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聖書では

罪をどのように取り扱っているのでしょうか?

 

 

 

私が思うに罪というのは

一種のナイフのようなものだと思います汗

 

 

人間は生まれてから

この世で生きていく上で

強く生きていかなければならないから

時にはそのナイフを振り回したり

あるいは生きづらく感じて

ナイフを自分に向けたりする時もあると思います。

 

 

 

守ってくださる親であられる神様の存在を

知らなければそう生きてしまうのは

もしかしたら当たり前かもしれないですね。

 

 

前まで私は

罪はとにかく道徳的なもので

生れた時から背負っている責任のようなもので

だからとにかくイエス様を信じるだけで

無条件にその罪がなくなるなんて

なんて福音なんだろう!!と思っていたのですが

 

 

 

神様が聖書を通して教える罪の概念や

罪の取り扱い方は

まずその持っているナイフを完全に

捨て去る!!という事です。

 

 

 

しかし罪という名のナイフを完全に捨て去るためにはまず

そのナイフがもたらす結果がどれほど深刻なのかについて

知らなければなりませんね。

 

 

 

ナイフがもたらす結果がどれほど

恐ろしくて深刻なのかが分かれば

もう二度とそのナイフを持ちたいとは

思えなくなるでしょう。

 

 

 

しかし世の中では

そのナイフを持っている事が誇りだったり

ナイフを使って得たものが

良く思えてしまうので

ナイフが危ないと分かっていても

なかなか手放せない人が大半なのではないでしょうか。。。

 

 

 

神様は愛する子供達が

危ないナイフを持って

振り回したりして

相手や自分自身を傷付ける事を

心から悲しまれます。

 

 

 

私達は罪について今一度

真剣に考えて罪を捨て去らなくてはなりません。

 

 

 

 

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私達クリスチャンの生涯は、罪と義という二つの単語の間で戦う人生とも言えます。

クリスチャンは罪の深刻さを知っています。罪が私達の生活と品性をどのように破壊するか、私達を実際的にどのように滅亡に誘うかをよく知っています。ですから私達は、罪を阻止する方法を知り、罪に勝利する秘訣を知る必要があります。罪を犯さないように、自分の全てを神様に屈服させる人生がクリスチャンの生涯とも言えます。

人々は罪の深刻さをよくわかっていないため、軽い気持ちで罪を犯します。私達の生涯は罪を赦されるところで終わるのではなく、罪を私達の中で繰り返して犯さないようにするまでがクリスチャン人生の目標だと言えます。

罪の深刻さをよく表しているのは、罪を犯したアダムとエバがエデンから追放されたことです。どうして神様はそのようになさったのでしょうか? 私達はこのように考えるかも知れません。木の実を食べたぐらいで、神様はそこまでする必要があったのだろうかと思うかも知れません。

善悪を知る木の実を食べたぐらいで、アダムとエバ以来私達まで、6000年もの長い間苦しみを受けなければならないとはどうしてだろうかと思うかも知れません。飢えや寒さに耐えなければならないし、死を迎えなければならないし、悲しみや辛さを経験しなければならなくなりました。

木の実を食べたことがこれほど深刻で重要なことなのかと思うかも知れません。

長い間の罪のため私達の脳は鈍くなり判断力が衰え、理解力がなくなり、洞察力がなくなり、罪のない清さについての理解が低くなりました。私達は罪の深刻さを聖霊と信仰によって受け入れなければなりません。聖霊によって罪の深刻さを受け入れると、聖書について目が開かれていきます。

信仰の出発は信じることです。霊的な救いの出発点は信じることからです。

神様がこの地球を創造なさったという事実を信じることから、神様を知る知識が出発します。同じように私達は心の中でアダムとエバがエデンから追い出された例を見て、罪の深刻さを信じ理解しなければなりません。

創世記2章15から17節です。

「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

神様の命令に従わないことから死に至るのです。たった一つの罪であっても私達を死に至らせます。罪は永遠に生きる命、神様の祝福を奪ってしまう深刻な結果をもたらします。

罪がどれほどは恐ろしくて深刻であるかを、私達は聖書を通して理解することが出来ます。罪の深刻さは信仰によって受け入れなければなりません。罪の深刻さを疑って受け入れないなら、私達は永遠の命を得ることは出来ません。

聖書を読むとき、聖書の御言葉の通りに受け入れ信じなければなりません。それが永遠の命を得るためのスタートであり、私達は回復し始めるのです。そして私達は赦され救われます。

