは何のことでしょうか? 主の肉を食べるとは、主の御言葉を食べることです。そして、イエス・キリストの生涯にならって生きるという意味です。主の御言葉を食べると私たちは成長し、主の品性が私のものになります。主の命が私のものになり、主の真理が自分のものになり、自分の生涯になるのです。

私たちが何かを食べるとそれが私たちの体の細胞になるように、主の御言葉を食べるとそれが私の中に入り、私の道徳性と私の品性を造り上げます。私の心を作り上げます。私の生まれ持った性質ではなく、神様のご品性をいただくのです。

そしてその御言葉の真理を通して私たちは成長するのです。血を飲むとは、主の生命が私の中に入る事です。私たちが生命力をいただき、赦しと救いの恵みを飲み、同時に私の中の不純なものを洗い流すのです。清くないものを洗い流すのです。主のみ心に反する障害物をすべて洗い流すのです。

皆さん、その経験をされましたか? これが神様を信じるクリスチャンです。成長しないクリスチャンは死んでいるのです。赤ちゃんが生まれたままで成長しないなら、その子は死んだのと同じです。

マタイによる福音書4章4節に

「イエスは答えて言われた、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

私たちは神様の口から出る言葉で生きるのです。皆さんは、何のために時間と努力を費やしていますか? 主の御言葉を食べ、主の御言葉通りに生きるため、全ての精力と時間を捧げていますか?

ヘブル人への手紙4章12節を見てみましょう。

「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」。

主の言葉はもろ刃のつるぎより鋭くて、私たちの心の中の何が間違っているか、どんな間違った考えがあるか、罪があるか、どのような間違った観念があるか、どんな欲望があるか、全てをはっきり教えて切り離してくれます。

主の御言葉と真理に対して、心を開き、屈服してください。今日そうして下さい。皆さんが罪を長い間抱き続けているなら、確実に滅びます。今、主の前にひざまずいて心の扉を開き、主の御言葉通り主に屈服し、御言葉通り生きるために御言葉を受け入れ改革してください。

主の御言葉通り悔い改めて、生まれ変わらなければなりません。聖書の真理通りに生きていかなければなりません。その真理のように生きる経験と改革がないなら、その信仰は偽りです。頭では信じていても、心と行動に表された信仰ではありません。

神様の創造は完全です。不足しているものはありません。私たちが神様の安息に入るなら、私たちも自分のわざを休みます。そうするときに、神様の生命の御言葉の法則が私たちの中でその力を発揮するようになるのです。私たちがそれを防げたりしないかぎり、神様の義の働きが、生命を与える聖霊様の働きが、自然に働きかけてきます。

そして神様の力を信頼しながら、主の力の中で休むのです。そうするなら、神様の御言葉は生きていて力があるので、働いて神様のみわざを私たちの中に成し遂げてくださるのです。

主の御言葉を聞いても忘れてしまうことがありますが、毎日神様の御言葉を食べるなら私たちは成長するのです。主は十字架で「すべてが終わった」と言われました。神様の再創造の働き、あがないの働きを完全に成し遂げられたのです。私たちを赦し、救うための土台を用意されたのです。しかし、信仰がなければ全ては無意味です。主の力を信じ、主の赦しと救いを信じなければなりません。

ヨハネの黙示録21章3から7節までを読みます。

「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初め・・り終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」。

また、ペテロの第二の手紙1章3節にこうあります。

「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである」。

神様は私たちを救って、私たちを成長させるのに必要なすべてのものを与えたと言われます。そして、神様はこの地上を再びエデンのように造り直されると約束されました。私たちは神様の命の法則の中で生きていけばよいのです。

植物が水分を吸い上げ、太陽を浴びて生きるように、私たちも主の原則に従い、主の御言葉を毎日食べ、お祈りして、聖霊様の雨を受ける必要があります。そうしたら成長します。心の中の偶像という障害物を取り除き、御言葉を素直に受け入れられるように心の畑を耕し、御言葉の種を心に受け入れ実行してください。御言葉を実行しないと、皆さんは死んでいるのと同じです。成長できないのです。皆さん、今日も主の御言葉によって生きてください。主の力は信じる私たちのものです。   

 

 

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皆さんは何か信じているものがありますか?

 

 

何かを「信じる」というのは

どういう事なのでしょうか?

 

 

今の世の中は

 

 

 

 

「愛」や「信じる」などの高貴な言葉を

 

 

 

 

ただの感情だと

片付けているように思えますショボーン

 

 

 

 

愛していると口では言いながらも

行動が伴っていなかったり

 

 

 

信じていると口にしながらも

本当はどこかで疑っていたり。。。

 

 

 

聖書が教える「愛」や「信仰」というのは

すべて行動が伴ったものです。

 

 

 

行いのない信仰や愛はむなしく

本物ではありませんショボーン

 

 

イエス様を信じると公言しながら

イエス様のように実際に生きていない信者が

どれほど多くいるでしょうか?

 

 

イエス様を愛していると公言しながら

ただ感情でだけ愛している気になっている信者達が

どれほど多くいるでしょうか?

 

 

 

本当に愛しているなら

本当に信じているなら

行動で示さなければなりません!!

 

 

 

本日の説教はそんな事を

深く考えさせられる内容となっておりますおねがい

 

 

 

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イエス・キリストを信じるクリスチャンとして、キリストを信じる信仰とはどのようなものかを理解することは、とても重要な問題です。信仰が何であるかを理解することは、とても重要です。

皆さん、信仰とは何でしょうか? 信仰とは何を信じることで、またどのように信じることなのかを私たちは正しく理解していなければなりません。

聖書には、この信仰について確実な理解を与えてくれる一つの出来事が書かれています。それは12年間長血を患っていた一人の女性の話です。皆さんよくご存知の話ですね。

マルコによる福音書5章25から34節の話です。この物語の中で長血を患っていた一人の女性がイエス様のところに来て、イエス様のみ衣に触れたら病気が治ったということが書かれています。

  長血は子宮出血症です。とてもつらい病気だそうです。この女性は自分の全財産をはたいて病気を治そうとしましたが、治せなかったのです。

マルコによる福音書5章24から29節に次のように書いてあります。

「さてここに、十二年間も長血をわずらっている女がいた。多くの医者にかかって、さんざん苦しめられ、その持ち物をみな費してしまったが、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。この女がイエスのことを聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。それは、せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと、思っていたからである。すると、血の元がすぐにかわき、女は病気がなおったことを、その身に感じた」。

この女の人は、多くの医者にかかってさんざん苦しめられたとあります。私たちが病院に通っていろいろな治療を受けても、病気が治らないなら苦しいですね。長血は出血が止まらない病気です。女性が毎月経験する事です。とても苦しかったはずです。

