皆さまがイエス様を信じ
伝道をしている動機はなんでしょうか?
これは極めて重要な質問ですね。
「自分のため」の動機は
いつか必ず反動が来ます![]()
しかし「神様のため」の動機は
私達の伝道心を燃え続けさせてくださるばかりでなく
最後の時代を生き抜いて
イエス様にお会いする瞬間まで
私達の心はイエス様を愛する気持ちで
再会を迎える事になるでしょう。
愛する方についてもっと知って
深く知って悟った時に
私達はその方のために
生きたいと思えるようになるのです![]()
![]()
私達が最後の時代に
信仰を持って最後まで生き抜くためにも
今一度このタイミングで
私達の信仰の動機を見直してみましょう![]()
**************************************************
私達が救われるために、また神様の働きをするためには大きな原動力が必要です。神様の最終使命をになう私達には、他のクリスチャンたちよりもっと大きな原動力が必要です。また、福音事業の結論は何か、私達の目標が明確でなければなりません。私達の戦う目標が何か明確でなければなりません。なぜ真理を伝えるのか、なぜ自分はこの福音を伝え、自分の全てを捨ててでもこの真理を伝える働きをするのか、理由が明確でなければなりません。
私達を熱心にさせる原動力は何でしょうか? 何が私達をそのようにさせるのでしょうか? 神様は創造主であると同時に救い主です。ですから、私達が神様をほんとうに知ることが出来るなら自然に熱心になります。
しかし、多くのクリスチャンは神様を知ることが表面的であるため、その原動力が不足しているのです。多くのクリスチャンが神様を信じる理由は、ただ天国へ行きたいからです。それではこの世の全てを捨てても神様に従う原動力にはなりません。なぜならそれは利己心に基づくからです。
主の御言葉通り生き、伝道のためにすべてを捨てた人々の原動力が永遠の命を得ることなら、それは自己達成の目標になります。しかし、それでは最後の時代の艱難を耐える力にはなりません。そのぐらいの動機や原動力では世と妥協してしまうのです。私達をサタンから勝利させる力は、私が救われることを望むところにはありません。神様を知ることにあるのです。
私が今言ったこの真理を、皆さんは深く考え、心の中に染みこませてください。
私達は十字架を常に瞑想する必要があります。私達はイエス様が十字架で亡くなられた理由をよく知っています。私達を愛してくださっていることもよく知っています。私達の罪の代わりに亡くなられたことをよく知っています。
しかし、私達が知っていることは、表面的な知識に過ぎないかも知れません。私達の全てを捨てて神様に従う情熱を与えてはくれません。多くのクリスチャンが神様の御心を知りながらも、結局、自分の思い通りに生きてしまう理由がそこにあります。
犠牲をいやがり、罪を捨てることを先延ばしにし、ある習慣は直さなければならないのに手をつけようとしない理由は、本当の神様を知らないところにあります。私たちの心の最大の原動力は、真実に神様を知ることにあります。
もちろん私も神様のすべてを知っているわけではないのですが、皆さんに最初の道、入口をお伝えしますのでその道をたどりながら、個人の信仰の歩みを深めていってください。これから神様のことをよく瞑想し、お祈りしながら、神様を知っていく個人的な経験が始まることをお祈りします。私達には真実に神様を知ることからくる原動力が必要です。
ヨハネによる福音書17節3節にはこのように書いてあります。
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。
ヨハネはほんとうの神様を私達に紹介するために、ヨハネの福音書を記録しました。ほんとうのイエス・キリストを知るならすべてが解決するのです。悔い改めも、告白も、罪から離れることも、偶像を投げ捨てることも可能であり、生涯の歩みで罪に勝利することも可能になります。
ほんとうの神様を知るなら、神様が私達に望まれることをすべて行うことが出来るようになります。それは真実に神様を知ることで成し遂げられます。神様とこの世につかわされたイエス様を知ることが、永遠の命を得ることだというのはこのことです。神様を知れば知るほど、小羊イエス様に従う道が明確になり、私達の全ての重荷が離れていきます。真に主を知ることが永遠の命を得ることです。
