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信仰と感情は関係あるのでしょうか?

 

 

もちろんあります。

 

 

 

 

 

しかし信仰生活は決して

感情に振り回されてはいけません。

 

 

私は、真理を知るようになるまでは

いつも感情で自分が信仰的かどうかを

判断していましたガーン

 

 

なんだか気分が沈んでイライラして愛が持てないような日は

罪人で救われないと落ち込んだり

自分が良いクリスチャンだと思えなかったり

 

 

逆になんだかよく分からないけど

長い時間祈ってなんだか気分が良くて誰に対しても親切に出来る日は

良いクリスチャンだと自信が持てたりしたのですが

このような偶像礼拝しているような信仰は

決して聖書が教える信仰ではありませんガーン

 

 

 

 

 

聖霊とは何か霊能力のようなパワーなのではなく

私達を真理の中に導いて

真理を教えてくださるのですニコニコ

 

真理をきちんと知り

理解できるようになってから

信仰が自分の感情に振り回される事もなくなって

今はどんな事があっても

聖書の御言葉、真理が第一優先なのですドキドキ

 

 

 

感情と信仰がぶつかった時は必ず信仰すなわち

御言葉を選んでそこに固く立つべきです!!

 

 

 

 

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信仰生活に感情は必要でしょうか?もちろん必要です。人間は感情を持った生き物です。ですから、感情を捨てて、冷たくて生命力のない信仰生活を送るようにと言っているのではありません。私たちが信仰を持って主を賛美する時、心の中に喜びの感情が生じます。私たちが十字架を思い、主の恵みを感じる時、私たちの心の中に悲しみと感謝の感情が湧き起きるのです。感情は必要です。しかし感情が最優先され、感情が私たちの信仰生活にとって一番重要なものとなるのはいけないのです。私たちは目に見えない信仰によって生きるべきで、目に見えるものによって生きてはならないのです。

私たちは真理の通りに信じなければなりません。私たちは感情よりも聖書の約束を信頼する理性的な信仰を先に持つべきです。その時私たちには当然感情が起きてきます。しかし、感情が優先されるのは危険です。そのような時は神様にお祈りしてください。「主よ、私は今、正しい信仰生活をしていますか?」。このようにいつもお祈りしてください。

イエス様はヨハネによる福音書16章13節でこう言われました。

「けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう」。

聖霊が来られると、私たちがすべての真理を全部受けるとは教えていません。真理を悟ったことを感情的に知るようになるとも言っていません。あなたがたが聖霊を受けると、聖霊が真理の中に導いてくれると言っています。聖霊を受けた証拠は、聖書のすべての真理を正しく理解する経験の中に導かれることです。そして、とどまることなく真理を学び続けていくことです。

また、ヨハネによる福音書16章8節に次のように述べrreています。

「それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう」。

聖霊様は私たちの心の中に来られて、私たちの中にある罪を悟らせてくださるのです。それによって救い主の血を必要とし、悔い改めるように導いてくださる方が、まさに聖霊様です。

聖霊様は私たちに主を必要とする心を与え、真理に導き、私たちの品性を変化させてくださいます。

聖霊を受ける条件は何か分かりますか。神様の御言葉と真理に喜んで従うことです。サタンは抜け目ない者です。彼は偽りの聖霊運動を広めています。サタンはだます者です。気をつけてください。すべての試金石は聖書です。神様の御言葉です。

このように記録されています。

「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。

私たちが肉の欲に屈服するなら、私たちの心に聖霊様はおられないと言っているのです。私たちの肉の欲と、聖霊は互い相さからうとあります。それなら私たちは聖霊に従い行うべきです。毎日聖霊を選択し、聖霊に屈服するべきです。

そうすると私たちの心に何が起きるでしょうか。聖霊の実がみのります。

それは何でしょうか。「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制です」。

忍耐心を持ち、利己的によって生きない歩み、主の命令と御言葉を優先するイエス様の品性が私たちの心に刻まれるのです。これが聖霊を受けた証拠です

私たちは真の聖霊を受けなければなりません。真の聖霊の力が必要です。私たちを変化させ、救いの喜びを私たちの心にもたらす真の聖霊を受けなければなりません。真理に導いてくれる聖霊を私たちは受けるべきです。

皆さんの人生に、品性のどんな実がみのっていますか。皆さんはどのように生きておられますか。私たちは真の聖霊を受けた証拠が何か、良く理解しておくべきです。

私たちの信仰生活で感情は必要ですか? もちろんです。

しかし、その感情が私たちの意思や信仰の上にきてはいけません。私たちが意志によって真理に従い、信仰を持って生きていくなら感情も伴いますが、真理に従う私たちの意志が、感情に支配されてはいけません。

信仰と感情の関係は大事です。私たちの信仰生活の中で、感情は必要です。しかし、真理を優先し信じてください。

目に見える超自然的な現象を追求しないでください。感情を求めないでください。

朝目覚めた時、風邪を引いて具合が悪い時、自分はもう信仰がなくなったのではないか、聖霊が私から離れていったのではないかと誤解しないでください。皆さんが今持っておられる、主の御言葉の約束を信じる信仰生活を土台にしてください。

 

 

 

 

 

 

 

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クリスチャンになって

罪というものが深く分かった時に

過去の自分が汚れすぎていて

滅びるしかないと絶望的になっていた時がありましたぐすん

 

 

クリスチャンになってからも

何度も倒れてしまう時も

自分はクリスチャンでいれる資格がない。

神様の娘失格だと思って苦しんだ時期がありました。。

 

 

こんな私はさすがに

聖なる天国には入れないし

相応しくない。

 

 

 

 

しかし神様は何度も私達に語っておられます。

 

 

 

十字架を見上げなさい。

何度も倒れてしまう自分の足元を見て

ロープを渡るのではなく

目的地である前と上を見なさい。

 

 

 

 

一本の細いロープを渡る時に

足元ばかり見ていたらどうなるでしょうか?

きっとバランスを崩して落ちるでしょう。

しかしきちんと胸を張って

前を向いてバランスを取りながら渡ったらどうでしょうか?

 

 

 

 

人生はリセットされる事によって

生き直す事ができるのです!!

 

今からでも遅くないです!!

 

 

 

鳥かごから解放された鳥が

大自然の中で羽ばたきながら新たな出発をせずに

何度もかごに戻ってくるのは

解放してくださった方が望んでいる生き方ではありません。

 

 

 

 

 

 

自分の足りなさではなく

解放してくださった方の愛に目を向けてみませんか?

 

 

 

 

 

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皆さん、一週間の間ご機嫌いかがでしたか? 違いますね。一年間いかがでしたか?

皆さん去年は永遠に去りました。新しい年が始まりました。

イエス様がこの地上に来られ時がもっと近付いてきました。今年はどのような事が起こるのでしょうか?聖書にあるどの預言が成就するのでしょうか? 皆さんはこの新年を迎える心の準備は出来ていますか?

皆さんの心は、今何で満ちていますか? 大きな期待で満ちていますか? それとも何も考えずに何の期待も希望もありませんか? ストレスと心配事や悩みで新年を迎えてはいませんか? 皆さんは今どのような心で新年を迎えておられますか?

 

実に多事多難な一年が過ぎました。多くの災難がありました。洪水と飢饉と地震がありました。多くの人々が亡くなりました。戦争がありました。しかし、イエス様は私たちに新しい一年を与えてくださいました。新しい年を始めるこの時に、神様は私たちにどのようなメッセージを持っておられるのでしょうか? 今日はこの新しい年を迎える私たちの心構えについてお話します。

皆さん、気をしっかりして心を整えて、集中してお話を聞いてください。

 

神様が人間を創造された後、人間に与えてくださった最初の贈り物は何かご存知ですか? それは物でもなく、空間でもありません。一番初めに人間に与えてくださった贈り物は時間です。時間を一番最初の贈り物として与えてくださいました。神様と交わる時間を与えてくださいました。創世記2章1節から3節までの御言葉を読んでみましょう。

 

「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」

ここに実に尊い御言葉が書かれています。神様が私たちに一番最初に与えてくださったのは何でしたか? 時間です。人間が神様の中で真の安息の時間を持てるように私たちに与えてくださったのです。

私たち人間が創造された後、一番最初に主が私たちに与えてくださったのは、物や、空間ではありません。そのようなものの前に時間を与えて下さいました。

なぜでしょうか? 人間は、物や空間をもっと占めるために存在するのではありません。すなわち、お金をもっと稼ぐためや、もっと大きい家を所有するために生きているのではないのです。

 

皆さん、私たち人間にとって、時間をどのように過ごすかということに真の幸せと人生の意味があるのです。何をどれだけ所有しているのかではありません。しかし、そのことを忘れた人間は、物と空間の奴隷になり、もっと多くを所有することや、もっと多くを占めることに夢中になり、真の安らぎがないのです。

ほんとうの神様との時間を共有しないので、ほんとうの幸せと喜びを味わえないまま生きています。限りなく所有しても、限りなく稼いでも、どれほど高い地位に上がっても、真の幸せがないのは、神様が私たちに一番最初に与えてくださった時間の過ごし方の中にしか私たちの心の幸せが存在しないからです。もし時間がないなら私たちが持っている物、家、土地、何ひとつ楽しむ事ができません。たくさん稼いだお金も、皆さんが病気になったら何の意味もありません。皆さんが亡くなったら、皆さんが成し遂げた物は全部無になってしまいます。皆さんが建てた家は他人の物になり、皆さんが稼いだお金は全部他の人の所有になりますね。結局私たちは時間がないと物や空間さえも楽しめません。

皆さん、時間が空間と物質に意味を与えるのです。私たちが時間をどのように過ごすかはとても重要です。しかし、人間が神様のこの計画を逆にしてしまいました。もっと多くを所有するため、もっと多くを占めるために競争し、争って生きています。そのために、真の安らぎと幸せが何か知らないまま惨めに生きているのです。時間というのは神様に属しています。私たちは時間を作ることはできません。

私たちは車や飛行機のおかげで、早く移動することが可能になりましたが、誰にも1日は24時間しか与えられていません。25時間を生きる人はいませんね。太陽と月の動きは人間の領域外の事です。すなわち時間は神様のように聖なるものなのです。私たちクリスチャンの聖なる生涯、きよめは私たちがどれほど所有しているか、どれ程高い地位にいるか、どれ程占めているかではありません。クリスチャンの聖化と審判の基準は、私たちが時間をどのように過ごしたかによります。

皆さんはこの新しい一年を始めるにあたってどこに焦点を合わせますか? 神様は、私たちすべてに、新しい一年を与えてくださいました。新しい白紙をくださいました。この新しい年の中で、与えられた一年の時間をどのように過ごすか、何か計画されましたか? 