イエス様がヤイロの娘をいやしに行かれる途中、彼女はイエス様のみ衣に触れました。イエス様は「私の着物に触ったのは誰か」と言われました。その時イエスの弟子達は不思議に思ったでしょう。「大勢の人が押し迫ってるのに誰が触ったと言うのですか」と言いました。しかし、イエス様は自分の内から力が出て行くのを感じたと言われました。大勢の人がイエス様を信じてまわりに集まっていました。しかし、信仰を持って主の力を体験した人、主の着物に信仰をもって触れた人は別にいたのです。

イエス様は自分の内から力が出て行くのを感じたと言われました。しかし、どうしてその女性はみ衣を触ったのでしょうか? イエス様の体や足、手など身体に触れないでイエス様のみ衣に触ったのでしょうか? この女性がどのように触れていやしの力を受けたのか、私たちは理解する必要があります。この女性がイエス様のみ衣に触れたとき、病気が治った事をその身に感じました。私たちが神様の約束を信じるときいやしを受けられるのです。多くの人が信じるとは言いますが、いやしを受けていません。

肉体の治療には多くの人が関心を持ちます。病気の治療、経済的な問題の治療、しかし霊的な治療が最も重要です。イエス様に真実な信仰によって触れたとき、私たちの心は真の治療を受けられるのです。罪の治療、悪に染まった心の治療、生まれ変わる治療が起こるのです。

 

ユダヤ人が信じていたメシヤの預言にマラキ書4章2節があります。

「しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる」。

この女性はイエス様がメシヤだという事を信じました。そして彼女は、マラキ書4章2節にあるような信仰を持つようになったのです。それでイエス様のみ衣にでも触れるなら自分の病気が治ると彼女は信じたのです。

民数記15章37節から41節

「主はまたモーセに言われた、『イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。あなたがたが、そのふさを見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたが自分の心と、目の欲に従って、みだらな行いをしないためである。こうして、あなたがたは、わたしのもろもろの戒めを思い起して、それを行い、あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。わたしはあなたがたの神、主であって、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしはあなたがたの神、主である』」。

 

イエス様の衣服は神様の律法を記憶し、それに服従する生涯を象徴していました。青ひもをつけると言うのは従順を意味しています。聖書で青は従順を象徴します。特に主の御言葉、主の律法に服従する私たちの品性と態度を象徴しています。私たちの堕落した欲望のまま生きないで、神様の御言葉と御心に従って生きることを象徴しているのです。私たちが神様の戒め通り生きないなら、主の御心に従って生きていないなら、神様は私たちの神様になることはできません。

私たちが神様を父と呼ぶなら、父の御言葉と御心に従って生きなければなりません。それが信仰です。信仰というのは何かを理解したこと、納得したということではなく、私たちが御言葉に従って生きる人生そのものなのです。

エゼキエル書36章16から28節にこのようなことが書いてあります。まず17節まで。

「主の言葉がわたしに臨んだ、人の子よ、昔、イスラエルの家が、自分の国に住んだとき、彼らはおのれのおこないとわざとをもって、これを汚した。そのおこないは、わたしの前には、汚れにある女の汚れのようであった」。

これは何を意味しますか? 教会が、主の民が主に反逆し、主の御言葉通りに生きておらず、罪の中で生きており、偶像に仕えて生きているのです。それは汚れにある女の汚れのようであったと聖書は言っています。これが聖書の御言葉であり象徴です。

ですから、長血を患ったその女性は、堕落した教会を象徴していたのです。続いて見ます。

「イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、『わたしの着物にさわったのはだれか』と言われた。そこで弟子たちが言った、『ごらんのとおり、群衆があなたに押し迫っていますのに、だれがさわったかと、おっしゃるのですか』。 しかし、イエスはさわった者を見つけようとして、見まわしておられた。その女は自分の身に起ったことを知って、恐れおののきながら進み出て、みまえにひれ伏して、すべてありのままを申し上げた。イエスはその女に言われた、『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい』」。

 この長血を患っていた女性は堕落した教会を象徴しています。この世で主の御言葉通り生きないで、信じると言いながら、ただ教理や教えを知識として表面的に信じ、その御言葉や主の戒め通りに生きない中途半端な信仰の人、理論的な信仰しか持っていない人は、主の衣に触れることが出来ないのです。信じて、全心で触れないので、皆さんにも霊的ないやしが起きないのです。主の力が私たちに入って来ないのです。教会に通っていても、その中で真の主の御言葉の力と生まれ変わらせる聖霊様の恵みを経験出来ていないのです。

そのために、多くの人が神様に礼拝を捧げますが、真の霊的ないやしの経験を受けることなく生きています。それで、イエス様のみ衣に触れた女性の信仰は私たちにとても重要な意味があるのです。信仰とは神様の御心の通りに行う事を含んでいるのです。それが真の信仰です。

ヘブル人への手紙11章6節にこう書いてあります。

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。

ノアやアブラハム、モーセなどは、神様のみ心通りに行う信仰を持っていました。そのことをヘブル人への手紙は教えているのです。ただ頭で理解し、同意しただけの信仰は、はっきり言って信仰ではありません。それはただの哲学や思想、情報に過ぎません。そのために現代に真の魂のいやしがないのです。

神様は昨日も今日も明日も、未来いつまでも変わらない方です。皆さんは間違った福音に基礎を置いた、偽りのいやしや、病気の治療にだまされ、それを信じているのではありませんか。

ほんとうの、神様の力による病気の治療はもちろんあります。しかし、現代の多くの人々は、間違った病気のいやしに興味を持ち、自分の品性の治療には興味を持っていないのです。

神様の御言葉によって生活を見直し、服従することもないまま救いだけを望む間違った信仰のせいで、現在、神様の教会は乱れています。神様を信じる人は絶えず神様の御心を行わなければなりません。主の戒め通り生きてない人は、信仰を持っているとは言えません。神様の戒め通り生きる生涯のことを信仰と言います。

アブラハムは信仰によって生きました。信仰をただ理解したのではなく、信仰通りに生きました。人間の服従なしで、ただ救われることだけを求める信仰は無意味だということを、私たちはよく分かっていないのです。

私たちが神様の戒め通りに生きるために屈服し、選択し、力を尽くし、聖霊を毎日受け入れるようにすること、それは行いによる救いではありません。私たちの屈服と犠牲と選択という、私の意思表示の行動が伴わないなら、神様は働こうにも働くことができないのです。私たちの選択と神様の力が合わせられた時、私たちの生涯に変化と救いが起きるのです。