創世記2章22節から25節です。

「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。 『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。

これは純粋で純潔だという事を意味します。罪が私達の心の中に入ってくる前は恥ずかしさがありませんでした。もちろんこれはアダムとエバが天使が着ているような光の服を着ていたからですが、しかしこれは彼らの心に罪悪感や恥ずかしさが全くなかったことを意味しているのです。

これは罪を犯したことがない人だけが持つことのできる心です。まさに、イエス様はこのように生きておられました。イエス様には外部からの罪の誘惑や攻撃はありましたが、イエス様は心の中で罪によって汚れた経験がないため、罪のない人が感じる純潔さや清さや平安がありました。

私達の心は堕落したために神様の純潔さや清さを理解することは出来ません。やがて神様が私達に永遠の命を与えて下さるとき、私達はそれを理解するようになるでしょう。

天使のような体と天使のような心を受けて、神様と共に天で私達がお互いに手をつないで会話する時、その時から私達はアダムとエバの純潔さ、つまり、罪を知らなかった時の品性と思想と感性を持つようになります。その時から私たちは、心に一点の罪の汚れもなく、尽きることのない感謝と喜びと平安に満ちた幸いを感じるようになるでしょう。

たとえ私たちがどれほどこの地上で清められ、神様の印を受けて義なる者とされ、全ての罪を赦されたとしても、罪の性質と記憶が残っているので、完全な天の喜びを感じることは出来ません。

しかし私達が天へ行った時には、神様が人間を創造された本当の意味を理解し体験して、神様に心から感謝し賛美するのです。

創世記3章22節から24節です。

「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた』。

神様は善と悪の両面を知っておられます。しかし、神様は100%善だけを持っておられる方です。神様には暗闇が全く存在しません。それに対して、人間の哲学は陰と陽です。この世が始まるときから善の神と悪の神が一緒に存在していたと信じています。同じく人間の心にも善と悪が一緒に存在していると考えています。

これは人間の考えです。私達人間は罪を犯した後で、善と悪を知るようになったのです。その罪を知っただけではなく、罪に属してしまいました。善と悪を知る知識が日常的に罪を犯すようにしてしまいました。これは人間の本質を変えてしまいました。考えや感情を変えてしまいました。

神様は私達の生まれ持った性質を審判なさるのではありません。神様が私達を審判される基準は私達の考えと感情を合わせた私達の品性です。

罪を犯したため品性が汚れてしまいました。この汚れた品性のまま命の果実を食べ、永遠に生きるのは危険なのでエデンから追い出されました。罪の結果を経験させられたのです。罪の辛い苦痛を経験しないと罪を捨てません。私達は罪を犯した後、罪の結果の恐ろしさを経験しないと悔い改めません。罪の結果の辛い経験をしてから神様を求め、悔い改め平安を求めます。

神様はエデンから追い出されただけではありません。またエデンに戻ってこられるように救いの道を作ってくださいました。

罪の結果を経験するのは、全宇宙には法則があるため、罪の結果を経験しなければならないのですが、神様は私達を見捨てられません。

彼らがエデンから追い出される後ろ姿を見て悲しんでおられたに違いありません。

他人を傷つける嘘や、裁き、批判は自分の心の魂と品性を傷つけるのです。相手の悪い噂は本人が悔い改め赦しを受けた後も続きます。罪と言うのはそのように恐ろしいものです。

罪をたくさん犯した人は神様の恵みがもっとたくさん必要です。罪によって意志が弱くなっているからです。神様は私達が罪を意識することを望んでおられませんでした。また罪を知ることも望んでおられませんでした。罪を知ることが悪いのではなく、罪を知り、罪の経験をもつことが致命的です。姦淫の経験がある人は、姦淫の経験がない人より苦しいのです。姦淫の経験がある人はその罪の楽しさを知っているからです。誘惑されやすいのです。

罪の経験が与える致命的な怖さを知らないため、私達は軽く罪を犯します。私達は悔い改めて赦されるとしても、もう罪を犯してはなりません。罪は犯さない方がいいのです。罪は軽く犯して軽く赦されるものではありません。罪は私達に致命的な傷を負わせます。