神様が昼と夜をつくられた理由は、人間に新しい出発の恵みを与えてくださったということです。夜死んで、朝私たちは復活するのです。それでパウロは、私は「日々死んでいる」(1コリント1531)と言ったのです。皆さんが一日を過ごして、夜寝るというのは、ある意味私たちが死ぬことなのです。寝ている間は何も知らない無意識の状態だからです。

一日の人生はもう終わりました。とり戻すことはできません。一日の苦労はその日一日だけで十分であると聖書は教えています。寝て起きる、再び太陽が昇り、新しい一日が始まるのです。私たちが夜寝るとき死んで、朝再び目が覚めると新しい命が始まるのです。

そのようにして一年が過ぎ、新年が始まるのです。このような時間を主は私たちに贈り物として与えてくださいました。それは主の大きな恵みと憐れみとしか言いようがありません。

過ぎた年の過ちは、悔い改めと告白によって洗い流さなければなりません。皆さんは、過ぎた年の罪と過ちを持ったまま、イエス様の流された血の恵みによって清められる経験をすることなく、新しい年を始められてはいませんか? 皆さん、私たちは罪を犯したから救われないのではありません。私たちが悔い改めないで、罪を捨てなかったから、救われないのです。

 

もし今、過ぎた年に犯したすべての罪と過ちをまだ悔い改めないまま持っておられるなら、神様の前にひざまずいてお祈りしてください。十字架の前に出てきてください。そして悔い改めてください。罪を告白してください。罪はすべて悔い改めて、告白して、捨ててから新しい道に進まなければなりません。

そして皆さん、悔い改めには、改めること、改革が必要です。今の生活を変えることが必要です。それがない悔い改めはただの感情に過ぎません。聖書が教えている、罪が赦される真の悔い改めではないのです。

私たちは昨年の悪夢から抜け出さなければなりません。そして新たな出発をしなければなりません。主はそのために、皆さんと私に新しい年を与えてくださったのです。感謝すべきことですね。新しいページに新しい歴史を刻んでいくことができるのです。新しい時間をくださったのです。

私たちは今、新しい機会を手に入れました。神様は新しい時間を再び送ってくださいました。一年と言う時間の変化を下さったのは神様のあわれみ以外の何ものでもありません。古い一年が過ぎ去り、新しい年が来るようにしてくださったのは、神様の愛のみ心です。

新しい年が来れば、誰でも新しいチャンスを掴み、また新たに始めることができます。子供も、年寄りも、男女も関係なく、高い者も、低い者も、豊かな人も貧しい人も、皆同じ時間を与えられました。

 

皆さんは新しい年をどのように迎えておられますか? 心が重いですか?もしかしたらまだ罪悪感に捕らえられてはいませんか? 神様の前に出てきてください。勇気を持ってください。経済的に苦しんでいる方はいませんか? 神様の助けを期待してください。野の花を美しく装い、空の鳥を養われる神様が、今日も生きておられて皆さんを助けてくださいます。

解決の難しい問題がありますか? 神様に不可能はありません。すべてを神様にゆだねてください。任せてください。神様が最善をご存知だという信頼を持って待ってください。神様の能力を信頼してください。それが信仰です。神様の中で安らいでください。皆さん、神様からいただいた時間を私たちは正しく使うべきです。神様を信頼してください。そして神様の中で喜んでください。そして希望を持ってください。

皆さんには大きな希望があります。神様が私たちに新しい時間を下さったことを見るなら、私たちには希望があるのです。

ローマ人への手紙8章24節と25節を見ると尊い約束のみ言葉が書かれています。

「わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである」。

私たちが目に見えないことを望むなら、忍耐して待ち望むのであると書かれています。目に見えるものが、私たちが待ち望んでいるものではありません。私たちの目に見えるものはこれから全部燃えてなくなります。私たちが望むのは目に見えるのものではなく、目に見えない天なのです。

皆さん、私たちに与えられる報い、私たちに用意された宝はこの世にあるのではありません。この世の立派な家や車は燃えてしまうのです。神様は新しい天と新しい地を創造されると聖書は言っています。その時皆さんはどこにおられるのでしょうか?

この世のものはすべてが虚像に過ぎません。砂漠の蜃気楼のようなものです。

ですから天に心を置いてください。へブル人への手紙11章13節から16節に次のような御言葉が記録されています。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである」。

 

私たちが天にあるふるさとのために生きているので、神様はその人たちのために都を用意されたと聖書は約束しています。皆さんその約束を信じますか? 皆さんはその約束を持って生きていますか?

私たちはこの望みによって救われます。私たちが望むのはこの世のものではありません。もちろん、皆さんに、この世のある程度の空間や物質が必要なのは神様はご存知です。それで私たちに飲み物や食べ物を与えてくださいます。しかしまず「神の国と神の義」を求めなさいと教えられました。異邦人が切に求めているようなものを求めてはならないと言われました。

なぜでしょうか? 神様は私たちに必要なものをご存知だからです。私たちの欲のためにたちの心には悩みが起き、苦痛が生まれます。しかし神様は私たちに何が必要かご存知です。神様を信頼してください。そして天のものを先に求めてください。

私たちが望むのは天のふるさとであり、この世のものではありません。ですから、私たちのために都を用意されている神様と時間を過ごすべきではありませんか? 私たちは本当の友人とはどうしますか? 時間を一緒に過ごしますね。あなたは私の一番大事な友だちだよと言いながら、年に一度ぐらいしか電話しないなら何かがおかしいですね。私たちが神様を愛し、神様に屈服した信仰生活を望むなら、私たちは神様と時間を過ごすべきです。

 

神様からのラブレターである聖書を読み研究し、瞑想するのです。また神様が恋しくて神様と会話するのです。

神様が新しい時間を与えてくださいました。新しい年が始まりました。準備できていないまま死んでいたら、皆さんはどうなりましたか? 急に皆さんが心臓麻痺で死んだらどうなりますか? 神様が私たちに新しい時間を与えてくださったことを感謝しましょう。

そしてこの時間を何で埋めようかと考えてください。世俗的なことで満たさないでください。世の中の欲で満たさないでください。ですから十戒の第十番目の戒めで、人のものをむさぼってはならないと教えられているのです。

皆さんこの罪の世界の歴史は約六千年です。人類の罪が始まってからいつが六千年か正確には分かりません。それでイエス様がいつ再臨なさるのかは分かりませんが、地球の歴史は約六千年です。それが聖書の教えです。それから、イエス様の再臨後、聖徒たちがキリストと共に千年間支配すると教えられています。この地球が荒廃して休む期間が千年です。

 

なぜ千年でしょうか? 千年間私たちがキリストと支配するのはなぜでしょうか? それは象徴的な意味があります。神様がこの地上を創造された時、6日間で創造され第7日に休まれたように、神様は六千年かけて地球を再創造されるのです。罪から人類を解放し、この世界を再創造されるその期間が過ぎた後、千年間この地上を安息させる時間を持たれるのです。神様が6日間でこの地上を作り、7日目に休まれたようにされるのです。

また、旧約聖書には安息年の制度があり、6年間耕作した土地は7年目に土地を休ませる安息年が定められていました。そのように、六千年の再創造の歴史の後、千年間この地上は休みに入るのです。

人間は六千年の間にこの地球を全部破壊しました。あまりにもたくさんのゴミや公害を作ってしまいました。それで神様はこの土地を千年間休ませられるのです。御言葉にはこのような意味があるのです。

 

皆さん、私たちは主の恵みの中で、真の安らぎを体験しなければなりません。

世の中の空間や物質を得ようとして忙しくなると、神様の中で安らぐ経験が失われてしまいます。

皆さんは今、もどかしい思いで再臨を待っておられると思います。それで、ペテロの第2の手紙3章8節にはこう言われています。

「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」。

 

聖書では六千年が過ぎると、至福の千年がくると言っています。この地上が休む時期がきます。私たちはその時天にいるでしょう。真の天の時間を受けるでしょう。

聖書でイエス様はノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろうと言われました。実は、ノアの洪水がいつ来るかは預言されていました。聖書には「彼の年は120年であろう」(創世記63)と書いてあります。そしてもう一つの預言がありました。ノアの先祖メトセラ、その名前がその秘密を持っています。聖書でいちばん長生きをしたメトセラの名前の意味は、メト(Methu) は「彼の死」、セラ(Selah)は「送る」、ヘブライ語でこのような意味です。それは「彼が死ぬ時に(洪水の審判を)送る」と言う意味です。メトセラの名前を通して神様はいつ頃洪水が来るかを預言されたのです。

そして創世記を読むと、確かに彼が死んだ時にノアの洪水が起こったことが分かります。

この世界に罪が満ち溢れているのを見ます。この世にイエス様が来られる兆候が見えます。もうすぐこの世が燃えてしまうのが分かります。

 

私たちは聖書の審判に関する兆候や預言が成就している世の中にいます。そして、イエス様は、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起こるであろうと語られました。

皆さん、ノアの洪水がいつ来るかは正確には分かりませんでしたが、メトセラが年を取って亡くなるのを見るとき、そろそろ審判が来ることを彼らはわかっていました。

 

永遠の時間がきます。私たちは今その準備するために生きなければなりません。ダニエル書12章にある「終わりの時」の預言が成就しています。この100年間で人類の知識は急速に増加しました。早く移動できるようになりました。人類は5900年間同じ速度で走ってきました。馬車が引っ張る速度です。

20世紀後半になったとたんに、急激に知識が増加し,文明が発達し、早く移動できるようになりました。蒸気船が発明され蒸気機関車が発明され、車や飛行機が発明され、今はロケットで宇宙を往来する時代になりました。それで、お年寄りの中には、馬に乗った時代からロケットの時代までを目撃する事ができました。

皆さん、今は歴史の最後の時代です。イエス様が再臨され、罪の歴史を永遠に終え、新しい天と新しい地を再創造してくださる時になったのです。この世の歴史は六千年です。どこから六千年なのか正確には分かりませんが、世界の歴史は確実に終わりに向かっています。

皆さん準備できていますか? このような時に、皆さんはこれまで何のために生きてきましたか? 昨年、何を得るために生きてきましたか? 物質や空間のために生きてはいませんでしたか?