信仰とは神様の力を信頼する事です。主の約束を信じる事です。信仰とは聖書の御言葉に基づくのです。主の戒め通り生きる生涯に基づくのです。

神様の真理と御言葉を信じるというのは、その言葉通り生きると言う意味です。それでイエス様は、あなたがたは私を信じると言いながら、なぜ私の言葉に従わないのか、と質問されたのです。

 

長血を患っていた女性は、イエス様に会いたいと思って出かけましたが、大勢の人がイエス様のまわりにいたので、イエス様に近づくことが出来ませんでした。今も、多くの人が教会に通っています。しかし、ある人は、真面目に自分の罪のいやしを求めてきた人を邪魔することがあります。その時も大勢の人が主のまわりにいたので、病気を治してほしいと切に求めてきたこの女性の邪魔になっていました。それでも、この女性は全力でその群れの間を通り抜けてイエス様のみ衣に触れました。

その時イエス様の中から力が出て行きました。いやしの力がその女性に入りました。その時その女性は自分がいやされたのを感じました。素晴らしい経験です。

皆さんはイエス様をご存知ですか? 主に本当に霊的な心で触れ、いやされた経験がありますか? それが信仰です。イエス様の力は常に同じ所にあります。常に同じ所で私たちを待っておられるのです。問題は、イエス様の力が出て行くか出て行かないか、主が私たちの近くに来られるか、来られないかということではありません。主は常に同じ所におられるのですから、私たちが全身全霊を込めて主に触れる信仰があるかないかが問題です。

御言葉に従順な信仰、屈服する信仰、ほんとうに罪を悔い改めた信仰、見い出した主の真理通りに生きようとする信仰、その信仰を持って主に接触する時力が与えられるのです。神様の御心通りに生きる信仰に力があるのです。主の約束を信じる信仰にいやしがあるのです。

 

ヨハネによる福音書1421,23,24,30,31にこう書いてあります。

14:21わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

14:23イエスは彼に答えて言われた、『もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。 14:24わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である』」。

14:30わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。 14:31しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう」。

 

イエス様がこの地上に来られた目的は大きく二つあります。一つは、私たちの罪の代わりに十字架で亡くなられ、私たちの罪を贖うために来られたことです(神の子キリスト)。そして、二つ目に重要なことは、人間の肉体をとって人間として生きながら、サタンのすべての誘惑と罪に勝利する模範を私たちに示されたことです(人の子キリスト)。私に出来たのだから、あなたがたも出来るのだ、私と同じ聖霊を受けるなら、あなたがたにも出来るのだ、ということを現してくださるためにこの地上にこられたことです。

それでイエス様は、「私が父の戒め通りに生きることを、あなたがたに現すためにこの地上に来た」と言っておられるのです。

 

もう1箇所見てみます。ヨハネによる福音書159,10節です。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである」。

私たちが主を愛するなら、主の戒め通りに生きるようになり、それが主の愛の内にあることだと言います。

ヨハネ第1の手紙320から22節に次のように書いてあります。

3:20なぜなら、たといわたしたちの心に責められるようなことがあっても、神はわたしたちの心よりも大いなるかたであって、すべてをご存じだからである。 3:21愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。 3:22そして、願い求めるものは、なんでもいただけるのである。それは、わたしたちが神の戒めを守り、みこころにかなうことを、行っているからである」。

この言葉をよく見てください。私たちが神様に願い求めるものは何でもいただけるのですが、それは私たちが神様の戒めを守り、御心にかなうことを行っているからなのです。

 

その日、イエス様がヤイロの娘を治療するために行かれる途中、長血の女性が全身全霊の信仰で主のみ衣に触れました。その日多くの人がイエス様のまわりに集まってきていました。大勢の人がいっしょに行動していました。しかし、真の信仰を持って主のみ衣に触れた一人の女性だけがいやされました。その女性の、心からの接触をイエス様は感じられました。

現在、多くの人が教会に通っていますが、真実な心でイエス様のみ衣に触れる人がどれほどいるでしょうか? そのような人は目立たない素朴な人かも知れません。人々に知られてない人かも知れません。しかし、切に神様に出会うことを願うので、霊的ないやしを経験をするのです。彼らが本当の信者なのです。

ただ教会に習慣的に通う人が多過ぎます。神様の御心の通りに生きるのでなく、自分の感情のままに生きる人は真実な信仰を持ってないのです。皆さんは今日も主の衣に全心で触れていますか? 皆さんの人生を、神様に真実に屈服されましたか? 

 

真実な悔い改めが皆さんの心にありますか? 主の戒め通りに生きておられますか? 主の御言葉の通りに生きていますか? 主の御言葉が私の心に間違いを指摘してくれたとき、それを悔い改め、主のみ心に屈服しますか? 罪を本当に捨てて勝利する聖霊の経験をしておられますか? それがイエス様のみ衣に触れた女性の信仰です。

アブラハムが私たちの信仰の先祖と言われているのはよくご存知ですね。彼はどのような信仰の持ち主でしたか? アブラハムは神様が何を言われても無条件に信じる、そのような信仰を持っていました。ただ信じていただけではなく、そのように行う信仰を持っていました。クリスチャンが真実に神様を信じるとはどのような事かを教える実例として、アブラハムを通して私たちに見せて下さったのです。そして、私たちはイエス・キリストの中でアブラハムの子孫になったとパウロは言いました。

アブラハムはとても理解出来ないような神様の要求でも、神様を信頼して行動しました。信仰とは主の約束を信頼する事であり、神様の御言葉を絶対に信じる事です。信じると言いながら、自分に都合が良いときだけ信じ、神様の戒めが自分にとって不都合になったら従わないというのは、真実の信仰ではありません。そのために、多くの人が神様を信じると言いながら、真の魂の治療が受けられないのです。

神様は昨日も今日も明日も、変わることのない方です。昔起きたことは今も起こるのです。神様は御言葉によって世界を創造された方です。神様が「光あれ」と言われると光ができました。言葉で世界のすべてを創造された力ある神様です。

皆さん、皆さんは創造主なる神様を信じますか? 主の御言葉を信じ、聖書を信じ、主の約束を信じますか? この聖書の約束を信じ、主の御心に屈服し、私たちを犠牲として捧げ、神様に従って生きる時、イエス様のみ衣に触れることができ、主の力が私たちの人生に入って来るのです。

イサクを捧げる完全な屈服の信仰、最後まで忍耐する信仰、そのような信仰が今私たちに必要です。

 

 

 

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多くのクリスチャンは

十字架で亡くなったイエス様を信じれば無条件に

救われて天国に行くと信じていると思います。。

 

 

 

私も以前までは

そうやって妄信していましたガーン

 

 

しかし聖書は決してそう教えていません。

それならサウロもユダも

皆救われなければいけませんね。

 

 

 

イエス様を信じる事とは何でしょうか?

