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皆さまがイエス様を信じ

伝道をしている動機はなんでしょうか?

 

 

 

 

これは極めて重要な質問ですね。

 

 

 

 

 

「自分のため」の動機は

いつか必ず反動が来ますあせる

 

 

 

しかし「神様のため」の動機は

私達の伝道心を燃え続けさせてくださるばかりでなく

最後の時代を生き抜いて

イエス様にお会いする瞬間まで

私達の心はイエス様を愛する気持ちで

再会を迎える事になるでしょう。

 

 

 

 

愛する方についてもっと知って

深く知って悟った時に

私達はその方のために

生きたいと思えるようになるのです笑い泣きドキドキ

 

 

 

 

私達が最後の時代に

信仰を持って最後まで生き抜くためにも

今一度このタイミングで

私達の信仰の動機を見直してみましょう!!

 

 

 

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私達が救われるために、また神様の働きをするためには大きな原動力が必要です。神様の最終使命をになう私達には、他のクリスチャンたちよりもっと大きな原動力が必要です。また、福音事業の結論は何か、私達の目標が明確でなければなりません。私達の戦う目標が何か明確でなければなりません。なぜ真理を伝えるのか、なぜ自分はこの福音を伝え、自分の全てを捨ててでもこの真理を伝える働きをするのか、理由が明確でなければなりません。

私達を熱心にさせる原動力は何でしょうか? 何が私達をそのようにさせるのでしょうか? 神様は創造主であると同時に救い主です。ですから、私達が神様をほんとうに知ることが出来るなら自然に熱心になります。

しかし、多くのクリスチャンは神様を知ることが表面的であるため、その原動力が不足しているのです。多くのクリスチャンが神様を信じる理由は、ただ天国へ行きたいからです。それではこの世の全てを捨てても神様に従う原動力にはなりません。なぜならそれは利己心に基づくからです。

主の御言葉通り生き、伝道のためにすべてを捨てた人々の原動力が永遠の命を得ることなら、それは自己達成の目標になります。しかし、それでは最後の時代の艱難を耐える力にはなりません。そのぐらいの動機や原動力では世と妥協してしまうのです。私達をサタンから勝利させる力は、私が救われることを望むところにはありません。神様を知ることにあるのです。

私が今言ったこの真理を、皆さんは深く考え、心の中に染みこませてください。

私達は十字架を常に瞑想する必要があります。私達はイエス様が十字架で亡くなられた理由をよく知っています。私達を愛してくださっていることもよく知っています。私達の罪の代わりに亡くなられたことをよく知っています。

しかし、私達が知っていることは、表面的な知識に過ぎないかも知れません。私達の全てを捨てて神様に従う情熱を与えてはくれません。多くのクリスチャンが神様の御心を知りながらも、結局、自分の思い通りに生きてしまう理由がそこにあります。

 

犠牲をいやがり、罪を捨てることを先延ばしにし、ある習慣は直さなければならないのに手をつけようとしない理由は、本当の神様を知らないところにあります。私たちの心の最大の原動力は、真実に神様を知ることにあります。

もちろん私も神様のすべてを知っているわけではないのですが、皆さんに最初の道、入口をお伝えしますのでその道をたどりながら、個人の信仰の歩みを深めていってください。これから神様のことをよく瞑想し、お祈りしながら、神様を知っていく個人的な経験が始まることをお祈りします。私達には真実に神様を知ることからくる原動力が必要です。

 

ヨハネによる福音書17節3節にはこのように書いてあります。

「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。

ヨハネはほんとうの神様を私達に紹介するために、ヨハネの福音書を記録しました。ほんとうのイエス・キリストを知るならすべてが解決するのです。悔い改めも、告白も、罪から離れることも、偶像を投げ捨てることも可能であり、生涯の歩みで罪に勝利することも可能になります。

ほんとうの神様を知るなら、神様が私達に望まれることをすべて行うことが出来るようになります。それは真実に神様を知ることで成し遂げられます。神様とこの世につかわされたイエス様を知ることが、永遠の命を得ることだというのはこのことです。神様を知れば知るほど、小羊イエス様に従う道が明確になり、私達の全ての重荷が離れていきます。真に主を知ることが永遠の命を得ることです。

イエス様は、私達よりもはるかにこの世に来られることを望んでおられました。苦しんでいる子供を見ている親のように、この世を愛しておられるからです。私達がその神様の苦しみを知るなら、私達は神様にすべてを捧げられます。そして主を知ることから来る力は私達の心から常に湧き上がってきます。この心こそ、最後の時代の艱難を通過する力を私たちに与えてくれるものです。

この理解、神様を知る知識が私達の心の中に深くなるほど、私達はもうこの世が手に負えないほど熱心なクリスチャンになるでしょう。

 最終世代の大きな原動力4

主が私達をあがなうために再臨されるには、私たちの中で罪が終わらなければなりません。そのためにはサタンの力に勝利する人が出現しなければなりません。そして、最終的に罪の創始者であるサタンを裁き、滅亡させるには、サタンの悪のすべてが暴露されなければなりません。

サタンはこの世を悪で満たしましたが、まだ、サタンの全てが暴露されているわけではありません。まだサタンはこの世の罪を神様の責任だと告訴しています。神様が守れない戒めを作ったうえに、それを守れない人を反逆者として追い出し、罪の結果を背負うようにされたのだと主張しています。その戒めを無くし、自由にしていたなら、このような事はなかったと言うのがサタンの最初からの告訴でした。

そしてサタンは、人間の心の中に、神様を恨む思いを起こさせ、人間を騙し続けています。天の存在者達はこの事実を知っていますが、この世界の人間はいまだにサタンに欺かれているためそのことが分かりません。

しかし、この欺かれた人間が、神様の愛の主権に屈服し、イエス様の前に喜んでひざまずくようになることを、イエス様は待ち望んでおられます。そのことのために、主は長い間忍耐し、このサタンとの戦いの勝利者があらわれることを待っておられるのです。

最終世代の大きな原動力5

ところで、サタンの罪が完全に裁かれるためには、二つの力、パワーが明らかにされなければなりません。

一つ目は神様のあがないの力が証明されなければなりません。二つ目はサタンによる罪の力が証明されなければなりません。

サタンは、人間は本性的に罪に勝利することが出来ないと言い張っています。人間が神様の戒めのすべてに服従することは不可能であって、それを要求することは、神様の独裁であり、独善だと主張し、すべての被造物は戒めに従うことは出来ないと言います。神様の戒めは、心の中の動機や思いまで含んでいるので、それを神様に捧げることは奴隷と同じだと言うのがサタンの最初からの告訴です。

ここから始まった戦いが、この世界で繰り広げられる一番重要な戦いです。そのような中で、神様を敬い礼拝を捧げ、神様に従って、すべてを犠牲として捧げることが出来るのは、真実に神様を知る者たちです。

 

神様がひとり子をこの世に送られた理由と、イエス様がこの地上で何をしてくださったかを知るとき、私をあがなわれた十字架の能力が私を変えさせ、私の思いや動機まで変えさせてくださいます。そして、自分より神様のほうが重要になり、神様の名誉と栄光のほうが大きいものになるのです。