私たちに大事なのは与えられた時間をどのように過ごすかです。どれほど稼ぐか、どれだけ消費するかが大事なのではなく、私たちに与えられた時間をどのように過ごすかによって、私たちは審判を受け救いか滅びかに分けられるのです。神様と時間を過ごしてください。お祈りと聖書研究に時間を費やしてください。

皆さん、ヨベルの年の意味をご存知ですか? それは50年目の年に土地を取り戻し奴隷から解放され債務が免除される特別な年です。

皆さん、この世にヨベルの年が近づいています。私たちが本来の主人である神様に戻される時がきました。

ヨベルの年には、畑で働いていた奴隷はヨベルの年が来たというラッパの音を聞いて、くわを捨て、飛び上がって家に走っていきました。

 

この世で罪に縛られていた人達が、この世で悲惨な死に縛られていた人々が、ついに飛び上がり、ふるさとに帰る時がきました。その時から永遠の時間が私たちに訪れるのです。もう、死はありません。もう悲しみはありません。もう試練はありません。もう泣くことはありません。

皆さん、何のために生きておられますか? 誰のためにこの新しい年を過ごしますか? 神様とイエス様と天使たちは、この時間をどのように過ごしているかご存知ですか? 私たちの救いのために過ごしています。この世を御言葉で保存し、維持することをしておられるのです。四方の風をひきとめています。恵みの期間を延長させて、すべての時間を救いのために費やしておられます。

イエス様がこの地上におられたとき、神様にいつもお祈りしておられました。イエス様は神様の息子でしたが、いつもたくさんお祈りされました。

聖なる時間をたくさん過ごされました。皆さん、天使たちは主を賛美することと、私たち人間を救うためにすべての時間を費やしています。私たちはどのように時間を過ごすべきでしょうか?

 

イエス様はすぐに来られます。主がこの地上においでになる前に、私たちにまた新しい年を与えてくださいました。審判が行われる前に準備する時間が私たちに与えられました。この一年は神様ともっと近くなる一年となりますように祈ります。

 

 

 

 

 

 

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皆さんはどうしても勝てない罪や悪があって

苦しんでいませんか?

 

 

世の中では

「〇〇とうまく付き合っていく方法」

キリスト教では

「生まれた時から罪人だから仕方ない」

と教えているので

どうせ勝てない。どうせ無理。

と絶望的になっていませんか?

 

 

 

聖書はそんな私達に

罪や悪には勝てる!!罪や悪とは縁を切る事ができる!!

そんな嘘に騙されて絶望的に生きるな!!立ち上がれ!!

と希望のメッセージに溢れていますお願い

 

 

 

 

私達人間には自由意志というものがあるのです!!

罪を選択するも

善を選択するも

私達の意思にかかっているのです!!

 

 

だからこそ善や愛を選び取る事に

価値があるのではないのでしょうか?

 

 

 

以下の文章は本日の説教から抜粋したものですが

 

いつまでも罪を犯し続ける必要はないと言うことです。罪は皆さんの同意がなければ成立しないのです。皆さんが選び、受け入れる、そのような同意がなければ罪とは認められないのです。反対に、皆さんが罪を犯すことに同意しなければ罪人になるのではないという意味です。皆さんが同意をしなければいいのです。もちろん、同意する必要などありません。

 

 

神様の御言葉には力があります。御言葉のナイフは皆さんを罪から切り離す能力があります。勝利させる力がイエス様にはあります。神様の御言葉を頼ってください。また、失敗した人のためにイエス様の慰めがあります。繰り返し失敗していませんか? 誘惑は罪ではありません。誘惑を感じたらすぐに神様にお祈りしてください。

誘惑されていると分かっているのに、その誘惑が好きで、神様に祈りたくないことが問題です。皆さん、イエス様にいつもお祈りしてください。「私に罪を憎む心を与えてください。私に義なる心を与えてください。私にイエス様の心を与えてください」。このように神様に常に祈ってください。

 

 

 

罪とはまさに子供を妊娠して

お腹の中で育て

産み出す事と全く同じなのですえーん

 

 

 

 

罪は私達の同意なしには犯す事が出来ません。

 

悪魔と仲良くしなければ妊娠して

罪を産み出す事はありません!!

 

 

 

 

 

 

 

 

今日皆さんはどんな選択をして

どんな生き方をしますか?

 

 

 

 

 

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これまでこの世界には強力な軍隊がたくさんありました。古代ローマの軍隊、アレクサンダーの軍隊、ナポレオンの軍隊、またヒトラーの軍隊。勇猛な軍隊が多くありました。

しかしどんな軍隊にもまさって強力で、残忍で、ずる賢い軍隊があります。

皆さんご存知ですか? それはまさにサタンの悪霊の軍隊です。この軍隊は目には見えないため、もっと危険です。またものすごい欺瞞に満ちた作戦を使います。大勢の堕落した天使たちで作られた軍隊です。

天を追放された1/3の堕落した天使がみな悪霊になったのです。皆さん、悪霊と言うのは死んだ人の魂が幽霊になってこの世をさ迷っているのではありません。聖書の悪霊は、サタンと一緒に堕落してこの地上に追い出された天使のことです。

彼らはみな老練な戦略家です。本心を隠してとても親切そうに近づいて来ますが、ずるがしこい悪霊です。その軍隊の戦闘目標は何でしょう?まさに皆さんと私です。皆さんの心です。皆さんの良心です。私たちの心・霊魂がサタンと悪天使の目標です。

皆さんを破壊することが彼らの目標なのです。

 

皆さんがクリスチャンになったら、その軍隊は静かに退却するでしょうか? まったく違います。彼らサタンの軍勢は前より強く襲ってきます。皆さん、覚えていてください。彼らの攻撃は事前予告なしです。しかも彼らは、偽装してやってきます。だから私たちは、目をしっかりさまして戦わなければならないと聖書は言っています。

コリント第2の手紙11章14節には次のように述べられています。

しかし、驚くには及ばない。サタンも光の天使に擬装するのだから」。

サタンも輝く天使のような姿で現れる事ができると述べていますか? はい、そうです。間違った教えを伝えるサタンたちも、立派な預言者のように現れることができるのです。

ですから私たちは、真理のみ言葉で武装しなければなりません。神様の武具で全身を覆わなければなりません。聖霊の剣である主の御言葉を研究しなければなりません。サタンはいつも皆さんの足を引っ掛けて転ばせようとしています。皆さん、サタンは超自然的な力の持ち主です。ですから黙示録16章14節は次のように記録しているのです。

「これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たちのところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをするためであった」。

 

「全能なる神の大いなる日に、戦いをするため」に世界中のリーダーたちを召集したのです。神様がこの地上を審判しイエス様が再臨されるその時に、神様と戦争をするためにサタンはこの地上にいる人間たちを自分の部下にしようとして集めています。それは何を通してでしょうか? 奇跡を通してです。超自然的な能力を通してです。エペソ人への手紙6章12節にはこのように書かれています。

 「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。

 

私たちの戦いはこの地上の罪人たちと戦うのはもちろんですが、もっと重要なのは天上にいる闇の主権者と戦う、そのような戦いだと聖書は教えています。しかしここに、罪との戦いでいつも失敗する多くのクリスチャンに対する福音があります。皆さん、このような悪霊と戦うことはすごく恐ろしくて不安なことではありませんか? 戦う意欲がなくなりはしませんか。しかし私たちには希望があります。悪霊に負けて、繰り返し失敗するクリスチャンにも福音があります。希望があります。

それは、いつまでも罪を犯し続ける必要はないと言うことです。罪は皆さんの同意がなければ成立しないのです。皆さんが選び、受け入れる、そのような同意がなければ罪とは認められないのです。反対に、皆さんが罪を犯すことに同意しなければ罪人になるのではないという意味です。皆さんが同意をしなければいいのです。もちろん、同意する必要などありません。

誘惑者サタンが皆さんを試すことができても、誘惑して苦しめることはできても、ずっと追いかけてきて苦しませても、皆さんが罪を犯すように強制することはできないのです。

天にも地にも、皆さんの意志が同意するまでは罪を犯すように強制できる存在はどこにもいません。皆さんご存知ですか? 私たちが罪に同意し受け入れるまでは、罪を犯したのではないのです。

ここにもう一つ良い知らせがあります。私たちが誘惑を受けたり誘惑を感じること自体は罪ではありません。どうしてそのようなことが言えるでしょうか? ヤコブの手紙1章15節に次のような御言葉があります。

「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す」。

 

皆さん、私たちが罪を犯したらすぐ死ぬのではありませんね? 罪が積み重なって、それから個人の恩恵の期間が終わって、運命が決定されて死に至るのです。私たちが誘惑を受けた時、それに引かれ「欲がはらんで罪を生」み出します。私たちは誘惑を受けます。私たちの欲に対して誘惑を受けてその誘惑を感じている時、それはまだ罪として裁かれるのではありません。私たちが誘惑を受けた時すぐその場で神様に祈り、聖霊様の力でそれを阻止して追い出せばいいのです。

貪欲や罪の欲情を感じる時、誘惑を感じる時、「私は罪人だ。誘惑が来たのは罪を犯したのと同じことだ。私には出来ない」と言って落胆している人が多くいます。それは間違った考え方です。違います!

 皆さん、罪になる前に欲が先に起きてきます。誘惑を抱く過程があります。

欲がはらんで、つまり、子をみごもってから赤ちゃんが生まれるように、罪になる前に私たちの心の中に誘惑が大きくなる過程があります。その時に、そのように感じた時に、その過程でそれを追い出せばいいのです。

皆さん、電話が掛かってきた時どうしますか? 電話が掛かってきたからといって、その場で話すのではありませんね? 電話が鳴ったら受話器を取って、それから通話します。同じです。サタンからの電話が鳴る、つまり誘惑を受けると、罪の本性に衝動が起きて電話機のように心に鳴り響きます。電話は鳴りますが、受話器を持たなければいいのです。ご理解いただけましたか?