罪の赦しとは何でしょうか?

福音とは何でしょうか?

 

 

本日の説教はその内容について

語っていますドキドキ

 

 

 

 

 

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聖書は66冊の本が一つになった百科辞典のようなものです。ところが、この本の内容の一貫性は驚くほどのものです。聖書は違う時代に、違う人物が書いているにも関わらず、内容の焦点や方向性は完全に一致しています。

聖書の預言が一致しており、伝えようとしている教えが同じです。全く同じ人物が書いたように一致しています。まさしくこれは歴史と人間を導かれる神様の霊感の本に違いありません。この本は神様と真理を表す唯一の本です。

聖書は堕落した人間の回復ということを扱っています。創世記は、人類が元々住んでいたエデンに関する記録から始まります。そして人間がどのようにして堕落して、エデンから追放されたかを記録しています。それから、聖書の最後の本であるヨハネによる黙示録は、回復されたエデンに関する記録で終わります。とても興味深いですね。

聖書は、神様が堕落した人類を回復するために介入された歴史を記録しています。神様が最初この地球を創造された時に、良しとされたと聖書は言います。そして、黙示録には回復されたエデンが記録されています。死や悲しみのない、新しいエデンがこの地上に回復されることが書かれています。

ヨハネの黙示録22章1節から5節に次のように述べられています。

「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する」。

 

創世記は私たちの先祖がどのようにしてエデンを失ったかを説明していますが、黙示録は美しいエデンがこの地上に回復し、義人が暮らすようになることを説明しています。

この地球の回復は、まず、堕落した人間の心から始まります。皆さん理解しておられますね? 神様がこの地上を新しく再創造される前に、堕落した人間の心が回復されなければなりません。

救われた人類が暮らすことになる新しい天と地は、私たちに嗣業として与えられます。イエス様はそれを成し遂げるためにまもなく再臨されるのです。

私はそのことを全身全霊信じています。この地上は新しく生まれ変わるのです。

もう、死はありません。もう、悲しみはありません。もう、苦しみはありません。もう、争いもありません。

しかし、その前に私たちの心の中にある罪が治療され、回復される必要があります。ですから、救いとは回復です。福音は回復です。そうでないとこの地球は回復しません。

この地上で暮らす人々が回復されることで、この地球の表面が回復されるようになるのです。たとえ、この地球が美しく回復されたとしても、その中で暮らす人々が義人になり、罪の根本原因が治療された状態に回復されなければ何の意味もないのです。そうでないと、再びこの地球は罪と反逆に染まるようになるでしょう。しかし、このような回復は神様が強制的になさるのではありません。

罪の根本原因は、高慢であり利己心です。イザヤ書14章13、14節にこのように書いてあります。

「あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』」。

 

サタンが反逆したとき、彼の心がどれほど利己心や高慢さに満ちていたか聖書はこのように表現しました。そして、サタンの誘惑に負け、罪を犯して堕落した人間たちはこのような心を持って生きているのです。

このような心が治療されなければなりません。罪に沈んで悪くなった心が治療を受け、回復された状態を、聖書は神様の律法を守る者と表現します。福音によって回復された者を、神様の戒めを守る者だと宣言しています。聖書の最後の書である黙示録にそう書かれています(黙示録1412)。

神様と顔を合わせて生きる人は清いものでなければならないと聖書は言います。清くならなければ誰も神様を見ることが出来ないと聖書は言います(ヘブル1214)。

モーセは神様の栄光を見せてくださいと頼みました。それまでモーセは、神様の力と御業を見てきました。しかし、直接神様の御顔が見たいと神様に頼みました。神様の約束を確認したくて、神様の御顔、栄光を見ることを望みました(出エジプト331819)。その時神様は、岩の間にモーセを隠してその隙間から後ろ姿だけを少し見せてくださいました。それを見たモーセの顔からは神様の栄光が輝き出たことでしょう。

神様はすぐにでもモーセに顔を見せ、抱きしめてあげたかったかもしれませんが、そうできませんでした。堕落した罪のある人間が、神様の純潔で神聖な栄光の御顔を見るなら死んでしまうからです。ですから神様は、私の顔を見るならあなたは死ぬと言われました。そこで神様はご自身の後ろ姿だけ少し見せてくださったと聖書は記録しています(出エジプト332023)。

神様は私たちと一緒にいたいと願っておられます。人間が堕落した結果、神様と会うことが出来なくなりました。それで神様は、この地上にご自身が下りてこられる計画を立てられたのです。

失われた羊のたとえ話を考えてみましょう。99匹の羊をおりの中に置いて、失われた1匹の羊を探しに来られたイエス様、それはこの広大な宇宙をあとにして、堕落したこの地球にいる人間を救うためにこられたたとえ話です。

迷子になった子供を見つけ出して、抱きながら帰ってくる映画があったら、人々は最後の場面で大きな拍手をするでしょう。それで神様が人類を回復され、天の家に帰ってくる時、天使たちが大きな声で讃美をするのです。

ヨハネの黙示録21章3、4節にこう言われています。

「また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。

 

主がこの地上に来られる時、この地上は新しい地になります。心が変わり回復された義人だけがそこで暮らせるのです。イエス様の十字架を信じるだけで救われる、信仰とはそれだけだと思わないでください。

イエス様の血は私たちを変えてくれます。心が義なる心に回復され、清くされた経験のない人は誰も天に入ることはできません。

現代は、妥協した福音で多くの人がだまされています。

皆さん、お父さんが帰ってきたら子供たちは喜ぶのが正常ですね。お父さんが帰ってくると逃げて怖がる子は何かがおかしいですね。

イエス様がすぐに再臨されると聞いたら、皆さんはどのような気持ちでしょうか? 恐くて逃げたいですか? それとも期待にあふれて待ち遠しでしょうか?