このことを知っているなら、クリスチャンは罪を犯さないように常に心がけるでしょう。なぜなら、罪を犯した経験が自分をどれほど霊的に苦しめるか知っているからです。

もちろん神様の血の力と聖霊の恵みは、どんなに悪質な罪人でも罪から救う力があります。しかし、覚えていいてください。罪を繰り返すうちに私達の意志は弱くなります。罪は皆同じです。しかし、同じ罪を繰り返した人は繰り返さない人よりもっと多く祈り、徹底的に屈服し、聖霊様の恵みをもっと受けなければなりません。

このことを理解しているなら、クリスチャンは罪を犯すことを恐れるでしょう。罪を繰り返し犯すと自分の考えや心がマヒするため、罪を犯しても罪悪感を持たなくなり、悔い改めようとする強力な力を感じなくなるのです。罪を犯すのは簡単です。人を非難する人は、人を非難しても罪悪感を持たなくなります。徹底的に生まれ変わり、徹底的な聖霊の感動がないと私達の良心は敏感になりません。

聖書に、私達が赦しを求め、屈服し、罪を言い表すようにと書いてある理由は、罪を告白し捨て去ることによって私達の良心が生まれ変わるからです。回復されなければなりません。

これは重要な原則です。人々は罪の深刻さをわからないために同じ罪を繰り返し犯しながらも罪悪感をあまり持ちません。

天使たちはルシファーと堕落した天使たちを目の当たりにし、罪の恐ろしさを見ました。

心の中の罪、不順従の経験は罪人の心の中にサタンが入り働きかける道を開いてしまいます。罪を犯した瞬間、私達はサタンに心を開いたのです。罪はわかった瞬間に悔い改めて捨てることが大切です。悔い改めることを後回しにし、心の中に抱き続けているなら、その罪が私達の魂に致命的な害を及ぼすのです。

罪は人間の品性に大きな弱さを及ぼします。私達を人間の本来の幸せや純粋さから離れさせます。それによって、忠誠心と順従さが低下してしまいます。

罪には2面性があります。まず、罪を犯すと罪悪感が生じます。もしも、この罪悪感がない人は良心が死んだ人です。私達の良心をイエス様の血によって洗い、聖霊様によって回復されるようにしなければなりません。

罪を犯すと罪悪感と刑罰への恐れが押し寄せてきます。刑罰に対する恐れは、私達を神様から分離させます。神様が怖くなり、審判を恐れ、お祈りするのが嫌になり、聖書を読むと罪悪感が刺激されるので御言葉が嫌いになります。そのため神様との関係が回復される前に、この罪悪感の問題が解決されなければなりません。罪の赦しが先にないと回復されません。罪を犯した人は、赦しを受けなければ罪悪感のために神様の前に立つことが出来ません。赦しがないと回復の過程が始まりません。

罪のもう一つの面は不順従を通して得る罪の知識です。罪を知らないで生きられるなら一番いいですね。しかし、不順従を通して得た知識は赦されても記憶から削除することは出来ません。神様が私達の罪を赦される時、罪の経験や知識まで無くしてくださるなら幸いです。しかし、アダムとエバの罪は一瞬でしたがその結果は一生を通して残り続けました。

罪はただ一回犯したとしても私達の頭の中に一生残ります。

創世記3章17節に次のように書いてあります。

「更に人に言われた、『あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る』」。

罪の経験や知識は私達の頭の中に残っているのです。刺激を与え、衝動を起こすのです。罪の赦しは私達の心の罪悪感を無くすものですが、罪を通して得た知識や影響力は削除されません。削除してくださるのは新しい本性と体を与えて下さるときです。

私達は自ら選択し、喜んで神様に屈服すべきです。それによって私達の品性が発達して本来の人間らしくなれるのです。私達は自由意志を持たないロボットではなく、一つの人格を持った存在として創造されました。

罪を犯した経験は私達クリスチャンの生涯に大きな障害物になります。罪を赦され神様に新しい心を与えて下さいと常にお祈りしなければなりません。罪人が罪の恐ろしい結果や悲しみを感じ、再び罪を犯さない経験をしたとき罪を止められます。これこそが私達の救いです。

この全宇宙には最初罪がありませんでした。天使にも人間にも罪はありませんでした。この罪の発生は神秘です。

そして、罪の治療と罪が全宇宙からなくなるためは、罪を犯した者が罪の恐ろしさと悲しみを感じ、再び罪を犯さない経験が心の中に生じたとき宇宙から罪が消えるのです。

神様が私達人間を、罪を犯すように創造されたのではなく、そのような事故が起きたのです。しかし神様はこの事故を通して、永遠に宇宙に罪が起きないように計画なさったのです。あがないの計画です。神様は機械を扱っているのではなく、良心と知性を持った人間を扱っておられるのです。