皆さんの心に入ってくる罪の誘惑に応じないでください。応じないでいることが難しいですか? 後ほど説明しますが、ここにもう一つ良い知らせがあります。 神様は私たちを誘惑されません。神様は私たちを誘惑したり試したりされません。しかし、試すことを許可されることはあります。神様がすべてをコントロールしておられます。神様が許可されない試みは私たちに来ないのです。

神様が私たちを試すために許可されるのです。私たちは、試されたり、試練を通過しながら訓練され学習することで、私たちの品性は天国のために準備されるのです。ですから、神様は私たちが耐えることのできないような試練や誘惑は許可しないといっておられます。

コリント第1の手紙10章13節に次のような言葉があります。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。

 

このように述べられています。神様は私たちが、誘惑されたり困難や試練を受けても、耐えられる範囲の試練だけを許可されると約束されました。皆さん、感謝しますか? 主の恵みはどれほど感謝すべきものでしょうか? 私たちに必要な試練だけをくださるのです。

 私たちが子供を育てる時、子供は転んだり倒れたり、訓練を受けながら成長していきます。同じです。罪によって困難に陥り、滅亡の淵に立っている罪人たちが回復されるために、救われるためにそのような試練と誘惑が必要なのです。

誘惑と試練のないところには品性の成長はありえません。それでも神様は、試練と当時に逃れる道を備えて下さると言われました。逃れる道とは何でしょうか?

それは、イエス様のみつばさの中に走っていくことです。皆さんが直接サタンと戦っても勝つことは出来ません。彼はあまりにも大きい相手です。子供がプロのボクシング選手と戦えますか? 出来ません。同じです。

私たちがどうすればあの老練な力のあるサタンと戦って勝つことができるでしょう? 皆さん、イエス様が私たちの代わりに戦ってくださるようにしなければなりません。

昔、ヤコブがヤボクで戦ったのはサタンではありませんでした。エサウの軍隊が自分と自分の家族を殺すために迫って来た時、彼は夜明けまで祈りの戦いを経験しました。その時誰と戦いましたか? 神様と戦いました。誰かが彼の肩を掴んだ時、敵だと思って夜明けまで戦って、よく見たら敵ではなく神様でした。

 

その時ヤコブはどうしましたか? 「私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と彼は神様と戦いました。神様の能力を確信し約束を受けるために戦いました。私たちもそのようにしなければいけません。神様にお祈りしてください。会話してください。御言葉を研究してください。信仰を実践してください。そのような時、「神様が勝利する力をくださらないなら神様から離れることはできません」、という信念で神様と戦ってください。

ヨハネ第1の手紙4章4節は次のように述べています。

「子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである」。

 

皆さん、「ハレルヤ!」と賛美するような御言葉ではないでしょうか? イエス様はこの地上にいるサタンより大いなる能力の持ち主です。心配しないでください。主にお任せしましょう。皆さんも勝利することができます。いつも失敗してきた皆さんにも希望があるのです。

皆さん、イエス様には能力があります。ユダの手紙24節には次のように書かれています。

「あなたがたを守ってつまずかない者とし、また、その栄光のまえに傷なき者として、喜びのうちに立たせて下さるかた」。

 

私たちが神様の前に「傷なき者」として立つことができるように、助ける能力のある方としてイエス様を紹介しています。皆さん、イエス様の所に逃れてください。試練を受けるたびに、主に叫びお祈りしてください。

 

ある女の子が言いました。「もしサタンが私を誘惑するために来るのを見たら、私はイエス様に、イエス様が私の代わりに返事をしてくださいと言います。そうしたらサタンは恐れてすぐ逃げてしまうでしょう」と言ったのです。すばらしく単純な方法ですね。

 

皆さん、キリストの生涯はそんなに楽なものではなかったことをご存知ですね? 誰かが皆さんに、キリストの人生はバラ色だったと言いましたか? 違います。キリストの生涯は毎日が戦いでした。サタンとのたえまない闘争の日々でした。同じように、私たちも毎日自己を屈服させる戦いがあります。しかし、私たちが神様を愛し、イエス様の十字架の恵みを悟るなら、心は平安と感謝に満ちた生活です。

もちろん、イエス様の生涯は戦争の連続で、絶えず戦う生涯でした。そして神様は私たちに、何もしないでいればよいと言ってはおられません。

私たちは罪に抵抗しなければなりません。しかしイエス様の翼の下に逃げて、神様から力を受ける必要があります。イエス様の翼の下に避難するのです。そこでイエス様が勝利する力を下さるまでとどまってください。

ヘブル人への手紙12章4節にこうあります。

「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」。

 

罪と戦う時、血を流すほど、命をかけて戦う人はどれほどいるでしょうか?

罪と戦うのを諦めた方はおられませんか? 皆さん、今こそ立ち上がってください。そしてもう一度戦ってください。皆さんには望みがあります。希望の約束があります。イエス様が逃がれる道をくださいます。罪に抵抗してください。勝利できます。私たちは罪を犯す必要がありません。勇気を失わないでください。皆さんの勝利は約束されたものです。

いつかはそうなるだろうではなく、私たちにはすでに約束が与えられているの です。主を信頼してください。私たちも勝利できます。

私たちの過去の罪は告白して赦され、現在、罪を憎む心を受けることができるのです。私たちの霊的な戦場はこの世に対するものではなく、私たちの心の中にあるのです。実際私たち心の中で意志の戦いをしているのです。これが本当の善と悪の大争闘です。

皆さん、ご存知ですか? イエス様があなたの心のハンドルを持っておられるなら私たちは安全でいられます。勝利することができます。本当の善と悪の戦いは、本当の義と不義の戦争は、皆さんと私の心の中で毎日起きています。

私たちが自分の力で、自分の努力で戦おうとするなら毎回失敗するでしょう。

すべての罪とすべての誘惑との戦いは、私たちの心の中で起きており、どちらかが勝利するのです。

私たちの力では勝利出来ません。私たちは、朝起きてまず神様にお祈りし、私たちの心を神様に捧げ、「神様、私は今日、神様のみ心ではないことは行いません」と祈る必要があります。そのように祈って決心したら、次に神様に心を捧げましょう。そうするなら、朝からすでに私たちは勝利する決定をしたのです。勝利が決定したのです。

皆さんはどのようなことでいつもつまずき、どのような罠にいつも落ちますか? 

皆さんも今日勝利することができます。私たちは罪に抵抗するか妥協するか、罪の門を開くか、閉じるか、どちらにしても先に私たちの心で決定がなされています。皆さんは今日も心の中で神様に心と意志を捧げ、屈服し神様の戒め通りに生き、誘惑に抵抗するようにすでに決定しましたか? それともまだ中間に立ち止まっておられますか?

多くの場合、私たちはこのことについて自己欺瞞に陥っています。私たちは自分の心の中にある意志の力を理解しなければなりません。私たちの意志の力が本当の自分自身なのです。「私」と言うとき誰が私ですか? 私の腕でしょうか? 私の足でしょうか? 私の心臓でしょうか? 何が自分でしょうか?

私と言う時、それは私たちの心を意味しています。心の中の私たちの意志の力を言います。意志がまさに私です。私が選択し、私が決定するのですから、これが私自身です。私たちの意志の力がまさに真の自分なのです。

皆さんが人格を持った自由人で、個人の権利を持った独立した人間である理由は、まさに自由意志の力があるからです。自由に選択できる力を持っていることが私自身ではないでしょうか? そして、すべての戦いの勝敗は私たちの意志の力次第です。けれども、人間の意志の力は罪によって弱まりました。人間の決心はまるで腐った綱のようなものです。

しかし、私たちが神様に意志を捧げて屈服するなら、全能の神様の能力と私たちの意志の力が結合するのです。皆さん、神様に注目してください。神様の品性を瞑想してください。真理を研究し、聖書を研究し、祈りましょう。イエス様に力があります。

私たち自身に力があるのではありせん。自分で誘惑と戦おうとしないでください。十字架を見つめてください。私のために自分の命を捨てられたイエス様をじっと瞑想し、勇気をもらってください。そこに力があります。罪の誘惑の方に集中しないでください。イエス様に焦点を合わせ、いつもイエス様と共に歩いてください。

サタンは皆さんの心を弱める方法をよく知っています。それは皆さんの意志の力を弱めることだとサタンはよく知っています。意志力が弱まると、良心が弱まることをサタンは知っているのです。それでサタンはお酒やタバコを使い、体に悪いものを食べさせ、疲れさせストレスを感じるようにさせて、私たちの意志を弱めるのです。また悪い本や、インターネット、映画、音楽などで私たちに悪影響を与えて私たちの判断力をあいまいにし、心が悪を選びやすいように弱くし、意志の力を弱くするのです。それで、この世を悪いもので満たしました。それによって私たちの意志が弱まるのです。一度倒したら、その次に倒すのは簡単なことをサタンは知っています。

それで箴言4章23節にはこうあります。

油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」。

 私たちの心をしっかり守るようにと言われています。サタンは皆さんの心に、聖なるものの代わりに不潔な考えや感情を起こそうとして働いているのです。これがサタンの軍隊の役目です。しかし、選択は皆さん次第です。皆さんはサタンの誘惑を選択する必要がありません。誰も皆さんに強制できません。

神様は皆さんの思いや感情を裁かないで、皆さんが意志を捧げる事を望んでおられます。すべてが意志に掛かっているからです。皆さんの意志が真の自分自身です。イエス様に意志を屈服させてください。そして、弱いまま神様に来てください。

ヨハネの福音書8章36節に次のように言われています。

「だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである」。

 

ローマ人への手紙6章14節にはこう書かれています。

「なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである」。

 

皆さんは罪を犯す必要がないという意味です。では、「もし私たちが失敗するならそれはまだ生まれ変わってない証拠ではありませんか?」と言うかも知れません。違います! 赤ちゃんが初めて歩く時はよく転びますね。転ぶからと言って赤ちゃんが命を持って生まれていないと言うことでしょうか? 違いますね。

ヨハネの第1手紙2章1節にこうあります。

「わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる」。

 

神様の赦しはすでに用意されています。イエス様は同時に勝利する力も準備しておられます。

コリント人への第一の手紙15章57節を存知だと思います。

「しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである」。

 

私たちに勝利を与えてくださるイエス様がおられます。私たちが失敗したのであって、イエス様が失敗されたのではありません! 再び立ち上がってください。私たちの将軍はイエス様です。