人を愛し、人の救いのために生きておられる神様の名誉を回復させることが何より大切なことになります。神様のあがないの能力とサタンの罪の能力が今戦っていますが、神様の民を通して、神様のあがないの能力が証明されなければなりません。

最終世代の大きな原動力6

ローマ人への手紙5章は、罪によって死が支配するようになったが、罪が支配するところに、恵みが義によって罪を支配するようになったというのがパウロの福音です。

しかし条件があります。私達が罪人であった時、私達にによって神様の愛が注がれ、神様の愛を悟らせてくださいます。それによって私達の中に恵みが生じるのです。ほんとうの神様を知るとき生じる心が恵みです。

イザヤ書53章5節を見てみましょう。

「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のためにかれたのだ。彼はみずから懲しめをうけて、われわれに平安をえ、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」。

 

この5節に含まれている意味はとても大きいものです。イエス様が砕かれたのはなぜ? 何のためでしょうか? イエス様が懲らしめを受けたことによって、どうして私達に平安を与えられたのでしょうか? イエス様が懲らしめを受けたから、私の心に平安が与えられたと感じる者はいません。しかし、この事実を私達が心の奥底から感じるとき、私達は罪を犯せなくなります。その原動力はこの世のどんな原動力より大きいのです。

神様はイエス様が苦しまれたとき、もっと大きな苦しみを感じておられたはずです。私達人間には理解できないほど、大きな苦しみだったはずです。

イエス様の生涯を通して私達は神様の愛を感じます。はっきり言葉で表現することは出来ないかもしれませんが、神様の深い愛を、イエス様の生涯を通してほんの少し味わうことが出来ます。

最終世代の大きな原動力7

私達がお祈りし礼拝するのは、神様の怒りをなだめるために行う異教の偶像崇拝のようなものではありません。神様は私達を愛してくださり憐れんでくださって、イエス様をこの世に送ってくださいました。私達は自分の罪のために生じた、神様の怒りをなだめる必要はありません。

罪のために曇った私達の目のうろこをはがさなければなりません。心のあらゆる問題をなくさなければなりません。私達の心の厚い壁を壊さなければなりません。

私達は神様がなぜ私達をそのように愛されたのか知るべきです。私たちは、子供を産み子供を育て愛する時、その理由を少しわかるようになるでしょう。

イザヤ書53章4節にこのように書いてあります。

「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」。

これはイエス様が神様の怒りを私達の代わりに背負われる姿です。イエス様は十字架で亡くなられる時、神様の恵みが届かない、苦しい第二の死を経験されたのです。イエス様が打たれ、たたかれる苦しみは、神様の最後の激しい怒りを私達の代わりに受けられた経験でした。

イエス様は私達の罪をそのまま背負われました。もし、神様が私達を見捨てられるなら、私達もイエス様のような苦しみを経験しなければなりません。しかし、神様は私達が最後の裁きの時に苦痛を受けたり、その苦痛の中で後戻り出来ない後悔をするようになることを望んでおられません。その前に、私達から罪を取り除き、サタンを滅ぼそうとされるのです。

最終世代の大きな原動力8

昔、殉教者達が殉教する時、彼らは罪の結果として苦痛を受けたのではありませんでした。聖書は彼らに対して、神様の平安の中で休むのだと表現しています。

私達が最後の時代に受ける迫害も、私達の罪の代価を支払うことではありません。また、神様は私達を迫害の苦しみの中に放置されません。最後の時代に私達が受ける苦しみは、ある意味精神的な苦痛であって、肉体的な苦痛は与えられないでしょう。神様は私達の脳の中に、エンドルフィンのような麻酔効果のある成分を入れてくださいました。私達が耐えられる試練だけを与えると言われました。私達の体の中には痛みを抑える神秘的な能力があります。

しかし、イエス様が私達の罪を背負って苦しみを受けられた時は、エンドルフィンが作用しなかったことでしょう。苦痛をそのまま受けておられました。私達の罪の刑罰を自分が罪を犯したかのように背負われました。それがイエス様の苦痛でした。

イエス様が私の身代わりとして刑罰を受けられたことを悟るとき、私達の心に平安が訪れます。そのような小羊を見上げるとき、私達に平安が生じます。イエス様が私のためにどのような立場で亡くなられたか悟るので、平安を感じるのです。

最終世代の大きな原動力9

私が若かったときはこの真理が心に響いていませんでした。体験できていませんでした。イエス様が十字架にかかって私の身代わりとなって死んでくださったということは知っていても、それは知識、情報、感情であって、罪から離れる悔い改めにつながっていませんでした。

イエス様は心臓が破裂して亡くなられました。私達の罪を背負い、それを背負いきれなくなり心臓が破裂して急に亡くなられました。十字架の肉体の苦痛で亡くなられたのではありません。私達の罪のために亡くなられたのです。

神様がこの世を愛し、ひとり子を罪人たちのためにこの世に送ってくださり、私達の罪をあがなうため、私達の罪の結果を受けるためにこの世に来られたことを聖霊によって理解したとき、私達の心に平安が生じ、感謝する心が芽生え、赦す心が生じます。実際的な神様の赦しをこの身に感じるようになるのです。

神様が私を赦されるということがどのようなことか、理解できるようになります。私が救われるために、イエス様が代わりに死んでくださったことがどのようなことか、実際に理解できるようになるのです。

最終世代の大きな原動力10

イエス様は天で神様として平安に過ごすことが出来ましたが、私達のために十字架の道を歩まれました。私達を救うことができるなら、私達を回復させることができるなら、イエス様は神様であることを放棄し、人間としてこの世に来られることを望まれたのです。

それだけではありません。私達を救い、楽園に復帰させることができるなら、イエス様は人間として生きることさえも放棄する準備が出来ておられました。

イエス様は神様として亡くなられたのではなく、人間の肉体で亡くなられたのです。イエス様は神様であられることを放棄されただけではなく、人間として生きることも放棄されるほど私達を愛し、自分はこの宇宙に存在しなくても良いと思われたのです。

皆さん、このような愛を理解できますか? 人間にはとうてい理解できないほど深いものです。永遠に存在される神様が、存在することをおやめになるという事は理解できません。しかし、皆さん、このことを思い出してください。神様は私達の罪を永遠に忘れると言ってくださいました。それは神様がそのように選択されたために可能になったのです。神様にはそのように選択なさる権限があります。そして、神様は亡くなられる権限もお持ちです。神様だからです。しかし、これはとても理解しがたいことです。

聖書には「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様が人間としてこの世に来られ、私たちのために罪の刑罰を代わりに受けて亡くなられるほど、この世を愛してくださいました。ですから、私達を最後まで愛してくだるのです。

最終世代の大きな原動力11

 自分が罪を犯したとき、その罪の責任と罰を負わなければならないように感じるのが罪悪感です。しかし、私達の犯した罪の罪悪感と刑罰を、神様のひとり子イエス様が犯されたかのように、実際的にイエス様に転嫁され、それによって私達の罪を赦してくださるのです。それが神様の愛です。

私達がこのことを深く感じたとき、神様のためにすべてを捧げる原動力が生じるのです。自分の過ちや、失敗した時、自分の恥ずかしさより、主に対して申し訳ない気持ちしかありません。神様に申し訳ない気持ちで、主に向かって涙が流れるのです。それを悔い改めと言います。罪自体に対する悲しみです。