もし、神様が罪を赦してくださるとき、罪の結果も無くしてくださるなら、人々は罪の恐ろしさを知ることがないので罪の本質を悟ることが出来ないでしょう。罪は早く捨て、悔い改めて下さい。神様に私達の良心を清くしてくださいと祈らなければなりません。清い心を創造していただかなければなりません。新しい考えや心、動機を与えていただかなければなりません。

神様が私達を新生させてくださっても、サタンは色々な環境を通して私達の罪の記憶を刺激して誘惑してきます。ですから、私達が罪の経験を多く持てば持つほど不利になります。罪の記憶が私達を苦しめます。誘惑の衝動を引き起こします。私達は罪の影響を引きずらなければなりません。

私達は毎日、罪の赦しを受けるのですが、審判を通過し神様が印を押してくださるとき私達の罪の記憶を消してくださいます。なぜなら私達の救いが確定されたためです。罪を憎み、罪から勝利し、神様の戒めを守る人とされたからです。

そのことを全宇宙の天使が認めたからです。その時私達から罪の知識と罪の経験や記憶が永遠に消えるのです。その時私達の心の中に、アダムとエバが創造されたときの純潔さが訪れます。その時真の幸せと喜び、清さが私達の心に訪れます。今はわかりません。今は真の喜びと幸せが何かわかりません。

罪が何かを教えるために神様は私達に十戒を与えられました。私達は自分で自分の心の罪を悟ることが出来ません。罪を悟らせくださる恵みが十戒です。

詩篇19篇1節から14節まで読みましょう。

もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。

 

罪を犯した私達の魂を清くし、罪から心を守り、日々生まれ変わるために主の戒めと御言葉をいつも見なければなりません。そして聖霊様の内在により罪に勝利しなければなりません。

罪の致命的な害毒を理解しなければなりません。そして罪の誘惑を主の御言葉によって勝利されることを願います。

お祈りします。

私達の心に主の御言葉を正しく理解させてください。そしてその御言葉が私達の中で生きて働き、御言葉通り生かしてくださり、主の戒めが金より重要で、はちみつより甘いものとして、常に従う希望を私達の心の中に入れて下さい。そして私達の心が清くなり、罪の致命的な害を悟らせ、罪から離れさせてください。私達の心に新しい考え、感情、動機を与えて下さり、私達が罪に勝利出来るまで神様の恵みを私達の心に満たしてください。イエス様の御名を通してお祈りします。 アーメン

 

 

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クリスチャンの方なら一度は天国や地獄について

必ず耳にした事があると思います。

 

 

多くの教会では

 

とにかくイエスキリストを信じたら救われて

死んだあとは天国にいけて

信じない人は死んだあと地獄にいき

永遠に火で焼かれる

 

と教えていますし

多くの信者はそれを信じていると思いますあせる

 

私もそう信じていた一人でした。

 

 

 

SOSTVが伝える聖書の真理を知るまでは

心のどこかで神様と地獄が怖くて

滅ぼされたくなくて

信仰していた部分がありましたショボーン

 

 

 

教会では神様は愛だと教えますし

自分の口でも神様は愛だと言っていましたが

心のどこかでは

ご自身を信じないだけで永遠に地獄の火で苦しめる神様が

愛だと思えなくて葛藤していた時期もありましたあせる

 

 

 

 

巷でも最近は天国や地獄を見てきたと

発言している人たちが増えているようですが

その話しの中でもよく

神様を信じなかった人たちは永遠と死ねずに

火で焼かれて永遠に苦しみ続ける

という証言をよく目にします汗

 

 

果たしてそのような説は本当に聖書が教える真理と一致しているのでしょうか?

サタンだって奇跡を起こせますし

幻を見せられます。

 

 

私たちはすべての体験を聖書の上において

きちんと検証しなければ

この最後の時代は惑わされてしまいますえーん

 

 

 

 

聖書が伝える

死後の状態や

最後の審判

天国と地獄について

きちんと知る事は私達の信仰生活においても

大きな影響を与えると思いますビックリマーク

 

 

 

きちんとした知識は私達を

健康的な信仰をもてるように導いて

神様について正しく知り

正しく伝えられるように導いてくれます!!