以前新聞に次のような記事が載せられたことがあります。落下傘で飛行機から586回もジャンプした経験がある一人のスカイダイバーが、飛行機から飛び降りた時、足が綱に絡まってしまい飛行機にぶら下がったまま空を飛んでいました。そのため飛行機は着陸することができませんでした。しかも飛行機の燃料はほとんどなくなってきました。その状況を知った他の飛行機がダイバーに近付きナイフを渡しました。ダイバーはそのナイフで綱を切り、無事に降りることができました。

 

私たちは今、罪の綱につながれていませんか? イエス様はそのような私たちを救うためこの地上に来られました。神様の御言葉はナイフなのです。

神様の御言葉はもろ刃のつるぎよりも鋭いと書かれています。

へブル人への手紙4章12節の御言葉です。

「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる」。

 

神様の御言葉には力があります。御言葉のナイフは皆さんを罪から切り離す能力があります。勝利させる力がイエス様にはあります。神様の御言葉を頼ってください。また、失敗した人のためにイエス様の慰めがあります。繰り返し失敗していませんか? 誘惑は罪ではありません。誘惑を感じたらすぐに神様にお祈りしてください。

誘惑されていると分かっているのに、その誘惑が好きで、神様に祈りたくないことが問題です。皆さん、イエス様にいつもお祈りしてください。「私に罪を憎む心を与えてください。私に義なる心を与えてください。私にイエス様の心を与えてください」。このように神様に常に祈ってください。

皆さんが真実に義を愛し、天を愛し、イエス様を愛する心がないなら皆さんはイエス様と関係のない者です。

誘惑を感じた時に、弱い自分を悟り、主に訴え、お祈りするようにしてください。皆さん、毎日いつも神様にお祈りし、十字架の下で生まれ変わってください。新しい心を与えていただき、新しい動機と勇気をお受けになってください。

私たちには希望があります。それは、イエス様はこの世のサタンよりはるかに強く、能力のある創造主なる神様だからです。

皆さん希望を持ってください。皆さんは罪に勝利できます。

 

 

 

https://youtu.be/_E8kmKKxeSI

 

 

 

 

 

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皆さんは、心豊かな人生が送れていますか?

 

 

私は神様と出会うまで

今思えば

とても空しい人生を送っていました。

 

 

何かに例えるとまるで

親のいない孤児

といったところでしょうか。。。ガーン

 

 

 

いつも未来が不安で

人気や職場や人々の称賛を失う事を恐れていて

周りの目を気にして

夜は眠れないほどの心配性で

死んだ後の事を考えると確信がなくて。。。

 

 

 

今思えば決して満たされているとは言えないような

ある意味で絶望的な人生だったのではないかと思います。

 

 

 

 

もちろん世間的に見ると何の不自由もなく

むしろ羨ましがられるような生き方をしていたかもしれません。

 

 

しかしそれは常に不安だからこそ、

この世で強く生きていかなければならない!!と考えていたからこそ

必死に自分の価値を見出そうと

世のもので埋めようと必死に生きていただけだったのです。

 

 

 

 

人間というのは私達を創造してくださった

真の生みの親である神様を知るまでは、

まるで孤児のように

恐れという支配のもと

奴隷のように生きていくしかないと思います。

 

 

 

 

 

 

 

しかしそんな絶望的な淵にいた私を

 

 

 

 

イエス様は!!

この天地万物を創造してくださった私達の親であられる神様は!!

 

 

 

 

 

孤児だった私達を取り戻すために

この世に来られ、聖書というラブレターを与えられた事を

知識ではなく心でも魂でも分かった時に

 

 

 

 

 

 

 

私の人生は変わりました。。。ドキドキ

 

 

 

 

 

 

もうこれ以上孤児ではなく

天のお父様の娘として

この世で悪に支配されずに勝利者として生きていく

人間本来の生き方に回復されたのですおねがい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さんも人生をやり直したいですか?

何かがおかしいけど

人生をやり直す勇気がありませんか?

なんだかむなしくて生きていく勇気が湧きませんか?

 

 

 

 

 

どうかこのブログで皆さんお一人お一人が

イエス様の愛と平安の中にあって

第二の人生を見つけられるように

心から願ってお祈りいたします。

 

 

 

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皆さんは現在、どのような生活を送っておられますか?クリスチャンとしてどのように生きているかという質問です。また、まだ神様を信じていない方なら、皆さんの生活はどうですか?

皆さんは豊かな人生を送っておられますか? 自分はどのような生き方をしていると思っていますか?

キリストの中で新しく生まれ変わった人として、皆さんは豊かな生き方をしていますか? それとも、毎日慌ただしく落ち着かない生活を送ってはいないでしょうか? 常に心の中に悩み事や心配があって落ち着かないですか? それとも主の中で平安と恵みがありますか?

皆さんは、イエス様を信じていても、イエス様を信じてない人と何の違いもなく、ただ平凡に生きているのではありませんか?

もっと具体的に質問してみましょう。皆さんは今も死に対して恐れていませんか? 病気になるのが恐ろしく、交通事故にあうのが怖くありませんか? 死ぬことを恐れながら生きていませんか?

また、心配事から解放されないまま生きていませんか? 心に真の幸せと平安がありますか? 朝目覚めたとき、神様の恵みと平安が心の中にあふれ出していますか? ベッドに入るとき、安らぎと幸せが、また救いの確信が心の中にあふれていますか?

 今日はたくさんの質問をしました。しかしこのような質問に、皆さんがそうではないと答えるなら、皆さんはキリストの中でよみがえる経験を再びする必要があります。

皆さんも豊かに生きることが出来ます。希望があります。

この重要な問題に関して今日一緒に研究してみましょう。

 

皆さん、ラザロの話を覚えていますか? ラザロは一回死んでからよみがえった人です。私たちがイエスキリストの中で死を征服することができるという証拠を見せてくれた人です。

サタンは人間を死に対して恐れるようにして、人間をとりこにしていると聖書は言っています。人々は、この世の中を生きる不安、お金に対する心配、健康に対する心配、未来に対する不安、生活の恐れと心配をたくさん抱えて生きていると、聖書は言っています。

しかし、イエス様がこの世に来られたのは、私たちをそのようなサタンの罠から解放させるためだと言っています。

 

へブル人への手紙2章14節と15節を読んでみましょう。へブル人への手紙2章14節と15節には次のように記録されています。

「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」。

ここに一生涯、死の恐怖のために奴隷となっていた者たちを、解き放つためにイエス様が来られたと、使徒パウロは表現しています。私たちは死ぬことを恐れます。なぜでしょうか?死の準備が出来ていないからです。神様を恐れながら生きているのではなく、この世の中でお金をなくすことを恐れながら生きているからです。この世の中で人気を失うのを恐れて生きているからです。自分の評判、職場、自分の事業などを失うのを恐れて生きているからです。それは、神様の摂理と導きに徹底的に屈服しゆだねる経験がないからです。

今私が死んだら、私の家族はどうなるか、私の事業はどうなるか、このような恐怖の中で生きているからです。

人々は死が怖くて、サタンの奴隷となって不安と恐怖の中で生きています。主に完全に献身し、確信を持って安らぎの中で生きているのではなく、サタンの奴隷になって、不安と恐怖のあまり妥協して、また次に妥協して、世の中に従うだけで、神様に従って生きていないのです。

なぜですか?死が恐ろしいから・・・。聖書はそのように表現しています。

しかし、イエス様は私たちを解放するために来られたと聖書は言っています。

 

皆さん、ラザロのお話にもどりましょう。ラザロが病気にかかりました。しかしヨハネの福音書11章によると、イエス様はすぐに彼を治しに行かれませんでした。それでラザロが死んで4日も経ちました。イエス様は遅れ、ラザロが死ぬまで待たれました。

イエス様はなぜそのような事をなさったのでしょうか?皆さん、ラザロの家とイエス様はとても親しい仲でした。イエス様が疲れたり、休みたいときはラザロの家で度々お休みになられました。それなのに、ラザロが病気だと聞きましたが、他の人は治してくださったイエス様が、彼をすぐ治しに行かれませでした。

イエス様はヨルダン川の東の方にとどまっておられました。そのようにされた理由は、ラザロが死に、いやされる希望が完全になくなるまで待たれたのです。それによって神様の力の偉大さをだれも疑えないほど表すためでした。彼が少し病気にかかったけれども治ったという程度ではなく、彼が死んだ状態からイエス様が彼をよみがえらせたなら、神様の力を何の疑いもなく信じる機会になるからです。

ラザロが死んだときイエス様は弟子たちに言われました。「行こう。ラザロが眠っている」。すると弟子たちは、「眠っているなら助かるでしょう」と言いました。その時イエス様は、彼が死んだと弟子たちに言いましたね。

ヨハネ福音書11章11節から13節まで見てみましょう。

「そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、『わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く』。 すると弟子たちは言った、『主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう』。イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った」。

 

皆さん、神様にとって人間の死は、少しの間眠ることだと聖書は言っています。死んだとき眼を閉じて、少し眠って、眼を開けたとたんにイエス様が再臨される光景を目の当たりに見るのです。

 

聖書は善人と悪人の復活があると言っています。

皆さん、ヨハネの福音書5章28節から29節のみ言葉を覚えていますか?

「このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」。

このように聖書に書かれています。

ここでは、善人と悪人のよみがえりがあると書かれています。そうですね。

よみがえりは1度だけではありません。死んだ人はすべて土の中で眠っていて、イエス様が来られたとき善人のよみがえりがあり、千年期の後、悪人たちが裁かれるため二度目の、最後のよみがえりがあると聖書は言っています。

使徒行伝2415節には次のようなみ言葉が記録されています。

「また、正しい者も正しくない者も、やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。この希望は、彼ら自身も持っているのです」。

聖書はよみがえりがあると言っていますね? しかし二種類のよみがえりがあるのです。正しい者と正しくない者のよみがえりがあると書かれています。聖書は善人と悪人のよみがえりがあると言いますが、イエス様がおいでになる時は善人たちがよみがえります。死んでいた善人たちが、ものすごい数でこの地上によみがえります。その時の私たちの喜びはどれほどのものでしょうか!