多くのクリスチャンが悔い改める時後悔の涙を流します。しかし、そのようなものではありません。真実の神様を知るとき、私達の心に切実な原動力が生じてきます。

私が今日お話ししたことは始まりに過ぎません。神様の苦痛を少しお話ししただけです。これを土台に個人的にまことの神様をお知りになるように願います。

最終世代の大きな原動力・最終回

永遠の命を得るのは、唯一の神様とその子イエス様を知ることです。この経験が個人的になされる時、私達は世に勝利する信仰を持つのです。これから起きる七つの災害に勝利する信仰を持つようになるのです。

聖書は14万4千人をこのように表現しています。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。彼らが大きな患難を勝ち抜けた理由は、彼らの罪を小羊の血によって洗い流したからだと言っています。

 

これが私達の信仰の原動力であり福音の力です。出来ないと思うとき、その心を屈服させてください。そして犠牲が難しいと感じる時、イエス様の十字架を思い出してください。イエス様を知ったら、主の十字架の権能を知るなら、すべては解決します。

 

現代の教会はこの福音を理解していません。イエス様が私達の罪を背負われた理由と、私が何のために救われ回復されたのかを教えません。

イエス様の十字架の苦しみは身体的な苦痛ではありませんでした。私達の罪を背負われた霊的な苦痛でした。私達の罪を代わりに背負うために、神様であられることも、人間としておられることもあきらめられたのです。

イエス様が十字架で釘付けにされた時は、神様としてではなく人間として存在しておられたので復活の確信がありませんでした。私達の罪をそのまま背負われたときは、イエス様に未来の希望の光はなかったのです。その時イエス様は、「神様、私はこのまま死んでもいいので彼らを赦してください。彼らは自分のやっていることがわからないのですから」とお祈りされました。このような愛の大きさを、私達人間はとうてい理解できません。

愛する皆様、苦しみの時、個人的に主を思い出してください。そしてこの世のすべてに勝利する信仰を育ててくださるように切にお祈りします。

 

 

 

 

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愛する皆さま

おはようございますおねがい

 

 

 

突然ですが

 

 

 

神様の御国に入るためには

証印が必要だという事をご存じでしょうか?

 

 

 

私達人類は必ず

この世で生きている間に

神の印か獣の印かどちらかを

刻印されます。

 

 

 

 

 

きっと多くのクリスチャンは(かつての自分も含め)

イエス様を信じたら無条件に印がもらえて

死んだら救われて天国に行ける

と思っているのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

聖書は決してそのように教えていません。

 

 

 

 

 

 

 

私達クリスチャンは最初に

神様を信じ、生まれ変わった後に

受ける神の印と

 

 

 

 

信仰をもって戒めを守り

最後まで耐え忍ぶ者に更に押される

神の生ける印がもう一つある事を

理解しなくてはなりません!!

 

 

 

 

 

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古代の社会では、印が持っている役割はとても重要なものでした。巻物の文書を封印するときそこに印を押しました。この印がはがれていたり、破れていたらその書類は信頼されませんでした。印がきれいな状態の時だけその書類は価値があるとみなされました。

昔の印は現代のサインより、もっと重要な意味がありました。主人以外のものが印をはがしたら死刑になるほどでした。聖書で印は神様の承認を意味しました。永遠の神様の印が押されたことを意味するのです。聖書で印を押されたのは神様の所有になったという意味です。

これは神様のみかたちがその人に刻み込まれたという意味です。神様の品性が私達に刻印されたという意味であることを、私達は聖書で見ることができます。

イザヤ書8章16,20節には次のように書いてあります。

「わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。・・・ただ教とあかしとに求めよ。まことに彼らはこの言葉によって語るが、そこには夜明けがない」。

神様の御言葉通り生きてない者がとてもいい話をしても、いい行いをしても、夜明けがない、何の意味もないというのです。その中には真理もなく、救いもないという意味です。

神様が印を押されることは、神様の御言葉通りに生きることと深く関係しています。なぜなら、真理は光であり、神様は真理の光だからです。主の品性が刻印され印を押された人は主の御言葉通り生きるのです。

テモテ第二2:19。

「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。『主は自分の者たちを知る』。また『主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ』」。

主の名を呼ぶものはすべての不義から離れよと書いてあります。神様は義なる者に印を押されるという意味です。

聖書には2種類の印があります。このためクリスチャンが混乱しています。一つ目の印はパウロが言った印です。二つ目の印はエゼキエルやヨハネが言及した印です。

これは何でしょうか? このことを研究してみましょう。

まずエペソ1章13,14です。

「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである」。

神様の栄光をほめたたえるために印が押されたと書いてあります。

次はヨハネによる福音書6章27節です。

「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです」新改訳2017)

イエス様も証印を押された方です。神様が印を押した方だと説明されています。なぜでしょうか? 人として生まれ、神様の御言葉通りに生きられた方だからです。イエス様は不義から離れ、神様の真理通りに生きられたので印を押された方だと説明しています」。

コリント第二1章22節。

「神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わったのである」。

私たちが受けるべき第1の印は聖霊の証印です。御国に入る者は誰でもこの証印を受けなければなりません。証印を押されてない者は誰も入ることができません。私達が飛行機に搭乗する前にパスポートやチケットを確認されるように、御国に入る人も証印を確認されます。それは信仰で入るのですが、信仰によって品性が準備されたかどうを確認するのです。聖霊の証印が押されてない者は御国に入れません。

エペソ4章30節。

「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである」。

ここでも聖霊の証印について語られています。これが私達が最初に受けるべき証印です。

パウロが述べた証印は十字架の救いを受け入れ、神様に完全に屈服した聖徒たちは確実に救われるという、あがないを保証する証印です。イエス様を救い主として受け入れた彼らは、罪を赦されました。彼らの心は清められたので、聖霊様が、彼らは真実に神様の子になったというしるしを押されたのです。

イエス様の十字架を受け入れ罪を赦されただけではなく、十字架の力によって罪に勝利する経験をした人です。十字架は私達の罪を赦すだけではなく私達を清くし、罪を憎む心を与えます。そして、神様の義を愛するようにするのです。

このように証印は神様の働きを意味します。この罪人は罪から救われ、神様が聖霊を通して働かれたことを証明するために証印が押されます。

 

それから、最後の世代のための証印が別にあります。このため多くのクリスチャンが混乱しています。私はもう聖霊の証印を受けているのに、また証印を受けるのですか?と質問します。

しかし、エゼキエル書9章2~6節に次のように述べられています。

「見よ、北に向かう上の門の道から出て来る六人の者があった。おのおのその手に滅ぼす武器を持ち、彼らの中のひとりは亜麻布を着、その腰に物を書く墨つぼをつけていた。彼らははいってて、青銅の祭壇のかたわらに立った。

ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、彼に言われた、『町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことにして嘆き悲しむ人額にしるしをつけよ』。またわたしの聞いている所で他の者に言われた、『彼のあとにい町をめぐって、て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ』。そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた」。