イエス様は、私達よりもはるかにこの世に来られることを望んでおられました。苦しんでいる子供を見ている親のように、この世を愛しておられるからです。私達がその神様の苦しみを知るなら、私達は神様にすべてを捧げられます。そして主を知ることから来る力は私達の心から常に湧き上がってきます。この心こそ、最後の時代の艱難を通過する力を私たちに与えてくれるものです。
この理解、神様を知る知識が私達の心の中に深くなるほど、私達はもうこの世が手に負えないほど熱心なクリスチャンになるでしょう。
最終世代の大きな原動力4
主が私達をあがなうために再臨されるには、私たちの中で罪が終わらなければなりません。そのためにはサタンの力に勝利する人が出現しなければなりません。そして、最終的に罪の創始者であるサタンを裁き、滅亡させるには、サタンの悪のすべてが暴露されなければなりません。
サタンはこの世を悪で満たしましたが、まだ、サタンの全てが暴露されているわけではありません。まだサタンはこの世の罪を神様の責任だと告訴しています。神様が守れない戒めを作ったうえに、それを守れない人を反逆者として追い出し、罪の結果を背負うようにされたのだと主張しています。その戒めを無くし、自由にしていたなら、このような事はなかったと言うのがサタンの最初からの告訴でした。
そしてサタンは、人間の心の中に、神様を恨む思いを起こさせ、人間を騙し続けています。天の存在者達はこの事実を知っていますが、この世界の人間はいまだにサタンに欺かれているためそのことが分かりません。
しかし、この欺かれた人間が、神様の愛の主権に屈服し、イエス様の前に喜んでひざまずくようになることを、イエス様は待ち望んでおられます。そのことのために、主は長い間忍耐し、このサタンとの戦いの勝利者があらわれることを待っておられるのです。
最終世代の大きな原動力5
ところで、サタンの罪が完全に裁かれるためには、二つの力、パワーが明らかにされなければなりません。
一つ目は神様のあがないの力が証明されなければなりません。二つ目はサタンによる罪の力が証明されなければなりません。
サタンは、人間は本性的に罪に勝利することが出来ないと言い張っています。人間が神様の戒めのすべてに服従することは不可能であって、それを要求することは、神様の独裁であり、独善だと主張し、すべての被造物は戒めに従うことは出来ないと言います。神様の戒めは、心の中の動機や思いまで含んでいるので、それを神様に捧げることは奴隷と同じだと言うのがサタンの最初からの告訴です。
ここから始まった戦いが、この世界で繰り広げられる一番重要な戦いです。そのような中で、神様を敬い礼拝を捧げ、神様に従って、すべてを犠牲として捧げることが出来るのは、真実に神様を知る者たちです。
神様がひとり子をこの世に送られた理由と、イエス様がこの地上で何をしてくださったかを知るとき、私をあがなわれた十字架の能力が私を変えさせ、私の思いや動機まで変えさせてくださいます。そして、自分より神様のほうが重要になり、神様の名誉と栄光のほうが大きいものになるのです。
人を愛し、人の救いのために生きておられる神様の名誉を回復させることが何より大切なことになります。神様のあがないの能力とサタンの罪の能力が今戦っていますが、神様の民を通して、神様のあがないの能力が証明されなければなりません。
最終世代の大きな原動力6
ローマ人への手紙5章は、罪によって死が支配するようになったが、罪が支配するところに、恵みが義によって罪を支配するようになったというのがパウロの福音です。
しかし条件があります。私達が罪人であった時、私達に聖霊によって神様の愛が注がれ、神様の愛を悟らせてくださいます。それによって私達の中に恵みが生じるのです。ほんとうの神様を知るとき生じる心が恵みです。
イザヤ書53章5節を見てみましょう。
「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。
この5節に含まれている意味はとても大きいものです。イエス様が砕かれたのはなぜ? 何のためでしょうか? イエス様が懲らしめを受けたことによって、どうして私達に平安を与えられたのでしょうか? イエス様が懲らしめを受けたから、私の心に平安が与えられたと感じる者はいません。しかし、この事実を私達が心の奥底から感じるとき、私達は罪を犯せなくなります。その原動力はこの世のどんな原動力より大きいのです。