罪を犯した後、アダムとエバは隠れました。彼らがあれ程好きだった神様の前から、彼らは逃げ出しました。なぜでしょうか。罪を捨てないで、罪を悔い改めないで、罪を心の中に抱いているからです。

それで、イエス様が人間になって、この地上に来られたのです。人間が見ることが出来る神様の姿として地上に来られたのです。

御言葉が受肉され地上に来られたのです。ヨハネによる福音書1章14節に次のように書いてあります。

「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」。

 

イエス様とお会いした時、弟子たちは神様を見たような栄光を見たのです。目に見える光ではありませんが、イエス様の生涯を通して神様の美しい品性を見たのです。

 

コリント人への第2の手紙4章6、7節に次のように述べられています。

「『やみの中から光が照りいでよ』と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである」。

 

イエス様が人々にどのように接していかれたか、また周りで起きる出来事をどのように乗り越えて行かれたかを見ると、そこに神様の品性を見ることができるのです。

箴言4章18節にはこうあります。

「正しい者の道は、夜明けの光のようだ、いよいよ輝きを増して真昼となる」。

 

暗い部屋から、雪が真っ白に積もった明るい屋外に出ると、まぶしくて目を開けておられません。暗闇と光の眩しさがあまりにも対照的なのです。

私たちが暗闇の中から主の光を見ると、だんだん明るくなり、最後は完全な光にまでたどり着くようになるのが義人の道だと聖書は言っています。

ヨハネ第一の手紙3章1から4節にこのようにあります。

 

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」。

 

皆さんご存知ですか? 清い生き方をすることは、救われるための条件です。清い品性に変えられていなければ、私たちは天に行くことはできません。それも、神様を突然愛するようになるのではなく、それが私たちの習慣にならなければなりません。私たちの心の中に真実な変化が必要です。

皆さん、私たちはなぜ天国が好きですか? なぜ天国行くことを望むのでしょうか? 天国に黄金の道があるからでしょうか?そこに立派な家があるからでしょうか?

そのように天国の目に見える美しさが好きだから行きたいと思うなら、何日か過ぎた後は退屈になるかもしれません。とても美しい良い観光地でも何日か過ぎたら、退屈になるのと同じです。

天国には、私たちを罪から救って下さった神様がおられます。そこには罪がありません。義人だけが存在します。清く、尊敬出来る私たちの愛する神様がおられるので私たちは天を恋しがるのではないでしょうか。

青年の中である方は言います。先生、天国には結婚がありませんよね? それなら、イエス様が来られる前に、早く結婚したいですね。

天国は私たちの望むことが実現できるから恋しいのではありません。もし、義なる心を持っている人だけでなく、罪を抱いている者が行くなら天国は退屈で暮らすことができません。

以前、私の集会に信仰のない夫を連れてきた女性がいました。その奥さんは期待しました。先生の説教で夫が悔い改めるのではないかと。しかし、その夫はその集会が退屈になりました。そして、他の信仰のない人と意気投合し、外にお酒を飲みに行きました。酔った二人は集会の場所に戻ってきました。その時奥さんは胸を叩きながら、悲しみました。

霊的な雰囲気や、清い神様の御言葉を好む心は、ある日突然起きるのではありません。心が神様に屈服する長い経験が必要です。天国は生まれ変わってない人には退屈でつまらない場所にしか思えなくなります。

ですから、この地上にいるときから、天国に属することを愛している人が天に行くようになるのです。

まだ天にふさわしくないものを持っていませんか? 洗い流してください。

イエス様の血は洗い流す力があります。皆さん、悔い改めてください。偶像を捨ててください。天にふさわしい心を持ってください。清い生き方を好む経験を深めてください。

私たちが望むなら私たちは回復されます。福音は回復です。元の状態に戻るのです。私たちの肉体が永遠の命を受ける前に、私たちの心が変わらなければなりません。

私たちの趣味が変わらなければなりません。私たちの生涯の方向が変わらなければなりません。私たちの習慣や気質が変わらなければなりません。

皆さんは貴重な存在です。永遠に生きるために存在しておられるのです。しかし、もし私たちが、この地上で暮らしてやがて死んで滅亡するだけなら、私たちには土の価値しかありません。

私たちは永遠に生きるという望みの中で、価値のある存在になるのです。

ヨハネの黙示録22章17節でこう言われています。

「御霊も花嫁も共に言った、『きたりませ』。また、聞く者も『きたりませ』と言いなさい。かわいている者はここに来るがよい。いのちの水がほしい者は、価なしにそれを受けるがよい」

 

皆さん、命の水が欲しいですか?イエス様の前に来て下さい。イエス様は姦淫した女に、私もあなたを裁かないから二度と罪を犯さないようにと言われました。イエス様はこうに言われたでしょうか。あなたが二度と罪を犯さないなら、その時赦そうと、そのようには言われませんでした。なぜでしょうか? 人間の力ではできないからです。私たち人間が変わる力は、治療が終わった後に来るからです。骨折したら、傷がなおったあとリハビリをします。福音とはただ赦して救うことだけではありません。覚えていてください。

私たち人間が体に傷を負うと、まず傷口がくっつき、それから回復するようになります。そのあと使えるようになります。心の傷も同じです。私たち人間は心と魂と精神が壊れています。傷を負っています。病気にかかっています。

 

心の病である、利己心や自己欺瞞、罪を愛する心、偶像を好む心、自分の名誉のために生きる心、神様より自分のために生きる心、主のみ心と律法を守らない心、このような心が治療され、回復されなければなりません。それは罪という病気です。罪の病気が治療を受けなければなりません。

皆さんご存知ですか? その病気の治療はイエス様の血しかありません。

なぜでしょうか? 十字架の前で私たちは何を感じますか? 主が私のために何をしてくださったかということを感じます。主が私の罪を背負ってくださった、素晴らしい愛と恵みを感じます。その恵みを知った時、私たちはどうなりますか? 罪を憎むようになります。

皆さん、聖所制度を見てください。聖所制度で何を感じますか? 罪人が羊を連れてきます。羊は何を象徴していましたか? イエス様を象徴しています。

羊の頭の上に手を置いて自分の罪をすべて告白します。そうすると罪が羊に移されます。罪人が心から悔い改めて罪を告白するなら、その罪の責任と刑罰がイエス様に行き、イエス様がそれを負われるのです。

皆さん、皆さんの罪は今どこにありますか? 皆さんと一緒に皆さんの中にありますか? それともイエス様に移されましたか?

私たちが滅びるのは罪を犯したからではありません。罪を悔い改めないから滅びるのです。皆さんの罪は今どこにありますか?

まだ、罪を真実に悔い改めず、やめないで、捨てていない方はいませんか?