ここで宮の前にいる老人とは誰のことでしょうか? 牧師たちです。一番最初に光を受け、聖書を理解し民を教えるようにと招かれた主のしもべたちから審判が始まるのです。彼らにしるしがないなら主は彼らを救うことができません。

牧師でも、長老でも、執事でも、神様の前で平等に審判を受けます。証印は天使たちにだけ見えるしるしです。人間には見えません。多くの教会のクリスチャンたちには、この神様の印が押されていません。神様のしるしがありません。私達はお互いにしるしを見ることは出来ませんが、証印を受けた者の特徴と経験があります。

教会が神様の真理を誤って教えているため、証印を受けることに失敗しています。この証印について正しく教える必要があります。神様の民は、証印とは何か、どのようにすれば証印を受ける経験をするか教えられるべきです。

ヨハネは最後の時代の聖霊の証印についてこのように述べています。

ヨハネの黙示録12章9節。

「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された」。

次に13章4節と16,17節。

「また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、『だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか』・・・また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。」。

ここにはサタンの働きが書いてあります。この世を混乱させて、その後、獣の刻印を受けさせると書いてあります。これはサタンから受けるしるし、獣の刻印です。この刻印は堕落した教会が強制します。

しかし、多くの教会では、今後、神様を否定する独裁者が現れ獣の刻印を押させるようにすると教えています。ある独裁者が現れ、クリスチャンを迫害して私達の体にマイクロチップを入れるのだと思っています。体にチップを入れるのは売買が出来ないように強要する手段になるかも知れませんが、そのチップ自体が獣の印ではありません。

こうした教えは、私達が神様の印を受けないように欺くものであることを、私達は聖書を学ぶなら理解することができます。ですから、私達は神様の印が何であるか、何が証印を受ける経験であるかを明確に知るべきです。

ヨハネの黙示録15章2節から8節です。

「またわたしは、火のまじったガラスの海のようなものを見た。そして、このガラスの海のそばに、獣とその像とその名の数字とにうち勝った人々が、神の立琴を手にして立っているのを見た。彼らは、神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って言った、 『全能者にして主なる神よ。あなたのみわざは、大いなる、また驚くべきものであります。万民の王よ、あなたの道は正しく、かつ真実であります。主よ、あなたをおそれず、御名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なるかたであり、あらゆる国民はきて、あなたを伏し拝むでしょう。あなたの正しいさばきが、あらわれるに至ったからであります』。その後、わたしが見ていると、天にある、あかしの幕屋の聖所が開かれ、その聖所から、七つの災害を携えている七人の御使が、汚れのない、光り輝く亜麻布を身にまとい、金の帯を胸にしめて、出てきた。そして、四つの生き物の一つが、世々限りなく生きておられる神の激しい怒りの満ちた七つの金の鉢を、七人の御使に渡した。すると、聖所は神の栄光とその力とから立ちのぼる煙で満たされ、七人の御使の七つの災害が終ってしまうまでは、だれも聖所にはいることができなかった」。

これは何を意味しますか? 獣とその像とに打ち勝った人々とは、神様の印を受けた人々です。この印は至聖所から出されるものなのです。至聖所では何が行われますか? 審判が行われます。天で審判が終わるまで誰も天に入る者はいません。個人の生涯を調べた後、主の御言葉通り生きた人に印が押されるのです。

真に悔い改めた者であるか、真に聖化された者であるか、真に主の戒め通りに生きてきたかが審判されると聖書は教えています。

イエス様の十字架によって救われたから終わりではなく、救われた人が真実なクリスチャンかそうではないかが審判されるのです。

審判を受けてから証印が押されると聖書に書いてあります。

ヨハネの黙示録20章4節にこのように書いてあります。

「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した」。

最後の時代には、獣の印を受けない者だけが神様の印を受けます。それを「生ける神の印」(黙示録7:2)と言います。ただの印ではありません。

聖書に二つの印があります。一つは聖霊の証印、これは人が救われて生まれ変わったときに与えられるものです。救われたすべての人が受ける印です。

それだけではなく最後の艱難の時、獣の刻印を通過するとき、真理と主の御言葉を忠実に守り迫害される者に与えられる特別な印があります。それを生ける神の印と言います。

ヨハネの黙示録7章1節から3節です。

「この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、『わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない』」。

ここに生ける神の印が登場します。四方の風が放たれる前、つまり大災害が起きる前に、主のしもべたちに生ける神の印が押されるのです。

聖書は、最後の時代に特別な神様の証印があることを示しています。最後の7つの災害が訪れる前に、四方の風が放たれる前に、主のしもべたちに生ける神の印が押されると聖書は述べています。

今この時代の自然災害や戦争、色々な現象を見て下さい。これから滅亡の危機が来るのを表す兆候です。

今は私達が生ける神の印を受ける時期です。獣の刻印が来る直前なのでいつ獣の印が襲うかわかりません。その前に生ける神の印を受ける準備をしている者だけが、品性を清め戒めに忠実な歩みをしている人だけが、最後の大災難を通過することが出来るでしょう。

ヨハネの黙示録14章4、5節です

「彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった」。

彼らはイエス様の品性を持っています。獣の刻印を受けずに生ける神の印を受けた者たちは、純粋な真理を知り、その真理によって生まれ変わった者たちです。最後の印を受ける者、イエス様の品性を受けた者たち、主が私のものだと認め印を押された者たちは、誤謬の教えに交わってない者だと書いてあります。もし、長い間誤謬を信じていたとしても、神様の御言葉通りではないものは捨て去り、御言葉に従う習慣を早くつけて下さい。聖書通りに、真理通りに信じなければなりません。

今日の皆さんの選択と決定は、皆さんの永遠の運命を決定するのです。生ける神の印を受けるか、獣の印を受けるかを決定します。永遠に生きるか永遠に滅びるかの分岐点に私達は立っています。最後の時代には神様の真理とサタンの誤謬が明確に区別されるようになります。神様の真の福音に従う者たちとサタンの偽りの福音を信じる者たちとの間に明確な違いが起きます。

いつか、この地球の歴史は終わります。その終わりの時代には、すべての人に真理と誤謬が明確に提示されます。しかし、人は自分の好み通りに信じようとします。自分の好みなのか、神様の御言葉に従うのか、それは、私たちがどの福音を信じているかを表す手がかりとなります。皆さんはどちらの福音を信じていますか? 

私達の毎日の選択は私達の印がどちらの印なのかを表します。自分を神様に屈服させることと、神様の御言葉通り生きることをしない安価な救いがもてはやされている時代です。たやすく救われ、自分を屈服させる必要のない救いが好まれる時代です。皆さんはどちらを選択しておられますか?