 

 

 

 

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人が死んだあと、永遠に地獄の火で苦しめられるという教えは、しばしば神様を誤解させ不信を起こさせている問題です。この問題について多くの人が間違って教えられているため、神様について誤解しています。これは私達が必ず正しく理解しなければならない需要な問題です。

私達が亡くなった後、神様は私達をどのように審判なさるのでしょうか?

本当に神様は私達を地獄の火の中に入れ、永遠に燃やし続け苦痛を与えるのでしょうか? 皆さんはこのように教えられ信じておられませんか? もし、そうだとすれば、神様はなぜ人間を創造されたのでしょうか?

神様は人間を、永遠に罪を犯さないで生きるチャンスを与えるために創造なさったのです。ところが多くの人は自分の犯した罪の報いとして、恐ろしい罰を与える神様だと誤解しています。そのために、神様とは残酷で恐ろしい方だと思ってしまい、審判が恐ろしくて神様を信じている人も多いのです。

現代の牧師たちは神様は愛の方だといいながら、地獄で永遠に人々を苦しませる神様でもあると教えています。

また、最近ある人は自分が天国と地獄を経験したと言っています。地獄の説教で有名だったサムエル・ホプキンス博士は次のような事を書きました。

「地獄の苦痛の煙は、救われた者たちに見えるところで永遠に立ち昇らなければならない。これは神様の尊い品性と栄光が、聖徒達に喜びを与えるためである。もし、地獄の煙が立ち上らなくなるなら、救われた者たちの喜びも終わるのであろう」。このような事を書いています。言葉にならないほどおかしな話ではありませんか? 悪人がうめき声を上げて苦しむ姿が、救われた者たちの喜びとなるのでしょうか?

エゼキエル書18章23,32節です。

「わたしは疫病をこれに送り、そのちまたに流血を送る。その四方からこれに臨むつるぎによって殺される者がその中に倒れる時、彼らはわたしが主であることを知る」。

神様は悪人の死を好まないと書かれています。今日のメッセージを聞かれる皆さんに、聖霊の光が注がれ、聖書の真理を悟られることを祈ります。

皆さん常識的に考えてみてください。一番初めの殺人犯はカインでした。もし、そのカインが地獄にいるなら6000年間地獄の火で焼かれています。それから、ユダヤ人約600万人を迫害し殺したヒトラーは約70年間地獄の火で焼かれているということになります。

おかしくありませんか?カインよりもっと残酷なヒトラーはまだ70年間しか焼かれてないのに、カインは6000年間焼かれているというのはおかしなことではないでしょうか。

生まれたばかりの子供も地獄に行くのでしょうか? 彼らは地獄でどのように焼かれるのでしょうか? 生まれたことには何の罪もないのではないでしょうか?

永遠地獄節の教えは、神様をヒトラーより残酷な方にしてしまうのです。私たちはロウソクの火でさえ熱くて触れないのに、全身が、死ぬ事もなく火の中で苦しむのだとすればその苦痛はどうでしょうか? そのような神様はヒトラーより残酷ではないでしょうか? 神様は本当にそのような方でしょうか?

ナホム書1章9,10節です

「あなたがたは主に対して何を計るか。彼はその敵に二度としかえしをする必要がないように敵を全く滅ぼされる。彼らは結びからまったいばらのように、

かわいた刈り株のように、焼尽される」。

 

ヨハネの黙示録20章9節です。

「彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。」。

 

詩篇37篇20節です

「悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない」。

 

悪人は消えうせると表現しています。聖書は悪人を燃えつくして消滅させると書いているのです。

 

地獄はありますか? もちろん、聖書は地獄があると説明しています。問題は地獄がどこに、どのように存在するかという事です。私達は地獄の問題を聖書的に研究し、聖書的に理解しなければなりません。

聖書にまたこのような話もあります。

マラキ書4章1,3節です。

 

「万軍の主は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と、悪を行う者とは、わらのようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して、根も枝も残さない。・・・また、あなたがたは悪人を踏みつけ、わたしが事を行う日に、彼らはあなたがたの足の裏の下にあって、灰のようになると、万軍の主は言われる」。

 

神様は悪人を燃やし、灰として無くすと書いてあります。燃えつくして無くすのです。永遠に燃やすのではありません。

次はエゼキエル書28章18,19節です。

 

「あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。

 