主の前に出てきてください。

皆さんの妻や夫は知りません。皆をだます事はできるかもしれませんが、神様はだませません。主の前に出てきてください。

ローマ人への手紙1章16節を見てみましょう。

「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」。

ここで福音とは、ただ私たちを救う嬉しい知らせだと言っていません。信じる人に救いを与える神様の力だと言われています。力です。イエス・キリストの福音は、イエスを信じる福音は、私たちの心の中の罪を破壊し、罪に対する執着や欲望を破壊し、偶像を好む心を破壊して、私たちを回復させるのです。

福音は私たちの過去の罪を赦すけれども、心の中はそのままで、ただその上からきれいなカバーで覆うようなものではありません。それなら主が偽りを言われる方になってしまいます。

神様は偽りを言われない方です。神様が私たちを義人だと言われる時、私たちの心を義なるものにし、私たちを義人と創り変えてくださるのです。

皆さん、神様に心を開いてください。

皆さんの心の中に、どんな問題がありますか? 主がいやして下さいます。福音は回復です。私たちが福音を信じる時、イエス様が私のために十字架で代わりに亡くなられたことを信じる時、十字架で苦しみながら亡くなられたイエス様の赦しと命そのものが私たちに与えられるのです。本来なら、恵みも憐れみも届かなくなって永遠の滅亡を受けるしかない罪人の代わりに、イエス様がそれを受けてくださったのです。そして、信じる人にイエス様の新しい命を与えてくださるのです。創造主なる神様、律法をお作りになって、罪が何であるか、義が何であるかを判断される神様だけがそのようなことをおできになるのです。律法を制定された神様だけが、私たちを創造してくださった主だけが、私たちの罪を代わりに背負うことがおできになります。

 

そのような福音を知る時、私たちの心は感激し、恵みで溶かされ、神様のみ言葉を信じ、悔い改め、私のすべての罪を神様に捧げるようになるのです。

イエス様を十字架に釘づけ、苦しませたその罪を捨てることを望むのです。罪を全身で憎む心が芽生えます。

それが福音の力であり、福音の回復です。

皆さん、神様の御言葉を信じて下さい。御言葉を信頼する心を求めて下さい。主が皆さんを治療してくださいます。私たちの救い主は創造主です。無から有を造ってくださった方です。私たちの心を新しく再創造される方です。ですから聖書は、私たちが生まれ変わる経験をする時、新しい被造物になったと言うのです。それは新しく再創造されたという意味です。新しく造ってくださったという意味です。

現代では、心が変えられることもなく、罪に勝利することもない安易な福音、安っぽい恵みの教えが、福音として広まっていますが、それは偽りであり、聖書的なものではありません。人々は世への愛着を捨てることもなく、自分を犠牲として捧げることもなく、罪を捨てなくても、救われたような気持ちにしてくれる福音を信じています。心が変えられ、きよめられる経験もなく天国に行けるというような福音は聖書的ではありません。

福音には皆さんを回復させるパワーがあります。皆さん信じてください。そのことが皆さんにも起きるのです。

 

 

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皆さん、おはようございます爆  笑ラブラブ

 

 

皆さんはマタイによる福音書16:24

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」

 

 

 

という御言葉を耳にした事はありますか?

 

 

私は初めてこの御言葉を耳した時

正直意味がよく分かりませんでしたあせる

 

 

 

しかし2年程前に聖書の真理を知って

心が創りかえられて人生が変わってからは

この御言葉の意味が少しずつ

分かるようになっていったのです。

 

 

 

聖書の真理を知った当時

私は某大手航空会社にて客室乗務員をしていたのですが

当時昇進を目前に控えていて

会社でも常に上司や仕事仲間との人間関係も良く

満足のいく収入もありましたおねがい

 

 

しかし聖書はハッキリと

安息日を守るようにと命じているので

 

 

 

最初は安息日を守るためには

今の地位や仕事や人々からの称賛も

すべて捨てなくてはならないと心のどこかでは分かっていましたえーん

 

地位や仕事や人々の称賛は

自分の中の渇きを埋めるための手段だったので

当時の私にとってはそれが

私の人生の多くの割合を占めていましたので

自分の心の中の感情は

 

 

 

 

「いやだ!!捨てたくない!!捨てられない!!どうやって生きていくの!!

 

と毎日デモを起こしていました笑い泣き

 

 

それはそれはまぁなんとも

激しい凄まじい善と悪の大争闘でした笑い泣き

 

 

しかし助かるためには

健康を取り戻すには

今の罪にまみれた奴隷生活から抜け出すには

自分を滅ぼす自我を捨てなくては

イエスキリストに付いていけないと

分かっていたのです。

 

 

 

信仰というのは人生をかけて

イエスキリストに付いていく事だと。

十字架を背負う事とはこういう事なのだと。

荒野で誘惑に遭われて

戦ったイエス様の気持ち

生涯を通して罪に負けなかったイエス様の気持ち

私達人間と同じ条件で

あらゆる誘惑と戦われたイエス様の気持ちが

初めて少しだけ分かったような

そんな貴重な機会でした。

 

 

救いとは神様との共同作業なのです!!

 

 

自分がそれまでに大切にしていた事よりも

イエス様の愛の方が

私にとってはかけがえのない価値があったので

自分の十字架を背負ってイエス様についていく決心をして早2年。。

 

 

日々イエス様の後を追うように

一歩ずつ赤ちゃんが成長していくように

信仰の道を歩ませて頂いているのですが

狭き道でありながらも

本当に豊かで幸せな日々です。。ドキドキ

 

 

イエス様が堕落した人間のために

十字架で亡くなってくださった愛と比べると

あの時自分がしがみついていた罪は

ちっぽけで何の価値もなかったと今は思えるくらいに

神様が私達人間を想う愛の深さは

計り知れないものです笑い泣きラブラブ

 

 

 

 

 

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神様が私たち人間を救われる方法は何でしょうか? 神様はどのようにして、罪の奴隷になっている私たちを救われるのでしょうか?

過去の罪の記録を赦されることはもちろんですが、実際に人々が今捕らわれている罪の力から救い出してくださる方法は何でしょうか。私たちは答えをよく知っています。神様が人間を罪から救われる方法は十字架です。

十字架は過去に犯した罪を赦すだけではなく、毎日、私たちを罪の習慣から、欲望の力から救う神様の力です。私たちの心の中から、罪の問題を解決してくださる唯一の方法は十字架です。

私たちが十字架を見上げ、十字架を瞑想するとき、十字架の下に私たちがひざまずくとき、世俗的で利己心に満ちていた心が空になり、イエス様のためだけに生き、主の栄光のために生きたいという願望が私たちの心からあふれ出すことを経験するのです。

十字架は神様が私たちを救われる方法です。どうして十字架には私たちを罪の力からあがなう力があるのでしょうか。多くの人は、十字架を私たちの罪を赦すためだけにあるものと思っています。私たちの罪を代わりに背負われた、イエス様の苦しみの経験としてしか理解していません。

しかしそれよりもっと深い意味があることを、私たちは理解しなければなりません。十字架はゴルゴタで始まりゴルゴタで終わったのではありません。十字架はその前から始まり、また今もゴルゴタの十字架の苦しみは神様の心の中から終わっていないのです。十字架は罪を背負われたイエス・キリストの肉体的な苦しみだけを表すのではありません。