聖霊の証印を受けると、神様の愛が私達の心に注がれるので自分を神様に屈服させ罪を憎む品性が生じます。

ゼパニヤ書3章13節を見てみましょう。

「イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない。それゆえ、彼らは食を得て伏し、彼らをおびやかす者はいない」。

テトスへの手紙2章14節。

「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない」。

神様の戒めを守る者、罪に勝利する経験をする者たちが、最後の時代に聖霊を受ける者たちです。神を愛する者たち、神様の御言葉通り生きようと心から願う者たち、このような人が最後の時代に証印を受けるのです。

多くの人は自分にとって都合がいい所まで御言葉に従います。真理を研究するとき自分に不利になると思うと言い訳をし、自分の利益のある方を選択します。

十字架を背負うことを拒みます。一番の言い訳は、世の中の神学者や牧師も私と同じような信仰ではないでしょうかということです。

皆さん心を守って聖書の真理通りに生きて下さい。そして不義から離れて下さい。

ヨハネの黙示録22章11から14節を見てみましょう。

「『不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ』。

『見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである』」。

聖なる者だけが御国に入れると主は言われます。最期の時代に最後の民が受けるしるしがあります。そのしるしを受けるために今準備してください。そのためにお祈りしてください。

主はすぐに来られます。この世には二つの印があります。聖霊の証印と生ける神の印を受ける民になってください。

 

 

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皆様、こんにちはラブラブ

今日は久しぶりに雨が止んで

なんだか清々しい気持ちですお願い

 

 

 

 

さて

 

 

 

 

クリスチャンの中には真面目であるがゆえに

信仰生活が憂鬱で落ち込んだりする事を

繰り返している方もいらっしゃると思いますショボーン

 

 

私も以前まではそうでしたあせる

 

 

 

 

 

 

イエス様を見上げるのではなく

自分の足りなさと弱さにばかり

目がいってしまって

厳しい目で自分を見ては

 

 

 

こんな自分はもうクリスチャン失格だ

イエス様の弟子だと言える資格がない

 

 

 

と自分を責めてしまって

信仰生活に喜びがあまり

ありませんでしたえーん

 

 

 

人間というのは自分の力だけで勇気を出して

希望をもてるようにはなれなくて

 

成功をしている人に

 

 

僕も出来たから君にも必ず出来るよ!!

 

 

 

と励まして頂かないと

どんどん卑屈になってしまうのが

人間の弱さだな。。。

と気づかされました笑い泣き

 

 

 

 

それを聖書の言葉で言い換えると

義なるイエス様が

罪人である私達を義としてくださるので

そんな私達もまた何度でも勇気をもらって

その方のためにも何度でも立ち直って

新たに一歩を踏み出せると思うのですラブラブ

 

 

自分はどうせ無理だ

どうせ出来ないしそんな資格もない

 

 

と卑屈になっていると

人間というのはなかなか前を向いて

頑張れる気力さえ出てこないのですが

 

 

大丈夫だよ!!

君の過去の失敗は全部許されたし

リセットされたから

もう過去の事は忘れて

もう一度立ち直って新たな道を進むんだ!!

立ち止まっているな!!

本当に僕に感謝しているなら

君のやるべき事は立ち止まらずに

前を向いて進む事だよ!!

 

 

 

と言ってくださるイエス様は

どれほど優しい方なのでしょうか。。。笑い泣きドキドキドキドキドキドキドキドキ

 

 

 

そんなイエス様がついているなら

私達に出来ない事はありません!!

 

 

本日の説教内容は

私達の心が喜び満たされて

「しなければならない」から

喜んでしたい!!

という心に変わる化学反応が起こる秘訣も

詰まっていますドキドキ

 

 

 

 

 

 

 

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今日はクリスチャンの完全について、その正しい理解についてお話ししたいと思います。私が完全とは何かについてお話ししたい理由は、御言葉通りに生きようと願うクリスチャンが、この問題を正しく理解できていないために、混乱し失望や落胆している姿を見るからです。

しっかりした信仰を持ちたいクリスチャンにとって、とても重要な問題です。私達クリスチャンの完全な状態は何か、また神様が私達クリスチャンに求められる標準は何かについて、私達の正しい理解が必要だと思います。

多くのクリスチャンが完全について正しい理解が出来ていないため、たえず不安で混沌とした中ですごしているのをよく見かけます。現代の多くのクリスチャンはいわばうつ病状態です。

その理由は失望に陥っているからです。自分自身の望む目標に達してないからです。標準が高ければ高いほどクリスチャンはうつ病にかかる確率が高いのです。私達クリスチャンは標準が高い人たちです。私達の標準は尊い神様の品性のように生きるという高い標準です。切にそれを願っています。それが達成できないために、クリスチャンうつ病にかかってしまうのです。

このうつ病を解決する方法は二つです。簡単に、現代の教会のようにイエス様を信じているから私は救われた、だから標準など気にしないで安心して好きなように暮らしていいと思うか、主の御言葉をそのまま受け入れ、そのように生きるために最善を尽くすか、この二つの道しかありません。

「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」(マタイ548)。

この聖句を皆さん信じているはずです。しかし、この御言葉をどのように理解するかというのは人それぞれです。それで私はこの問題について聖書的に詳しく説明しようと思います。皆さんの助けになると嬉しいです。

クリスチャンうつ病がひどくなると自分の考えに閉じこもり、そこから抜け出すことが困難になります。自分自身の感情に捕らわれ奴隷になった状態です。これはとても難しい問題です。精神的な悪循環を経験しているのです。

私がこのようなことをお話しする理由は、クリスチャンの完全について正しい理解を持ってないためにクリスチャンうつ病になってしまっている人が多いからです。ですから、この完全の問題をもういちど強調し、正しい理解を持って主の前に喜びを感じながら生きる人にならなければなりません。

私達には救いの確信と喜びがなければなりません。しかしそれは、自分で自分の評価をするのではなく、神様の評価を受け入れてそれに頼って生きることから始まるのです。まずこのことを正しく理解しなければなりません。

私達は自己評価に頼って生きてはいけません。そうすると絶望します。神様の評価に頼って生きるべきです。この宇宙で一番いつくしみに満ちて、私達人間を理解してくださるお方は神様です。しかし、私達人間は、神様を一番気難しくて、審判の標準を高くして、私達を裁く恐ろしい存在だと認識しています。

私達のために十字架で亡くなられ、私達の全ての罪を赦して下さった、優しい神様より、私達の失敗を見つけて審判する神様をもっと強く意識しています。

それは、私達の間違った自己評価によって生じるのです。

イザヤ書431節です。

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、

あなたはわたしのものだ』」。

私達をあがなってくださったのは神様です。しかし、私達は生きていく中で、自分が自分をあがなったかのように、自分で考え自分の力で生きているのではないでしょうか。そのために私達は自分の力に挫折し、うつ病になるのです。

これは私が皆さんに、どうせ挫折するのだから、罪を犯しても良いといっているのではありません。このことを私達は次のように考えるべきです。

私達を完全な者にしてくださるのは神様であって、私自身ではありません。

私を神様の標準に連れて行ってくださるのは創造主なる神様であって私ではありません。私達を救うために招かれたのは、創造主であって私ではありません。

ですから、私達が出来る一番大事な事は毎日神様に自分を捧げることです。この捧げる方法をうまく習得すれば私達の心には救いの喜びが起きます。

もし、自分が人にどのように接したかとか、自分の行動が正しかったか、正しくなかったかなどという自己評価に頼って生きるなら、クリスチャンであっても常に不安と戦うことになり、うつ病になります。

先程お話ししたうつ病を解決する方法の一つ、主のみ言葉をそのまま受け入れ、そのように生きるために最善を尽くすとはどのような道かをお話ししたいと思います。神様はその道を、聖所制度を通して示してくださいました。あがないの道筋を、はっきりと分かりやすく示してくださいました。その道を一歩ずつたどっていきたいと思います。