このように、聖書は明確に書いています。悪人とサタンを燃やし尽くして、永遠に消滅させるのが地獄の火なのです。このことを人々が誤解してしまいました。聖書には、彼らの存在を終わらせると書かれています。

もし地獄で永遠に燃えているのなら、地獄で永遠に存在することになります。

罪の支払う報酬は死であると書かれています。もし、永遠に地獄で燃えているのなら死ではなく、永遠の苦痛になります。死ではないのです。

地獄はあります。地獄の炎もあります。しかし、地獄は今も地下で燃えている永遠の火ではありません。

聖書は、地獄をサタンと堕落した天使たちを燃やして消滅させることだと説明しています。同時に、罪を悔い改めなかった悪人たちも、一緒に燃やして消滅させられるのです。地獄とは、サタンと堕落した天使たちを燃やして消滅させる場所だとイエス様は説明されました。

もともと霊魂の不滅説は異教のギリシャ哲学から生まれたものです。そして、霊魂の不滅説と地獄説はつながっています。聖書は魂が永遠に存在するとは教えていません。聖書は「罪を犯した魂は必ず死ぬ」と書いています。(エゼキエル書18章4節)

聖書通りに理解するのはとても重要です。

もし、人が死んだらすぐに魂が抜け出て生きるのなら、なぜ復活が必要になるでしょう? 聖書にはイエス様の再臨の時、死んだ者たちを墓から復活させると書かれています。これが正しい教えです。

人々は神様を恐ろしい存在とおもわせ、神様から離れないようにするために恐ろしい地獄を教えるようになったのです。聖書にはそう書かれていないにも関わらずそう考えてきました。

私たちが仕える神様はそのような方ではありません。皆さんはどのような神様に仕えていますか? どのように神様を理解しておられますか? ヒトラーより残酷な神様ではないことを、聖書的に理解されることを願います。

ヨハネの黙示録20章9節には、天から火が降ってきて彼らを焼き尽くすと書かれています。焼き尽くすとは、灰にして無くしてしまうという意味です。

聖書は地獄の火はあると教えています。しかし、それは神様に喜びを与えるものではありません。罪は燃やし尽くして消滅させるしかないのです。また、義人と悪人が永遠に同時に存在するのではありません。悪人をやむをえず消滅させた後、全宇宙に義人だけが存在するようになることが正しいと思いませんか?

宇宙のどこかで、救われなかった自分の親や子供が永遠に燃やさていれると思ったら、天国でも平安にいられないのではないでしょうか。皆さんなら罪を犯した自分の子供を永遠に炎の中で燃やしますか? それとも罪の支払いとして燃やし尽くして消滅させますか?

それは心が痛いことです。しかし、悔い改めない彼らを仕方なく燃やし尽くして消滅させるしかありません。

このように人間の心でさえ痛むのに、慈悲深い神様の心はどうでしょうか?

たとえ悪人の滅亡であっても、神様の心を痛ませ、苦痛を与えるのです。しかし、正義のために悪人を消滅させるしかありません。

このように話してくると、疑問が生じるかも知れません。お話は理解しましたが、聖書に出てくる地獄の話はどのように理解すべきでしょうか? 地獄の炎を説明するために使用される聖句は次のようなところです。

ヨハネの黙示録14章10,11節。マタイによる福音書25章46節。マルコによる福音書9章43から48節。ルカによる福音書3章16,17節。16章9から31節です。

よく用いられる聖句です。永遠の地獄を表すような表現があります。神様は愛の神様です。誰一人滅亡することを望んでおられません。しかし、最後まで神様の愛を受け入れないで、罪を悔い改めない罪人は、最後にサタンを燃やし尽くす時一緒に燃え尽くされるのです。灰になってしまうのです。

 

しかし、私たちにとって一番大きい苦痛は、罪悪感の苦痛です。永遠の命を失う後悔の苦痛です。

神様は審判されるのでしょうか? もちろんです。罪は永遠に消滅させられるのです。

ですから、私たちは悔い改めなければなりません。また、神様のご品性を誤解しないでください。神様をヒトラーより残酷な方にしてしまわないでください。

聖書が言う永遠とは、審判の火の目的と結果が永遠という意味です。火、地獄の炎そのものが永遠と言う意味ではありません。火で燃やし尽くして消滅させるのが火の目的です。火は燃やすものをすべて燃やし、燃えるものがなくなると火は消えます。それが永遠の意味です。

皆様が、これらの問題を聖書から正しくお知りになり、神様の愛を心から感謝していかれますようにお祈りします。

 

 

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皆様お久しぶりですおねがい

 

 

 

更新期間が空いてしまったのですが

また今日から説教内容を

どんどんあげていきたいと思います!!