神様はイエス様が苦しまれたとき、もっと大きな苦しみを感じておられたはずです。私達人間には理解できないほど、大きな苦しみだったはずです。
イエス様の生涯を通して私達は神様の愛を感じます。はっきり言葉で表現することは出来ないかもしれませんが、神様の深い愛を、イエス様の生涯を通してほんの少し味わうことが出来ます。
最終世代の大きな原動力7
私達がお祈りし礼拝するのは、神様の怒りをなだめるために行う異教の偶像崇拝のようなものではありません。神様は私達を愛してくださり憐れんでくださって、イエス様をこの世に送ってくださいました。私達は自分の罪のために生じた、神様の怒りをなだめる必要はありません。
罪のために曇った私達の目のうろこをはがさなければなりません。心のあらゆる問題をなくさなければなりません。私達の心の厚い壁を壊さなければなりません。
私達は神様がなぜ私達をそのように愛されたのか知るべきです。私たちは、子供を産み子供を育て愛する時、その理由を少しわかるようになるでしょう。
イザヤ書53章4節にこのように書いてあります。
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」。
これはイエス様が神様の怒りを私達の代わりに背負われる姿です。イエス様は十字架で亡くなられる時、神様の恵みが届かない、苦しい第二の死を経験されたのです。イエス様が打たれ、たたかれる苦しみは、神様の最後の激しい怒りを私達の代わりに受けられた経験でした。
イエス様は私達の罪をそのまま背負われました。もし、神様が私達を見捨てられるなら、私達もイエス様のような苦しみを経験しなければなりません。しかし、神様は私達が最後の裁きの時に苦痛を受けたり、その苦痛の中で後戻り出来ない後悔をするようになることを望んでおられません。その前に、私達から罪を取り除き、サタンを滅ぼそうとされるのです。
最終世代の大きな原動力8
昔、殉教者達が殉教する時、彼らは罪の結果として苦痛を受けたのではありませんでした。聖書は彼らに対して、神様の平安の中で休むのだと表現しています。
私達が最後の時代に受ける迫害も、私達の罪の代価を支払うことではありません。また、神様は私達を迫害の苦しみの中に放置されません。最後の時代に私達が受ける苦しみは、ある意味精神的な苦痛であって、肉体的な苦痛は与えられないでしょう。神様は私達の脳の中に、エンドルフィンのような麻酔効果のある成分を入れてくださいました。私達が耐えられる試練だけを与えると言われました。私達の体の中には痛みを抑える神秘的な能力があります。
しかし、イエス様が私達の罪を背負って苦しみを受けられた時は、エンドルフィンが作用しなかったことでしょう。苦痛をそのまま受けておられました。私達の罪の刑罰を自分が罪を犯したかのように背負われました。それがイエス様の苦痛でした。
イエス様が私の身代わりとして刑罰を受けられたことを悟るとき、私達の心に平安が訪れます。そのような小羊を見上げるとき、私達に平安が生じます。イエス様が私のためにどのような立場で亡くなられたか悟るので、平安を感じるのです。
最終世代の大きな原動力9
私が若かったときはこの真理が心に響いていませんでした。体験できていませんでした。イエス様が十字架にかかって私の身代わりとなって死んでくださったということは知っていても、それは知識、情報、感情であって、罪から離れる悔い改めにつながっていませんでした。
イエス様は心臓が破裂して亡くなられました。私達の罪を背負い、それを背負いきれなくなり心臓が破裂して急に亡くなられました。十字架の肉体の苦痛で亡くなられたのではありません。私達の罪のために亡くなられたのです。
神様がこの世を愛し、ひとり子を罪人たちのためにこの世に送ってくださり、私達の罪をあがなうため、私達の罪の結果を受けるためにこの世に来られたことを聖霊によって理解したとき、私達の心に平安が生じ、感謝する心が芽生え、赦す心が生じます。実際的な神様の赦しをこの身に感じるようになるのです。
神様が私を赦されるということがどのようなことか、理解できるようになります。私が救われるために、イエス様が代わりに死んでくださったことがどのようなことか、実際に理解できるようになるのです。
最終世代の大きな原動力10
イエス様は天で神様として平安に過ごすことが出来ましたが、私達のために十字架の道を歩まれました。私達を救うことができるなら、私達を回復させることができるなら、イエス様は神様であることを放棄し、人間としてこの世に来られることを望まれたのです。