まず私たちが、外庭の幕をくぐって中に入ります。これは私たちが心の戸を開く経験です。イエス様は「わたしは戸の外に立ってたたいていると言われましたが、イエス様はいろいろな経験を通して私たちの心の戸をたたいておられます。それに答えて、心の戸を開くとは、主語が変わる経験です。今まではいつも主語が「わたし」です。私が考え、私が判断し、評価する、わたし、わたしなのです。それが、「神様は何と言っておられるか、神様の望まれることは何か、神様は何をせよと言われるのだろうか」と、主語が神様に変わる経験です。そして、この主語が「わたし」から「神様」に変わることが外庭の門をくぐり中に入る経験です。

では、どうしたらこの主語を変えていただけるのでしょうか。それは、犠牲になる小羊を連れて、自分の罪を隠さず、聖所制度に示されたあがないの計画の希望の光に導かれながら、聖所に向かって歩き出す一歩から始まります。一歩一歩進みながら聖所の上にある白い雲の柱を見る時に、神様の深い愛を聖霊が心に印象付けてくださいます。また聖所を囲んでいる白い麻の幕を見る時にも、聖霊は神様の愛を深く印象付けてくださいます。さらに、聖所から立ち上る白い煙を見るとき、聖霊は神様の愛を印象付けてくださいます。いよいよ幕の前に来ると、入口の幕に表されている、青の服従、赤の十字架の血潮、紫の王家の印、このことに深く感動し、自分が自分がと思っていた心が溶かされ、神様の方法に身を委ねる心にしてくださるのです。

そのようにして、主語を変えていただいて中の庭に入った人は、聖霊が目を開いてくださり、正しい自分を見ることができるようにしてくださいます。自己欺瞞に気づかせてくださいます。自己欺瞞とは、たとえば、

①できない  やりたくないだけ

②純な人  肉の性質に素直なだけ

③優しい人  自己愛がい人

④自信がない人  自分を義とする心が

⑤すぐやるを無くす人  思い通りにならないからふてくされる

⑥正義感がい  自分の力でやろうとしている

⑦きれい好き  小さなことでもゆるせない批判の精神が

⑧めんどうみがよい  見返りを求めている

という具合です。そして、「こころはよろずの物より偽るもので、はなはだしく悪に染まっている」(エレミヤ179)という、この御言葉を、自分の評価ではなく、神様の評価として悟らせてくださるのです。

そして、罪祭を捧げる中で、自分のようなもののために払ってくださった犠牲の大きさを幾ぶんかでも知るようになり、「ねばならない」という動機から、感謝の動機に心が変えられ始めます。この動機が変わってはじめて、正しく燔祭を捧げる事ができるようになります。聖霊の導きのもとに、すべての偶像を捧げさせていただく経験に入ります。そして、心のすべての偶像を捧げ尽くさせていただいたとき、新しい契約の経験、心に戒めが書かれる、生まれ変わるという全く新しい経験を与えてくださいます。この心は、罪を憎み義を愛する心ですから、この心によって、長年の間に身についた罪の癖、習慣、誘惑を退けることができるようになります。この心は天からのものですから、神様はこの心を見て完全と言ってくださるのです。

 

ピリピ人への手紙312節にこのように書いてあります。

「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」。

パウロは知っていました。イエス様のような完全な品性を身につけるには、毎日目標に向かって走らなければならないのです。ですから、パウロは毎日完全な者でした。パウロの心の動機の中に神様の戒めを守らないという動機はありませんでした。ですからパウロは完全な者でした。

神様が私達一人ひとりに望まれることがあります。神様の御心は1テサロニケ43にあるように、「私たちが清くなることです」。主の望みに対して皆さんはどのような心の動機をお持ちですか? 拒否する心はないですか? 拒否する心が反逆です。神様が私に何を望んでおられるか気付いていながら、神様のご計画を知っていながら、それを行なわなかったり、拒否するならそれは反逆です。それがサタンの動機でした。そのような心が私達のうちにないことを願います。

神様に完全に捧げられた屈服した心を持っておられるなら、神様は私達を完全なものにして下さいます。私達は人格的に成長し、聖化されて、イエス様がこの地上におられたときお持ちになった思想や心、生涯の原則が私達のものになります。罪を憎み義を愛するという全く新しい天からの心をいただくときに、イエス様の品性が私達のものになります。

なぜなら、私たちにそのような心をえて下さり、そのようにいて下さり、正しい心を植え付けて下さる聖霊様と、イエス様の心の中で働いておられた聖霊様は同一だからです。このことを体験する必要があります。

聖書の御言葉は真理です。御言葉をみ、心の中に入れるなら、私達をえて完全な者とする力です。

私達を評価するのは私達自身ではなく神様です。神様が今日から永遠に皆さんを毎日完全な者にしてくださることを切に願います。

 

お祈りします。

神様、私達は主の前で完全な者となることを願います。主を喜ばせる者になることを願い、常に主に感謝し、賛美する者になることを願います。私達が完全ではなかったために主を悲しませたことで心が痛みます。私達は再び主を信頼します。私達は信じます。私達の願いは主だけに栄光を帰し、賛美することです。私達がこの世で自分自身のために生きるなら幸せではありません。自分自身のために生きるなら、誰も感動させることができなくて、だれも救えません。私達が自分自身を高めるなら、そこから得られるものは何一つありません。

私達はもういちど私達の心をすべて主に捧げ、主の為だけに生きることを選択します。私達を完全な者にしてください。私達は不完全のままいることを望みません。私達を完全に義なる者にしてください。

イエス様の御名を通してお祈りいたします。 アーメン

 

 

 

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皆様、おはようございますおねがい

 

 

 

今日の説教の内容は

「救いの条件」についてですが

 

 

 

 

多くのクリスチャンはとにかく

信じれば救われるのだから

救いを条件付きのものにするな!!

と思うかもしれませんあせる

 

 

 

しかし本当にそうでしょうか?

救いとはただ信じればいつか与えられるような

そんな迷信的なものでしょうか?

 

聖書が教える救いという概念は

 

 

罪から離れ去る事

罪の中から救われて出る事

もうその罪や悪に支配されない事

 

を指します。

 

 

相変わらず罪や悪の中にいるのに

いつか救われると漠然と信じる事は

決して聖書が教える福音ではありませんえーん

 

 

イエス様は

狭い門から入りなさい。

麦と毒麦に分けられると

ハッキリ仰いました。

 

 

ただ信じれば全員救われるなら

このようなイエス様の多くの発言は

ただ信じたら救われるという原理と

辻褄が合わなくなりますあせる

 

 

 

 

本当に信じたなら

本当に救われたなら

人生を180度方向転換して

新たな人生を歩みながらその方の

御言葉、戒め、律法を行うべきなのです。

 

 

 

 

 

御言葉や戒めと律法は

決して私達を縛るものではなく

人間が本当に真に自由を得て

神様の安息の中で生きていける

安全な羊の囲いなのです笑い泣きドキドキ

 

 

 

その囲いから彷徨い出てしまうなら

私達の中に安息や平安はなく

そのような状態では

決して救われているとは言えないのです。

 

 

 

 

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皆さまは人が救われることに条件があると思いますか? 条件があるとするならその条件は何でしょうか? 信じる人は皆救われると言われているのではないでしょうか? 信じるなら皆救われると言うなら、なぜ聖書には審判について書かれているのでしょうか?