もしそうなら、「パッション」の映画は正しいとされるでしょう。その映画では、あたかもイエス・キリストの肉体的な苦痛を通して私たちが救われるかのように表現されています。しかし、イエス様にとっては、精神的、霊的な苦痛がもっと大きかったのです。

十字架は天地創造以前から始まりました。そして今も続いています。十字架は神様のお心であり、品性そのものです。十字架は神様の特別な啓示です。十字架の愛や意味を正しく理解するとき、罪の力が私たちの心から去って行きます。

それでヨハネの黙示録13章8節にこう言われたのです。「地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう」(世の始めから殺された小羊のいのちの書に・KJV)。

 

ここに、世の始めからに殺された小羊とあります。不思議な御言葉です。これは何を意味するのでしょうか。イエス様は世の始まる以前から十字架の影の下で生きておられたと言う意味です。

もし、私たちが8時間後にトラックにひかれて死ぬことを前もって知っていたら、私たちの心はとても苦しいでしょう。イエス様はこの地上に受肉して来られ、この地で亡くなられることをすでに見通しておられたので、イエス様の苦しみは天におられる時からありました。

しかし、この地上に来られてから12歳のときに、十字架を背負うことを悟るようになられたのです。聖書を見てみましょう。

ルカによる福音書2章40節から52節を見てみます。

「幼な子は、ますます成長して強くなり、知恵に満ち、そして神の恵みがその上にあった。さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。イエスが十二歳になった時も、慣例に従って祭のために上京した。ところが、祭が終って帰るとき、少年イエスはエルサレムに居残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。そして道連れの中にいることと思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、親族や知人の中を捜しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引返した。 2:46そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、『どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです』。するとイエスは言われた、『どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか』。 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。

イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」。

 

6節から興味深い話があります。見てみましょう。

「そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞く人々はみな、イエスの賢さやその答に驚嘆していた。

 

イエス様は12歳の時初めて過越の祭に参加されました。ヨセフとマリヤは久しぶりに親戚や知人に会って、嬉しくて会話がはずんでいたためイエス様が一緒にいないことに気がつきかなかったのでしょう。イエス様を探しにエルサレムに戻ったら、イエス様がそこで教師たちと聖書に関して討論しているのを目にしました。

続きを見てみましょう。

「両親はこれを見て驚き、そして母が彼に言った、『どうしてこんな事をしてくれたのです。ごらんなさい、おとう様もわたしも心配して、あなたを捜していたのです』。するとイエスは言われた、『どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか』。 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった」。

「それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」。

この話を見ると、イエス様が成長されるとき人間と同じ立場で成長し、イエス様の理解力や知力が段々成長したとあります。すなわちイエス様が赤ちゃんとして生まれた時、天におられた時の記憶はなかったのです。

イエス様はもちろん神様でした。イエス様は人間として生まれましたが神様でした。しかし、イエス様は人間として成長する経験をなさったのです。イエス様は赤ちゃんのとき、大人のような考え方をなさったのではありません。

イエス様は東方の博士が訪ねて来たことを知りませんでした。自分が天に居たときのことを友達に説明出来なかったでしょう。

イエス様はすべての子供と同じような方法で、知識を学習されたのです。

イエス様は小さい頃空を飛ぶ鷹を見ながら、このように聞かれたことでしょう。「お母さんあれは何ですか?」。「あれは鷹と言うのよ。神様は私たちのためにあのような美しい鳥をつくってくださったのですよ」。

イエス様があの鳥を造られた創造者なのに、驚くような話ではないでしょう。

このように、完全に受肉されたイエス様を想像してみてください。イエス様についての神秘はイエス様の誕生にあります。神様が人間の姿になって、この地上に生まれ、肉体的に精神的に成長しながら罪のない生き方をされたのは、大きな神秘です。

しかも、イエス様が生まれたとき、イエス様の知識に超自然的な記憶は存在していなかったのです。イエス様はすべてを天に置いたまま誕生されたのです。そのことをピリピ人への手紙2章6、7節に次のように表現しています。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず」

イエス様が12歳になり、ものごとを深く考えることが出来るようになったとき、イエス様の心の中には、将来のことを予想する何かの思いが形作られたのでしょう。

イエス様が過越し祭に参加されたのが12歳の時でした。初めてイエス様は立派な神殿や白い布で体を包んだ祭司達が、血を流す供え物を祭壇に注ぐのを見ることができました。静かにそして敬虔な心で供え物の羊の意味を考えるようになられたのでしょう。しかし、祭司たちも他の誰もその意味を説明してくれませんでした。彼らはただ淡々と意味もなく儀式を行うだけでした。4000年間人々は自分の罪を赦してもらうために動物の血を捧げて来ました。聖所に行って羊やヤギを捧げました。しかし、子供たちが何故このような事を行うのですかと尋ねると、明快な答えは出来なかったでしょう。誰もこの神秘的な儀式の意味を説明出来ませんでした。

イエス様はそれを見ながら、牛やヤギの血が本当に罪をなくすことができるのだろうかと疑われたのでしょう。また過越し祭の時、聖霊様がイエス様の心に教えを与えて下さったのではないでしょうか。

幼いイエス様は、他の友達のようにいたずらや遊びはしないで、両親も理解出来ないような深い瞑想をしておられたのではないかと思います。

神殿の儀式で血を振りまくその場面は、幼いイエス様の心に深く染み込んだことでしょう。使徒パウロは動物の血が私たちの心を清めてくれないことを初めて知ったイエス様の心に、どのような変化があったかをヘブル人への手紙10章で説明してくれました。

「なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」(ヘブル104―7)

聖霊様はイエス様にささやかれたでしょう。「イエスよ、この犠牲になっている羊が世の罪を背負っていくあなた自身です!」。

それは12歳のイエス様の心に、深く印象付けられ、感動されたことでしょう。

イエス様は天におられたときから私たち人間のこの苦しい罪を、代わりに十字架で背負う事を決心しておられました。12歳の時、過越し祭の羊を見て、深い献身とともに、人間として私たちのために過越祭の羊になることを決心されたのです。

その日イエス様は、人類の救いのために、重要な決心をされたはずです。イエス様は、天で私たちのために十字架を背負う決心をされただけではなく、この地上に来られて苦痛の中で生きながら、私たちみじめな人間の罪のための身代わりとして死に、その罪を取り去ってくださることを、もう一度決心されたのです。

そのことが、ヘブル人への手紙10章5節から7節に述べられています。

「それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、『あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。