亡くなった妻が夫と再会し、子供と親が再会して喜びあっている中で、その人たちは地上から浮き上がり天に昇っていくでしょう。二度と別れはありません。二度と死はありません。二度と悲しみはありません。

しかし、黙示録の20章は語ります。千年期のあと悪人のよみがえりがあると聖書は語っています。

悪人たちの裁判は、全宇宙の前に公開されます。神様が彼らを苦しめるために行われるのではありません。神様の審判がどれほど公平であるかを、全宇宙に立証するためです。神様が悪人をもう一度復活させ、なぜ彼らが滅びなければならないか、なぜ彼らが救われなかったのかを、全宇宙の前ですべて明らかにされます。なぜ私の妻は、夫は、子供は、親は、天に来られなかったかを神様が明らかにした後、悪人の滅亡があると聖書は語っています。地獄の炎が彼らを燃やすと聖書は語っています。聖書は復活があると言っています。

春に新しい芽が出るのがその証拠です。さなぎから出てくる蝶々がその証拠です。新しい命があると語っています。この世には、これから復活があると聖書は言っています。皆さん、ラザロが復活したことは、復活があることを証明しているのです。死んだ者の復活があります。その時、皆さんはどこにおられますか?

 

ラザロが死んで四日後にイエス様がおいでになりました。彼は完全に死んでいました。家族が泣きました。一緒にいた人たちも泣きました。その時イエス様が彼のお墓に行かれました。そしてイエス様が涙を流されたと聖書には書かれています。英語聖書の中でもっとも短い節です。“Jesus wept.

神様は人類の不幸を目の当たりにされました。罪の結果をご覧になりました。そして神様は、私たち人間を哀れに思われました。イエス様が来られるまで、苦しんで、死んでいくしかない人間を目の当たりにして、あまりにも惨めな人間を哀れに思い、ラザロのお墓の前で涙を流されたのです。

ラザロの死は全人類の死を代表しているもので、その死のための涙を流されたのです。罪の結末を目の当たりにして涙を流されたのです。

それからイエス様は言われました。「石を取りのけなさい」。その時代のお墓は横穴式で、大きな石でお墓の前を塞いでいました。その石を取りのけなさいと言われました。

霊的に私たちがよみがえる前に、心の門を開かなければなりません。塞いであった心の門を開かなければなりません。

 

ラザロは死んでから4日がたっていました。お墓の中で死体の匂いがしていました。同じように、私たちは私たちの心の門を開き、私たちの中にある罪の匂いがするすべてを、神様の前に全部さらけ出す必要があります。

イエス様が言われました。あなたの兄弟はよみがえるであろう。その時マルタが言いました。「終わりの日のよみがえりの時よみがえるのを存じています」。

そうしたら、イエス様が言われました。ヨハネによる福音書1125節から26節、有名な御言葉ですね。

 

「イエスは彼女に言われた、『わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか』」。

 

それから、眠っているラザロを大きな声で呼び起こされました。

「ラザロよ、出てきなさい」。

聖書には「こう言いながら、大声で『ラザロよ、出てきなさい』と呼ばわれた」(ヨハネ1143)と書いてあります。

 皆さん、よみがえりは個人的な経験です。団体的な経験ではありません。私の夫がよみがえるから自分もよみがえるのではありません。妻が救われたからといってその夫も救われるのではないのです。

イエス様の大きな声は創造の力があるので、もしイエス様がラザロの名前を呼ばなかったら、ラザロのお墓の周りの死人たちは皆よみがえったでしょう。

ですから、皆さん、復活と、信仰の復興はきわめて個人的な経験です。

ラザロが布で巻かれたまま出てくるのを想像してみてください。彼は死んでいました。しかし生命のみ言葉が彼の中に入ったとき、生命のみ言葉には創造の力があるので、ラザロは目覚めて出てくることができたのです。

皆さん、私たちが信じている聖書の御言葉も、神様の創造の力ではありませんか?

その時イエス様は言われました。「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。

ラザロは手足を布に巻かれていました。出てくるとき、まともに歩けなかったはずです。それで、彼をほどいてやりなさいとイエス様は言われました。

もし、人が生まれ変わり、よみがえったとしても、布にまかれているままだったら、その布を早くほどいてあげるべきです。ラザロをよみがえらせたのは、彼が布にまかれたまま墓の中で暮らすためではありません。墓から抜け出して、もっと豊かに生きてほしいから彼をよみがえらせたのです。新しい服を着、新しい命を持ち、新しい目的と新しい習慣を持って生きてほしいから彼をよみがえらせたのです。

現代の多くのクリスチャンが救われたとか、霊的に新しい命を得たとか言いますが、その行いは死んだ行いではありませんか? 生まれ変わってない人々と同じような欲を持ち、同じ競争心と嫉妬心を持って生きてはいませんか? 昔の習慣をそのまま持って生きてはいませんか? 同じ流行の歌を歌い、同じお酒を飲み、一緒に競争し、世俗的なものを好んではいませんか?

 

すなわちそのような人たちは、よみがえったと言っていますが、お墓の中で布に巻かれたまま生きているのと同じです。皆さん、ラザロのよみがえりはものすごい証でした。死んで、よみがえったのです。彼は服を取り替えました。新しい命と、新しい光の中でよみがえったのです。皆さんの生涯は、他の人に何を証してますか? 皆さんはどのような生涯を送っていますか? 昔と同じように生きていませんか? それとも、霊的によみがえった、生きているクリスチャンとして豊かな人生を送っていますか?

 

 イエス様がロバの子に乗ってエルサレムに来られました。その時、人々はラザロも見たいと思って大勢の人が迎えに出たのです。彼はよみがえった後、イエス様を世の中に知らせたのです。皆さんは今、どのような生活を送っていますか? 神様を証しする生活を送っていますか? それとも相変わらず、生活の中で心配や不安を感じておられますか?

そのときパリサイ人たちは、ラザロまで殺そうとしたと聖書に書かれています。なんとももどかしい話です。

ヨハネによる福音書12章9節から11節までみてみましょう

「大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである」。

皆さん、ラザロのよみがえりは、多くの人にイエス様を信じさせました。皆さんの霊的なよみがえりにより、他の人たちがイエス様の香りを感じますか?豊かな生涯を証していますか? それによってイエス様を信じさせていますか? しかし、ラザロのように、真の命を受けたものは世の中から抹殺されそうになります。それで信心深く敬虔に生きようとするものはこの世で迫害を受けると聖書は語っているのです(2テモテ312)。

 

ローマ人への手紙8章17節にこう書かれています。

「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである」。

主と一緒に栄光を共にするためには、苦難も共にしなければならないと書かれていますね。パリサイ人は神様がよみがえらせた者を再び殺そうとしました。冗談みたいなお話ですね? 彼らがどれほど霊的に暗かったかわかりますね。

ラザロはその時死を恐れたのでしょうか? 彼は一度死んでよみがえりました。彼にとって死は恐れるものではなくなっていました。なぜでしょうか?よみがえりの確信があったからです。

サタンは人々を死の恐怖で捕らえています。イエス様はサタンの奴隷になっている私たちを解放するためにおいでになったと聖書は言っています。

ラザロは死を恐れなくなりました。

皆さん、このような仮定をしてみましょう。

イエス様からいやしを受けた人たちが、中風の患者を慰めています。盲人だったのに目が開かれた者、全身麻痺だったのに動けるようになった者たちが、中風病患者を慰めています。いやしてもらえると言います。その時彼らの前にラザロが現れました。彼は言います。「私は死んだがよみがえりました」。その証の前で誰が、何を言い、何を証できるでしょうか?

皆さんの証は何ですか? 皆さんの生涯の証は何ですか? 死んでからよみがえったことでしょうか? 真の霊的なよみがえりでしょうか?皆さんの証は何ですか?

皆さん、コロサイ人への手紙の3章1節から5節にこのような言葉が記されています。

「このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」。

 

これは私たちが過去に行っていた行為です。その中からよみがえり新しく回復される経験をしなければいけません。

エペソ人への手紙2章5節から7節を一緒にみてみましょう。

 

「罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった」。

 

私たちをよみがえらせ、キリストと共に生かしてくださったのは、神様の恵みによって救われた絶大な富を世々に表すためだと言われています。

天使たちも福音の力がどのようなことをするのかよくわからないので、しっかり見たいと思っていると聖書にあります(1ペテロ112)。天使たちも見たいと願っているのです。天から、天使たちも今私たちを見つめています。

イエス様の救いの力が、聖霊による変化がどのようなものか、私たちの生涯を注意深く観察しながら、「実にすばらしい」、「救いの力はすごいものだ」と、そう思いながら私たちを見つめていると聖書は語ります。

 

そういうわけで、この地上で救いを経験する人々は、全宇宙の前に開かれた証の本となるのです。皆さんは、皆さんの生涯を何で表していますか? 皆さんは豊かな生き方をされていますか? それとも死が怖くて震えながら生きておられますか? 生まれ変わる経験を私たちは理解しなければなりません。

生まれ変わった者は豊かな生き方をしており、死の恐怖で生きていません。

 

以前私は、中国で牧師たちだけを集めて集会を開きました。そのとき一人の牧師が自分の教会の一人の青年を連れてきました。その青年が一般信徒だとは知りませんでした。集会が終わった後、今回の集会で質問や疑問があれば手紙に書いて出してくださいとお願いしました。多くの手紙の中で一つの手紙が目に入りました。このような質問でした。「私みたいな罪人も赦されますか?」。

私はびっくりしました。「この手紙を出した方は牧師先生ではないようですが、どなたでしょうか?」。そしたら、一人の青年が手を上げました。彼はヤクザでした。借金の取立て人でした。その時彼は、自分の罪を本当に悔い、私の前で涙を流しながら、私みたいな罪人も赦されるのですか?と聞きました。

彼に聖書を通して教え、彼のために祈りました。しばらくして、彼に会いました。完全に変わっていました。すばらしい変化です。彼は霊的に死んでいましたが、完全に生まれ変わったのです。

病気がいやされるより、何よりもすばらしい証は、罪人がイエス・キリストのよみがえりの力により、また聖霊様の能力により、新しい人によみがえることです。それによって豊かに生きるようになることです。

皆さん、これから残りの人生を、イエス様の品性、その美しい姿を表しながら、神様の救いの力を賛美し生きていくのはどうでしょうか?

皆さん、豊かな人生を送っていますか? それともまだ罪の奴隷のままでしょうか?

真理を理解してください。福音を理解してください。そして豊かな人生を送ってください。皆さんには希望があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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皆さん、おはようございます爆  笑

 

雨の日が続いてますねあせる

 

さて皆さんは戒めについてどうお考えですか?