聖書はなぜ羊と山羊など二つの種類に分けられるということを語っているのでしょうか? なぜ聖書には真実なクリスチャンを選ぶと書かれているのでしょうか? 信じれば誰でも救われると言うのですが、確かに聖書にはそのような話が書いてあります。

しかし私達は、一つ大事な事を理解する必要があります。イエス様はこの問題を明確にするため色々なたとえ話で説明してくださいました。イエス様がそのたとえ話を始められるとき、いつも、天国はこのようなものだと言いながら始められました。天国の原則を説明されました。どのような人が天国に入ることができるか、神様の審判はどのように行われるか、どのように真実な民と、そうではない民を区別されるか、天国に入るための条件を、たとえ話を通して説明されました。

 

今日はこの興味深いたとえ話について研究してみます。福音書の中でイエス様は天国の原則について説明されました。救いの条件を色々なたとえ話を通して説明されました。これらのたとえ話のポイントは、今、教会にいる神様を信じるという人が皆救われるのではないという事です。イエス様を信じ、聖書を読むからといって皆救われるのではないというのです。

条件があるのです。

ある人がイエス様に質問しました。イエス様、救われる人は少ないのですか? その時イエス様はルカによる福音書1324節の話をされました。

「そこでイエスは人々にむかって言われた、『狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから』」。

皆救われたいという願いがあって、狭い戸口に向かって行きますが、自分の背負っている色々な荷物をそのまま持っていこうとするため、狭い戸口を通れないのです。

この原則を他のたとえ話を通して説明されました。マタイによる福音書1347節から50節まで見てみましょう。

「また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。

天国は魚を囲みいれる網のようだと書いてあります。網を投げるとあらゆる魚が入ってきます。すなわち教会の中にも色々な人が入ってきます。良いクリスチャンもいればそうではない人もいます。教会の人が皆聖人ではありません。

網の中にあらゆる魚が入ってくるように、福音の網を投げるとあらゆる人が教会に集まって来ます。しかし、彼らがすべて救われるのではありません。その中から真正のクリスチャンが選別されると、このたとえ話は説明しています。

このような内容が礼服を着ていない男の話でも説明されています。マタイによる福音書22章にそのたとえ話があります。

 

「イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」。

 

このたとえ話は、先に福音を受けたのに拒否したイスラエルとユダヤ人教会を象徴しています。最初に真理と光を受けたユダヤがイエス様を拒否しました。その後、しもべたちに町の大通りに出て、出会う人は誰でも連れてくるようにと言いました。そしたら宴会場は人がいっぱいになりました。その中には悪人も善人も関係なく色々な人々がいました。王が客を迎えるため入ってきて、礼服を着ていない人を見たと、イエス様は言われました。

町で呼ばれた人々が礼服をつけてないのは、当然ではないでしょうか? しかし、その当時、王様が人々を招くときは、招かれる人に礼服も一緒に与えていました。その礼服を必ずつけていくのがその時代の常識でした。それなのに礼服をつけてない人が入っていました。彼に言い訳はできません。

彼が礼服をつけてない唯一の理由は、礼服を着るのを拒否したことです。彼は宴会に参加したかったのです。しかし、その宴会に参加するきまりを破りました。自分の思うとおりにする方を選択しました。

皆さん、招きに応じたならその招きのきまりに従うべきです。もし、私達がある会社に就職し、そこで働くのを願うなら、その会社の規則に従わなければなりません。それと同じことです。

天国に入るためには、天国の原則に従うのが当然です。神様はすべての人々を福音によって招かれました。信じるならだれでも来ることができます。救われたい人は誰でも来ることができます。神様はすべての人が悔い改めて救われることを望んでおられると聖書は言います。(1テモテ24参照)

 

誰でも救いの招きを受けました。それで多くの人が教会に集まって来ているのです。それは招かれたからです。しかし、ある人々は神様の条件に従わず自分の意志通りに生きようとしています。招いて下さった方の規則通りにしなければならないのに、自分の意志を通そうとしています。

神様は招きに応じた者は、義の服を着るように望んでおられます。この礼服をつけるのを拒否しながら教会にいる者たちは、神様に恥をかかせるのと同じです。神様が私達に与えて下さる義の服は、私達の罪をただ隠すために着せてくださるのではありません。

神様が私達に義の服を着させるというのは、神様の品性が刻み込まれるという意味です。神様の御心と原則が私の中に刻み込まれるという意味です。

私達が本当に「悔い改めて十字架の前に立つ」なら、罪が憎くなります。罪を本当に悔い改め、罪を捨て、主の前に屈服する心で来るべきです。そのとき主が天の原則、神様の品性を私達に刻み込んでくださるのです。

「悔い改めて十字架の前に立つ」というのは、十字架のあがないを具体的に表している聖所制度に示された救いの経験を忠実に歩む事によって経験し、今至聖所におられるイエス様に従って行くことです。天の原則、神様の品性が刻み込まれた人が、至聖所におられるイエス様に信仰によって従って行くことが可能になるのです。

 

マタイによる福音書2211節から14節です。

「王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。

招かれた人は多くても、選ばれる人は少ないと書いてあります。私達は皆福音の招きを受けました。それで多くの人が教会に来ています。しかし、本当に主にあって義とされた人だけが主の民です。聖書は真実に生まれ変わった人、本当に義なる者になった人が救われると書いています。

神様が私達を義なるものだと認定・証明されるとき、神様ご自身も義なる方として証明されるのです。なぜなら、神様が罪人を赦し、天国に入れてくださったとき、神様の選択が正しかったことが証明されることになるからです。私達を義なる者にし、神様も義とされるのであるとローマ人への手紙326節に書かれています。

「こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」。

 

次はヨハネの黙示録1714節を一緒にみてみましょう。

「彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。

ここで、選ばれた者たちも勝利を得ると書いてあります。選ばれた者たちは礼服をつけている者たちです。主の聖霊の感動によって義なる者になった人たちです。私達は自分でそのようになる事はできません。聖霊様の助けと感動で主の礼服を身につけることが出来るのです。私達の心が変わったのです。主の原則と御言葉通り生きたいという心が芽生えたのです。

聖書は選ばれた者が救われると書いています。どんな人でも福音の呼びかけを通して救いの招きを受けます。しかし、神様の御心を真実に行う者だけが選ばれると聖書は言っています。

私達は神様の救いの条件を受け入れなければなりません。信仰というのは知的な同意だけではなく、私達の思想や心を全て捧げ、屈服する私達の生涯全体が信仰です。

神様は自分の義の礼服を与えてくださいます。私達は喜んでその礼服を身につけなければなりません。しかし、人の全的な屈服がなければ神様は救うことがおできになりません。

真実の信仰とはどのようなものか、救われるための礼服を身に着けた状態とはどのようなものか、私達は理解しなければなりません。

網の中の魚をすべて引き上げた後、良いものと悪いものが選別されるのです。礼服をつけてない人は、宴会に入ることは出来ましたが、結局は外に追い出されてしまいました。彼は礼服をつけてないにも関わらず中にいました。