これが十字架につかれるとき、イエス様がされた証です。それは、神様のみ心をご自分の生涯に受け入れられたことです。イエス様はこの地上におられたとき、私たちのために十字架を背負うことを決心されたのです。

天でこの地球が作られる前に、平和の協定が神様とイエス様の間にありました。それがゼカリヤ6章13節にあります。

「その位のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間に平和の一致がある」。

イエス様はご自身で犠牲の神の小羊となって、世の罪を清める決心をされましたが、イエス様はこの世界が創られる前に神様と交わしたその契約を、地上におられるとき覚えておられませんでした。

しかし、イエス様の罪に汚れていない清い心は、過越祭の儀式を見たことによってその象徴の意味を少しずつ理解し始められました。聖霊様が語られ、イエス様は御言葉に満ち、心に光が射してきて、もっとよく儀式の意味を理解されるようになりました。イエス様は幼い頃から聖書をよく読み、暗記しておられた方です。その御言葉を通して聖霊様がイエス様を導いて下さったのです。

イエス様は象徴の意味をよく考えられ、罪のない純潔な誰かが、神様の小羊として死ぬことで、失ったものを取り返せることを悟られました。

目の前の無意味な儀式は終わり、象徴ではなく真の犠牲が供え物として捧げられなければならないことを、イエス様は理解されるようになったのです。

そのことは、イスラエルの律法学者や祭司達が、数千年間儀式を繰り返してきても悟ることが出来なかったことです。彼らは、やがて、王としての権力を持ってこられるメシヤを待ち望んでいたのです。私たちの罪のために十字架を背負われる、罪からの救い主を待っていたのではありませんでした。

しかし、人々が数えきれないほど目にしてきた象徴制度を、ただ一回目にしただけで、12歳の少年イエスはその意味の中心を理解されたのです。

イエス様は天におられたときから決心しておられました。十字架を背負う事を決心しておられましたが、12歳の時、もう一度私たち人間の罪のために十字架を背負うことを選択なさったのです。

私たちが聖書を研究するのも同じことです。聖霊様の教えを受け、聖書の意味を正しく理解し、それを自分自身の生涯に適応するためです。聖書を開きます。その中にあるすべての象徴や真理を研究します。その時聖書を記録された聖霊様が私たちにささやかれて、聖書の中の象徴や意味を理解させてくださるのです。これが聖書の御言葉を研究する本当の姿勢です。

ところが、私たちは聖書を研究し聖霊様の声も聞いているのですが、十字架を背負うことを拒みます。私たちが、救われる方法はただ一つだけです。それはイエス様が選択なさった同じ道を、私たちも自分の生涯の中で選択し続けることです。

皆さんご存知でしょうか? 二つの十字架があります。イエス様の十字架と私たちが背負う十字架です。イエス様の十字架とあなたの十字架、イエス様が背負った十字架と私たちが背負わなければならない十字架があります。

私たちのとうとい模範であるイエス様が背負われた十字架は、私たちが自分の十字架を負うことを背負いやすくしてくださいます。イエス様の十字架を理解する事により、私たちは自分自身の十字架を発見し、喜びながらこれを背負う力を得ることが出来ます。

私の罪のために、ものすごい肉体的、霊的な苦痛を背負われたイエス様を見上げるとき、私たちの罪を赦すために御自分を捧げられた犠牲を見るとき、私たちも、私たちの負うべき十字架を背負う勇気と力が湧き上るのです。

イエス様は手を釘で打ち付けられたために、ご自身の顔を覆うことができませんでした。それで神様は、暗闇を与えて十字架の光景を覆われました。そして人々からイエス様の顔を隠されました。

人間はとても残酷です。それに対して神様はどれほど慈悲深い方でしょうか。息子の最後の苦しみを暗闇で隠してくださる思いやり深い愛。天使達にも見せたくなかったキリストの最後の苦しみの場面! 天使達も見ることができないようにイエス様の苦痛を暗黒で隠されました。永遠の滅びから私たちを救うために、十字架にかかられたイエス様の苦しみの御顔を見えないように隠された父のあわれみ!

しかし、最後の場面を隠された神様の愛は、天の法と、あがないと、愛の原則を全地に明らかに示されました。

愛する一人息子を諦め、息子を私たちのために罪の世界に送られた愛、もしイエス様が地上におられたとき、一つでも罪を犯されたならイエス様は救い主になることはできなかったのです。

イエス様自身の目の前から希望は全く見えなくなりましたが、愛によって忍耐されました。

コリント人への第一の手紙13章13節にこのように書いてあります。

「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」。

イエス様が最後の試練を通過される時、ただ滅びようとしている人類に対する愛だけが満ちていました。しかし、イエス様には復活と永遠の命の希望はありませんでした。自分が復活出来ない可能性があっても、私は十字架を背負いますという、たとえようもない愛を私たちに現して下さったのです。それで、愛は「全てを耐える」(1コリント137と言われているのです。

イエス様が十字架で亡くなられる時、すべての希望は消え去りました。しかし、イエス様がもっておられた愛はそれを耐えさせました。

私たちの生涯も同じです。イエス様の生涯において、人を愛する心がすべてを耐えさせたように、私たちも私たちの人生で背負う十字架の苦痛を愛によって耐えることができるようになります。

聖書は「信仰と希望と愛」、この三つの中で最も大いなるものは愛であると言います。

イエス様はマタイによる福音書16章24節で言われました。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。

イエス様は、これから救われる人たちの喜びを見て十字架を耐えられました。私たちにも十字架があります。私たちが主を信じ、真理の道を歩み、聖書の導き通りに主に従う時、私たちが背負うべき十字架が私たちに迫ってきます。

皆さんは十字架をどのように背負っていますか? 主を信じ、赦され救われることは好きでも、主が与えられる十字架を背負うのをいやがり、その十字架を拒んではいませんか?

二つの十字架があります。イエス様が背負われた十字架と、私たちが背負う十字架です。主は天において私たちのために死ぬことを決心され、この地上でも私たち人間のために十字架を背負うことを決心され、愛によって最後のゴルゴタまで行かれました。

私たちも主の愛に満たされ、主の愛が私たちの心の中に根付いたら、主のように十字架を背負えるようになります。

私たちに与えられる十字架があります。イエス様を受け入れ、イエス様を救い主として受け入れるとき、私たちは自分の十字架を受け入れることができるのです。十字架の苦痛は私たちの自我を殺し、私たちを罪から解放させ、主のみ心のままに生きるようにしてくれます。十字架には私たちを罪の力から解放させてくれるエネルギーがあります。主の十字架を見つめて歩みましょう。皆様の上に神様の恵みと平安がありますようにお祈りします。

 

 

 

 

 

 

 

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