 

 

 

 

私は以前まで教会で

新約時代に生きる私達はイエス様が十字架で亡くなってくださった事により

戒めは守れなくても救われると教わって

それをそのまま鵜呑みにしていましたガーン

 

 

 

 

聖書を自分で調べずに鵜呑みにした私は

新卒で大手航空会社に就職して客室乗務員として

世界中をフライトしていたのですが

その時に「毎週日曜日に教会に行けなくなるけど大丈夫なのかな?」と

心のどこかでは分かっていたものの、

結局神様よりも世の方が魅力的に見えて家出をして、

 

 

 

フライト生活を満喫するぞー!!と意気込んで

まるで自由人になったかのように最初は楽しんでいましたニヤリ

 

 

 

 

 

しかし世界中をフライトする一見華やかそうに見える仕事も

現実は月に7回くらいしか家に帰ってこれないほどの

ハードスケジュールで

次第に身も心もボロボロになってきて

不眠症肌荒れイライラ過食などの症状が出始めて

次第に自分の中で愛が冷えていっている事を感じ始め、

神様を遠く感じるようになっていったのです。

 

 

 

 

この世で成功するためには

会社で早く昇進するためには

人を蹴り落してでも這い上がる考え方だったり

少しの嘘やごまかしも仕方ないと思っていました。

 

 

 

 

 

 

ですが心のどこかではひたすら

 

 

 

 

 

 

 

 

何かがおかしい。

 

 

 

 

 

 

と感じていたのです。

 

 

 

 

 

自分のやりたい事を全部やっていて

幸せなはずなのに心は満たされていない。

幸せってなんだろう。

人間はどうして生きているのだろう。

死んだ後どこにいくの?

などなど、なぜ生きているのかもよく分からなくなり

深い深い悩みを抱えるようになりました。

 

 

 

あらゆる哲学、自己啓発、宗教を調べたり

人生経験のある大人や神学者に聞いても

答えは見つかりませんでした。

 

 

 

 

そんな中、家出をしてボロボロになった自分の惨めさにも悲しくなって

神様に久しぶりにお祈りしました。

 

 

 

 

「神様、こんな私ですが今からでもまだ遅くないなら

神様の元に戻りたいです。どうか許してください。」

とお祈りをして、初めて聖書を真剣に手に取り

創世記から祈る気持ちで真剣に読み始めました。

 

 

 

 

 

すぐに「安息日」という単語が目に付くようになったのです。

心に深く突き刺さるようになんだか

とても大事なメッセージのように感じて

安息日をはじめとした戒めは全人類に必要不可欠な

大切な生き方なのではないかと思うようになりました。

 

 

 

 

 

 

そうなのです。

 

 

 

 

 

 

戒めというのは決してイスラエル人に与えられた律法なのではなく

人間として生まれたなら当たり前に守らなければならない

全宇宙の平和と愛の法則だったのです!!

 

 

 

戒めが心から出て行った人間は

まるで抜け殻の状態で

ボロボロの状態で生きているようなものなのですえーん

 

 

 

 

天のお父様に与えられたものを

放蕩息子のようにすべて使い果たし抜け殻になった私を

神様は癒し、罪から救い、回復させてくださいましたぐすんドキドキ

 

 

 

 

心に戒めが回復した今は

人生で一番満たされていてとても幸せですラブ

 

 

戒めというのは決して私達を縛るものではなく

私達人間を安全に守るための囲いなのですおーっ!!!

 

 

 

以下の説教内容は

戒めとはどういうものなのか。

なぜ大切なのか。

なぜ守らなくてはならないのか。

について語っていますラブラブ

 

 

 

人生で最も大切な事が詰まっていて

私の人生を180度変えてくださった神様の戒めは永遠の宝物ですドキドキ

 

 

 

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皆さんがこの世を生きていく中で、もっとも重要な目標は何ですか? 私たちは何のために生きているのでしょうか? そのことについて、もし世界の歴史の中で一番賢明で、知恵がたくさんあった人が助言をしてくれるなら、皆さんは聞く耳を持ちますか? 人生のすべてを経験した後、人生でもっとも重要なことが何か、私たちに教えてくれる賢い人がいるなら、皆さんはその助言を聞きますか?

 聖書の歴史の中で一番知恵にあふれていた人は誰でしょうか? もちろん、ダビデの子ソロモン王ですね。神様から受けた知恵に満ちていた人でした。

そのソロモンが私たちに残した重要な助言が一つあります。それは、私たちの生涯の目標にならなければいけないと、聖書に記録されています。

 それは何でしょうか? その御言葉は、伝道の書12章13節と14節にあります。これは、伝道の書の一番最後に記録された御言葉です。伝道の書のいわば結論として、12章13節と14節の、彼が私たちに伝えてくれた言葉を読んでみましょう。

「事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」

すべて言い尽くした、これが人生の結論だと言うのです。人間の本分なのです。それは何ですか? 私たちにとってもっとも重要で、人が存在し生きていく目的、それは、「神様を恐れ、その命令を守る」ことだと言うのです。

そして神様は、私たちが行ったすべてのことを公平に審判されます。善と悪をその基準である神様の戒めにしたがって裁かれるのです。人の目に隠れたことも、神様の目には明らかです。それで、その裁きに立つことが出来るための重要な本分は、神様の戒めを守り、神様の命令を守ることなのです。

 ソロモンは実に裕福な人物でした。彼の栄華と権勢はその当時、その地域一帯で非常に有名でした。18歳で彼は王座に昇りました。彼が王位にいるとき、世界の各地から金、銀、宝石などが集まってきました。毎日、彼の糧食を食べる食客が一万人を超えたといいます。そして、毎年、莫大な金や銀が外国から貢物として捧げられていました。シバの女王は彼の名声を聞き、その豊かさを確認しに来ましたが、実際には聞いていたことよりもっと立派で、びっくりして帰っていったと聖書は言います。

彼は箴言を300も書き、1005曲を作詞作曲したと言われています。すばらしい能力と、知恵の持ち主でした。このような知恵に満ちた人が、人生について結論的にこのように言ったのです。この言葉を聞くべきでしょうか?それとも無視すべきでしょうか?

これは聖書の御言葉であり、人生経験豊かなソロモン王に、神様が聖霊を注いで、聖霊の感動を通して私たちのために書かせてくださった霊感の言葉ですから、私たちにとってとても重要です。

そして、彼の結論は何でしたか? 神様の戒めを守ることです。神様の戒めを守って生きることが、人生でもっとも重要なことであり、もっとも知恵あることだと、彼は聖書に記録しました。

彼の父ダビデも神様の戒めについて一番長い詩篇を記録しました。それは詩篇119篇です。

また、偉大な伝道者・使徒パウロも、神様の戒めについて、新約聖書の中で数多く記録しています。彼が信仰による義について語る時、イエス様が神様の戒めについて強調されたように、使徒パウロも神様の戒めを強調しました。

パウロは、人は信仰によってのみ救われると言いましたが、しかし信仰は律法を廃止するのではなく、むしろ主の戒めと、命令を完全にするのであると言いました。

 それはイエス様が語られた言葉と同じです。イエス様も神様の戒めに従うことを強調されました。私たちがよく知っている御言葉として、マタイ5章17節から19節があります。私たちがよく知っている御言葉です。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう」。

ここでイエス様は何と言っておられますか? ここで最も小さい者とはどんな意味でしょうか? 最も小さい者とは、救われないという意味です。何とか救われて天国にいるという意味ではありません。戒めの一つでも破ったり、そうしてもいいと教える者は、救われないという意味です。

マタイ22章37節から40節をみてみましょう。

「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

 二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっていると言われました。これは何を意味するのでしょうか? 律法全体と預言者がかかっているとは、聖書全体を意味します。旧約聖書の最初の五つをモーセ五書とか律法の書と言います。それは、創世記、出エジプト記、レビ記,民数記、申命記です。それから、大預言書、小預言書など旧約聖書全体をまとめて律法と預言者と聖書は言っています。聖書全体の要点がこの二つの戒めなのです。

 この40節を英語訳で見ると次のようになります。

On these two commandments hang all the law and the prophets.

    「これら二つの戒めに全ての律法と預言者がかかっている」

すなわち、この二つの戒めが、私たちが神様と人間に対して守るべき戒めであり、この二つの戒めに、聖書の御言葉すべてが要約されているという意味です。

 つまり十戒の要約は、神様を自分のすべてを尽くして愛することと、隣人を自分のように愛することです。十戒は神様がどのような方か説明してくれます。この十戒を自分自身の言葉として表現すると次のようになるでしょう。

1.私は世界を創られた神様だけを愛します。

2.私は目に見える偶像だけでなく心の偶像にも仕えません。

3.私は神様の名前を無意味に使いません。

4.私は天地創造の記念日である安息日を聖なる日として過ごします。

5.私は自分の親を敬います。

6.私はすべての生命を尊重します。

7.私は自分が選んだ伴侶を大切にします。

8.私はどんなものでも盗みません

9.私はうそや偽りを言いません。

10.私は利己的な欲望を抱きません。

これが十戒の精神です。聖書のすべてのみ言葉の要約がここにあるのです。私たちをこのような人にするために、この十戒の言葉をくださいました。私たちは、主のみ心の通りに生き、主の戒めを守って生きるようになるために生まれ変わるのです。過去の罪の生涯を捨て、聖書通りに生きるようになるために新生するのです。

 私たちはなぜ罪を許されるのでしょうか? それは、主のみ心通りに生きるため、主の義なる戒めの通りに生きてほしいから、私たちを赦してくださるのです!

 イエス様が姦淫の現場で捕まえられた女を赦すとき、女に、私もあなたの罪を裁かないから、二度と罪を犯さないように、と語られました。 

十字架が私たちの罪を赦すのは、私たちの罪を洗い清めるのは、私たちが神様の息子、娘として主のみ心の通りに生きるためです。

 私たちが主の戒めを守るのは、私たち人間の本分です。私たちがこの地上に生きている理由はそのことです。私たちが救われ天国に行くなら、永遠に主のみ心の通りに、主にお従いして生きる品性を持ち、永遠に生きるのです。そこに罪はありません。主の戒めに背く反逆がこの世界からなくなるのです。サタンから始まった反逆は二度と起きないのです!