これは真の悔い改めの経験や、屈服の経験がない人でも皆教会の中にいることを意味します。

しかし、礼服をつけていない人は、最後には追い出されます。後で発覚するのです。聖書は、天国はまさにこのようなものだと言っています。

 

また私達はマタイによる福音書25章の十人のおとめの話を知っています。十人のおとめたちはあかりを持って花婿が来るのを待っていました。なぜか花婿の来る時間が遅れてしまいました。それで乙女たちは待ちくたびれて寝てしまいました。

ところが待っている間、思慮の浅い者たちと思慮深い乙女たちには違いがありました。思慮の浅い者はあかりにだけ油を入れていました。しかし、思慮深い者たちは別の入れ物の中に油を用意していました。花婿が遅れることを考えて準備していたのです。

油は聖霊様を象徴します。この暗い世の中でイエス様の再臨が遅れても、真理を理解し、聖霊の導きと感動の中で品性が変えられている人たちです。聖霊の油がなくなると、聖霊様が私達を変化させ準備させることができません。

もし花婿が遅れても、待つ準備は出来ているでしょうか。非常事態が起きても準備が出来ているでしょうか。皆さんは準備しておられますか?

あかりは御言葉、聖書を象徴します。油は個人的な聖霊の経験を象徴します。この油は自分だけが使うことが出来ます。人に分けてあげることが出来ません。これは自分の体験だからです。自分の体験は人にあげられません。知識ではないからです。これは聖霊を通して準備された個人の品性を象徴します。

油がなくなったら、買いにいけばいいという態度は間違っています。非常事態の時の準備を十分にしておかなければなりません。

皆さんはこの世界で急に経済危機が来て、お金が使えなくなったとき、水や電気やガソリンが使えなくなったとき、急にこのような危機が襲った時のために聖霊の油を準備していますか?

最後の時代の特徴の一つは、イエス様の再臨が遅れることです。そのために、イエス様の再臨の切迫を強調すると人々から嘲られ迫害を受けることになります。極端な信仰だとか、主の祝福だけを信じなさい、人々と一致することを大切にしなさい、など言われます。間違っています。聖書の御言葉による一致だけが真の一致を生み出すのです。それ以外は全て愛という名の真理の妥協にすぎません。

人々がイエス様の再臨が遅れていると思っているその時、私達が霊的に眠っている時、急に花婿イエス様の到着を知らせる声がします。

これは個人的に、イエス様が1844年に至聖所に入られ、婚姻の席につかれた、言い換えるなら、調査審判が始まった、大贖罪日になったということに霊的に目覚めることです。信仰によって個人的にその声を聞くということです。そのような人々は、神様が示された方法に従って、今、天の至聖所におられるイエス様のみもとに信仰によって従って行きます。つまり婚姻の部屋に入ります。やがてイエス様が再臨される直前に、大きな試練が起こり、婚姻の部屋に入っているかどうかが試され、テストされる事件が起こります。その時、人々の心に「さあ花婿だ、迎えに出なさい」という言葉がはっきりと響いてきて、それがどういう意味だったのかが明らかになります。その言葉をすでに霊的に理解し、婚姻の部屋に入っていた人々は、あらゆる試練から守られます。しかし、入っていなかった人は、その意味が分かっても入ることができません。霊的な体験を持っていないからです。

 

このようなイエス様のたとえ話には共通の原則があります。それはイエス様が再臨なさる直前に、教会の中で分離が起こるという事です。準備している者とそうではない者、礼服をつけている者と、つけていない者とに分けられます。

これは神様を信じている人と、全然信じていない人の話ではありません。真実なクリスチャンと偽りのクリスチャンの話です。教会の中で救われる者と救われない者がいることについて聖書は言っているのです。

イエス様はルカによる福音書646節でこう言われました。

「わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか」。

信仰があるなら、主の御言葉通り生きるようになります。御言葉を実行するなら、主の品性が宿ります。それが油を持っていることです。皆さんのあかりに油は十分でしょうか? あかりは御言葉です。皆さんは御言葉を読み研究するとき、聖霊の恵みと悟りが与えられる恵みを受けておられるでしょうか? 主の御言葉を瞑想することが好きですか? 聖書を研究することが楽しいですか? お祈りが喜びでしょうか?

皆さんはイエス・キリストの義の礼服を身につけていますか? 主を信じる信仰によって罪の赦しを確信し、救いの喜びを体験していますか? 罪に勝利していますか? 主の品性のように生きることを望んでいますか? 自分の十字架を背負ってイエス様についていくことを喜んでいますか?

 

まもなく、教会の中で良い麦と種と毒麦が分けられます。主はすぐに来られます。招かれただけでは十分でありません。神様に選ばれなければなりません。私たちの救い主であり、主であられる真のイエス様を発見し、永遠の命を発見したなら、世の中の楽しみや偶像、自分の罪を全て捨てて、その貴重なものを得るようにしなければなりません。

皆さまが真の救い体験し、それを維持していかれますように、心からお祈りします。

 

 

 

 

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今回の説教は

生まれ変わった後の私達の肉体の

性質についての内容ですが

 

 

 

私達はまず生まれ変わった後も

肉体の性質がある事を理解しなければなりません!!

 

 

 

皆様は神様の御言葉を信じて

生まれ変わった後にも

肉の思いや衝動に悩まされたり

驚きますでしょうか?えーん

 

 

私はしばしばありましたし

今でもたまに起こったりしますあせる

それは肉体の性質が残っているからであります!!

 

 

 

例えば昔好んで好き勝手に

食べて飲んでいたものを

街中で見かけるとつい思い出して

 

 

〇〇が食べたい、飲みたいな。。。

 

 

 

 

と記憶がよみがえって

恋しくなったり

 

 

 

 

 

イラっとしそうになったり。。。

 

 

 

 

 

しかし聖書はその思いが起こる事自体は

罪ではなく

その思いをはらみ孕み罪を産み出すと教えているので

思いがあがってきた時に

 

 

 

 

「イエス様!私はこの思いに従いたくありません!

イエス様の愛と義を私の中に根付かせてください!」

 

 

 

とお祈りして

意思をイエス様に向ける事で

 

 

 

あれ?いつの間にか

気にならなくなってるお願い

 

 

 

 

と分かって

そのように一つずつ乗り越えて

イエス様のご品性に近づけるように

創りかえられてきたので

最近起こる肉の思いもきっと

訓練を重ねるごとに

必ず成長できると信じて信仰をもって

日々肉の思いと性質と戦っています!!

 

 

 

そしてその訓練を続けていく事で

たった数ヶ月前までには

勝てなかった誘惑が

誘惑として感じなくなるくらい

成長できたりするのを自分でも感じるので

そういう時は喜びのあまり

神様に「有難うございますドキドキドキドキドキドキ

とお祈りしますラブ

 

 

 

私達の肉の性質をきちんと理解する事で

順調な霊的な成長ができると思いますおねがい

詳しくは以下の説教内容をご覧くださいドキドキ