それだけではありません。私達を救い、楽園に復帰させることができるなら、イエス様は人間として生きることさえも放棄する準備が出来ておられました。
イエス様は神様として亡くなられたのではなく、人間の肉体で亡くなられたのです。イエス様は神様であられることを放棄されただけではなく、人間として生きることも放棄されるほど私達を愛し、自分はこの宇宙に存在しなくても良いと思われたのです。
皆さん、このような愛を理解できますか? 人間にはとうてい理解できないほど深いものです。永遠に存在される神様が、存在することをおやめになるという事は理解できません。しかし、皆さん、このことを思い出してください。神様は私達の罪を永遠に忘れると言ってくださいました。それは神様がそのように選択されたために可能になったのです。神様にはそのように選択なさる権限があります。そして、神様は亡くなられる権限もお持ちです。神様だからです。しかし、これはとても理解しがたいことです。
聖書には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様が人間としてこの世に来られ、私たちのために罪の刑罰を代わりに受けて亡くなられるほど、この世を愛してくださいました。ですから、私達を最後まで愛してくだるのです。
最終世代の大きな原動力11
自分が罪を犯したとき、その罪の責任と罰を負わなければならないように感じるのが罪悪感です。しかし、私達の犯した罪の罪悪感と刑罰を、神様のひとり子イエス様が犯されたかのように、実際的にイエス様に転嫁され、それによって私達の罪を赦してくださるのです。それが神様の愛です。
私達がこのことを深く感じたとき、神様のためにすべてを捧げる原動力が生じるのです。自分の過ちや、失敗した時、自分の恥ずかしさより、主に対して申し訳ない気持ちしかありません。神様に申し訳ない気持ちで、主に向かって涙が流れるのです。それを悔い改めと言います。罪自体に対する悲しみです。
多くのクリスチャンが悔い改める時後悔の涙を流します。しかし、そのようなものではありません。真実の神様を知るとき、私達の心に切実な原動力が生じてきます。
私が今日お話ししたことは始まりに過ぎません。神様の苦痛を少しお話ししただけです。これを土台に個人的にまことの神様をお知りになるように願います。
最終世代の大きな原動力・最終回
永遠の命を得るのは、唯一の神様とその子イエス様を知ることです。この経験が個人的になされる時、私達は世に勝利する信仰を持つのです。これから起きる七つの災害に勝利する信仰を持つようになるのです。
聖書は14万4千人をこのように表現しています。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。彼らが大きな患難を勝ち抜けた理由は、彼らの罪を小羊の血によって洗い流したからだと言っています。
これが私達の信仰の原動力であり福音の力です。出来ないと思うとき、その心を屈服させてください。そして犠牲が難しいと感じる時、イエス様の十字架を思い出してください。イエス様を知ったら、主の十字架の権能を知るなら、すべては解決します。
現代の教会はこの福音を理解していません。イエス様が私達の罪を背負われた理由と、私が何のために救われ回復されたのかを教えません。
イエス様の十字架の苦しみは身体的な苦痛ではありませんでした。私達の罪を背負われた霊的な苦痛でした。私達の罪を代わりに背負うために、神様であられることも、人間としておられることもあきらめられたのです。
イエス様が十字架で釘付けにされた時は、神様としてではなく人間として存在しておられたので復活の確信がありませんでした。私達の罪をそのまま背負われたときは、イエス様に未来の希望の光はなかったのです。その時イエス様は、「神様、私はこのまま死んでもいいので彼らを赦してください。彼らは自分のやっていることがわからないのですから」とお祈りされました。このような愛の大きさを、私達人間はとうてい理解できません。
愛する皆様、苦しみの時、個人的に主を思い出してください。そしてこの世のすべてに勝利する信仰を育ててくださるように切にお祈りします。
**************************************************