 神様の戒めは美しいものです。神様の戒めは神様の品性を現すために書かれた文書です。私たちが戒めを見るなら、神様がどのような方か、神様の品性を理解することが出来ます。

神様は真理です。ですから神様の律法もすなわち真理なのです。神様は義なる方です。ですから神様の戒めも義なるものです。神様は聖なる方です。ですから神様の戒めも聖だと聖書は言います。神様は完全な方です。ですから神様の戒めも完全だと聖書は教えています。

 神様と神様の戒めを分離して考えることは不可能です。神様は霊です。ですから神様の戒めも霊的なものなのです。神様は永遠です。ですから神様の戒めもまた永遠不変だと聖書は教えているのです。

 しかし、多くのクリスチャンが、私たちの救いと、主の戒めを分離して考えています。私たちはその誤解を解く必要があります。

 ある女性が、生地を売っているお店に入りました。一つの生地を注意深く見ていると、店主が尋ねました。「いかがですか?お気に召しましたか?」。彼女は「はい、とてもいい生地ですね。この生地で服を作ると、どんな感じになるか気になります」と言いました。店主は、その生地で作られた服を女性に見せました。それを見て彼女は「服にしたらもっとすばらしいですね」と言ったのです。 

 皆さん、神様の戒めは美しいものです。義なるものです。永遠です。霊的なものです。しかし、私たちはその戒めを自分の力で着ることは出来ません。聖霊の恵みによって生まれ変わった後、神様の恵みが私たちの心と思いに、神様の戒めを着せてくださるのです。それが新しい契約の経験だと聖書は言います。

エレミヤ書31章、エゼキエル書36章、へブル人への手紙10章にそのことが書かれています。新しい契約とは、聖霊様が主の律法を私たちの心に刻んでくださるということなのです。私たちの心と品性に律法が刻まれるのです。神様の律法はそのままでも美しいのですが、その律法が私たちに着せられる時、それはどれほど美しいでしょうか!

神様の義の服を着たクリスチャン、神様の息子、娘は美しくなるのです。

実は聖書の中には4種類の律法があります。第1は、民法、市民法というべきものです。この民法は、モーセの律法の中に含まれているもので、ユダヤ人としての生き方を規定するものでした。

 2つ目が衛生法です。これは、どのようにすれば健康でいられるかを規定したものです。これもモーセの律法に入っています。

 3つ目は儀式の律法です。これもモーセの律法の一つで、聖所の儀式に関するもので、どのように神様を礼拝するか、どのように祭を行うかなどが教えられています。

 第4番目は何でしょうか? 十戒です。最初の3つの律法は、国や社会や時代が変われば当然変更したり廃止することができるものです。儀式の律法は廃止されましたか? イエス様が十字架で亡くなられたことによって、十字架の犠牲を象徴するものであった儀式の律法は必要なくなりました。実際に神の小羊であるイエス様が犠牲になられたので、そのような儀式は廃止されたのです。

また、いろいろな社会規範は文化や時代の変化によって、その法が必要でなくなる場合が起きます。ですから廃止するのです。

では神様が十戒を与えられた理由は何でしょうか? それは第1に、私たちに罪を知らせるため、自分の罪を悟らせるためです。

ローマ人への手紙3章20節にこう書かれています。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」。

使徒パウロの言葉です。律法を通して自分の罪が自覚され、「このようなことをするのは罪だ」と自覚するのです。そのために律法が与えられたのです。

 神様が、イスラエル民族にシナイ山で律法を与えられた理由は何でしたか? 彼らは長い間奴隷生活をしていたため、神様の戒めをほとんど忘れてしまいました。それで神様が再び文字によって律法を与えられたのです。シナイ山以前にも律法は口伝えでありました。しかし忘れられていたので再び彼らに与えられたのです。

 たとえば、私たちがお客様を招待した時、「私の家の前で唾をはかないでください」と書く必要がありますか? ありません? どうしてでしょうか? それは誰もが知っているルールであり、みんなが守っている文化だからです。しかし、その文化を知らず、どこにでも唾をはく人には書いておく必要があります。

エデンでアダムとエバに十戒を与えられましたか? 与えられませんでした。なぜでしょう? 彼らには必要なかったからです。 「殺人を犯してはいけない」。「神様、殺人って何ですか?」。「姦淫してはならない」。「神様、姦淫って何でしょうか?」。彼らにはこのような罪が理解できなかったのです。

そこで、神様はただ一つの戒めを彼らに与えられました。他の木の実はどれでも食べても良いが、この善悪を知る木だけは食べないようにと、彼らに言われました。あなた方はこの私の法に従って生きなければいけないと言われたのです。それに違反する時罪が生じるのです。

律法を与えてくださった2番目の理由は審判の基準です。ヨハネの第一の手紙3章4節に、「すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である」。と書いてあります。

 エジプトでヨセフは言いました。「どうして私はこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(創世記399)。誘惑してくるポテパルの妻にこのように言いました。神様に罪を犯すことはできないと言いました。

アブラハムもおきて、トーラーを守ったと創世記265に書かれています。しかし、聖書にはアブラハムから430年の後、シナイ山で十戒を与えたと記録されているのではありませんか?(ガラテヤ317

その言葉の意味は、その前にも十戒はあったが、その時もう一度文字として与えられたという意味です。十戒がないと罪の基準がなくなるので十戒はいつもありました。

それでヤコブの手紙2章10節から12節に次のように述べられています。

「なぜなら、律法をことごとく守ったとしても、その一つの点にでも落ち度があれば、全体を犯したことになるからである。たとえば、『姦淫するな』と言われたかたは、また『殺すな』とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい」。私たちは良心の中に主の律法を持たなければいけません。

第3番目の理由は、律法は私たちをキリストに導く養育掛となります。

律法を通して私たちは自分の罪を悟り、悔い改める心が生じ、イエス様のもとに行くようにされます。

第4番目の理由は、律法は神様の愛を表してくれます。私たちは律法を通して神様が愛であること、神様はこのような方だと理解し、その精神を私たちが見習うことができるようになるのです。神様の戒めは、愛である神様の品性を私たちに表すものです。

第5番目の理由は、律法がないと私たちが幸せになれないからです。義の標準である律法に従う歩みをしないと、心に罪悪感や良心の苦しみが起き、幸せにはなれないのです。

神様が私たちに戒めを与えられた理由はこのようなものです。私たちが存在する意味と、人生の目的、生きる指針は、神様の戒めに調和することにあります。しかし、神様の戒めはまだ最低限の基準であって、最大限の基準ではありません。

たとえば道路交通法も最低限の基準です。赤で止まり、青で進むのは最低限の交通の基準です。そこから、他人を配慮して運転するように成長しなければいけません。同じことです。

神様の戒めが私たちの心の動機を見分けるのです。聖霊様が私たちの信仰経験を深めてくださいます。もっと深く神様を理解し、イエス様のような品性を私たちの心に育ててくださいます。聖書をもっと深く知り、理解するように導いてくださるのです。そして、神様を礼拝する心をもっと深くし、賛美と祈りをもっと深くし、隣人をもっと深く愛し、尊重するようにするのです。

神様を知るようになり、聖霊様が私たちに臨まれるようになるなら、このようになると、ローマ人への手紙8章7~9節で言われています。

「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない」。

現代には、神様の戒めを軽率に扱うクリスチャンがたくさんいます。しかし、聖書はそう言っていません。戒め自体にそれを守る力があるのではありません。神様の聖霊が私たちに内住するとき、私たちが戒めを守る品性を持ち生きていくことができるのです。

イエス様が山上で語られた教えをまとめた解説書『キリストの山上の教え』という本に、次のような美しい言葉が書かれています。

「律法は聖なるものであるが、ユダヤ人は、律法を守ろうとする自己の努力によっては、義に到達することができなかった。キリストの弟子たちは、天のみ国に入りたければ、パリサイ人の義とは異なった義を獲得しなければならない。神はみ子をお与えになることによって、律法の完全な義を彼らに提供なさった。もしかれらが心を十分に開いて、キリストを心に受けいれるなら、神の生命そのもの、神の愛が彼らのうちに宿って、彼らを神ご自身のみかたちに変えるのである。こうして彼らは、報いを求めない神の賜物によって、律法の要求する義を所有するのである。しかしパリサイ人は、『神の義を知らないで、自分の義を立てようと

努め』てキリストを拒否した(ローマ 10:3)。かれらは神の義を受け入れようとしなかった。イエスはさらに進んで、神の戒めを守るとはどういうことか、すなわちそれは、キリストのご品性を自分たちのうちに再現することであることを、聴衆にお教えになった。なぜなら、神はキリストにおいて、日々彼らの前に現されていたからである」。(キリストの山上の教え56,57p

 

実に美しい言葉です。イエス様が私たちの心に内住されるとき、私たちは主の戒めを守る、人間の本分を行う人になることができます。私たちが自分の力で守ることは不可能です。私たちの心の中に神様の恵みが内住するとき、聖霊様が私たちの心に働きかけられたとき、私たちは神様の御心通りに生きることができるようになります。

ヨハネ第1の手紙5章1節から4節にこのような御言葉があります。

「すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である」。

 

この世に勝利する力は何だと言っていますか? イエス・キリストを信じる事、信仰だと書いてありますね。私たちの罪の性質や罪の誘惑、サタンの攻撃に勝利し、世のすべての罪に勝利できる力は、イエス様を信じる信仰です。

では、イエス様を信じる信仰とは何でしょうか?それはイエス様が、私たちが天の住民になるための模範を示すためにこの世界に来てくださったことを信じることです。そのことを信じる時、もちろんその信じる心もイエス様がくださるのですが、神様はイエス様が持っておられた天の心、神様の戒めが書かれた心、戒めを愛しそれに従うことを喜ぶ心、つまり新しい心をくださいます。それによって主に従い、主のように生きる品性が育っていきます。これが人間の生きる本分だと聖書は言っているのです。

皆さんはこの心がほしいと願われますか。神様は『求めよ、そうすれば、与えられるであろう』(マタイ77)と約束しておられます。私達が心を尽くし思いを尽くして、神様の方法で求め続けるなら、必ず与えられます。自分のやり方ではなく、神様の方法でなければなりません。神様の方法とは、聖霊様の方法です。それは罪と義とさばきについて目が開かれる道です。罪が何であるかを知り、自分の義を捨て、裁きが感謝になる道です。その道で求める時、新しい天の心が与えられます。『求めよ、そうすれば与えられるであろう』。この約束が私たち一人ひとりのものとなりますようにお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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