 

 

本日のテーマは「愛と信仰と恵みの定義」についてですが

私は以前まで愛とは何かの「感情」だと思っていましたガーン

 

 

 

しかし聖書が教える愛というのは

原則の上にきちんと立って

従い行う事を指しているという事を知った時に

愛というものが少しずつ分かってきたのですラブラブ

 

 

 

多くのクリスチャンは

神様を信仰していて愛というものを

知っていると思っているかもしれません。

 

 

 

しかし私達は聖書が本当に教える

愛や信仰や、さらには恵みとは

何なのかについて知る必要があると思いますビックリマーク

 

 

 

 

本日の説教内容でとても印象深い箇所は

 

何かを信じる知的な同意を信仰とするのなら、この地球で一番信仰を持っているのはサタンです。現代の多くのクリスチャンが持っている信仰を信仰とするなら、サタンこそ一番最高の信仰者ということになります。サタンは神様について全てを知り同意しているのです。しかし彼は決して神様に従おうとはしません。

 

この部分なのですが

驚く事にサタンはこの世で一番最高の信仰者だという事ですびっくり

 

 

 

信じる事は誰にでもできます。

知る事が誰にでもできます。

なんなら当初、天で神様の一番近くに居たのは

サタンなので神様に対する知識や信仰は

サタンが一番もっているのです。

 

 

 

なのでただ信じている事や

知っているだけでは何の意味もないのですあせる

 

 

クリスチャンとして生きるという事は

どういう事なのか?

信仰をもって愛をもって生きるというのは

どういう事なのか?

今一度考えてみなくてはなりません。

 

 

 

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私たちの信仰生活に浮き沈みが多いのはなぜでしょうか。どうして上がったり下がったりを繰り返し、同じところに停滞し続けているのでしょうか。信仰生活を何十年送っていても聖書通りの生き方ができていないのはなぜでしょうか。端的に言います。それは真理が明確に教えられ実践されていないからです。神様の確実な真理の御言葉の上に立っていないために、嵐どころか、そよ風が吹いたぐらいで倒れてしまうのです。そこで今日は、私たちが間違って理解してきた言葉について、その正しい定義をお伝えしたいと思います。それが分かるなら、私達の信仰生活は、確実に前進できるのです。

それはキリスト教の根本である、愛と信仰という言葉です。愛と信仰を私達がどのように理解するか、それによって私たちの信仰生活が全く違うものになるのです。

もちろん、聖書は愛と信仰に関するテーマで満ちています。私達クリスチャンから愛と信仰を除くと何が残るでしょうか? 愛と信仰はそれほど重要なテーマです。しかし、問題はこの二つの概念が間違っていることです。そのために信仰生活が誤びゅうに覆われ、停滞しているのです。

世の中の決まりやルールに対する間違った考えは、少し注意して直せばいいのですが、この愛と信仰に関する理解を間違えるなら、私達は永遠の命を失うのです。

これはただ財産や健康を失うのとは違います。永遠の命を失うのです。それでは、この大事な問題について私達はどのように理解すべきでしょうか? 聖書で言う愛とは何でしょうか? よく「神様を愛しましょう。神様は愛である」と言われます。

イエス様は、律法を要約すると、神様への愛と人への愛だと明言されました(マタイ22:37-39)。この二つの愛が律法と預言者の教え全体をまとめたものだと言われたのです。十戒を二つにまとめるなら「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛せよ」と、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」ということなのです。これが聖書の全てだとイエス様が教えられました。つまり、律法は愛であり、愛は律法であると言われたのです。

愛は信仰生活の中で最も基本的なもので、しかもたいせつなものです。しかし、この愛についての理解が間違っているなら私達は正しい信仰生活をおくることができません。

愛とは簡単に言うなら感情ではありません。もちろん愛する時、好感や心の中に熱い思いも生じます。感情が伴うのを否定することはできません。しかし、基本的に愛は湧き上がる感情ではありません。現代ではこの感情的なものを愛だと思ってるために色々な問題が生じているのです。では愛とは何でしょうか。それは原則であり、行いであり、行動です。このことが多くのクリスチャンに誤解されているために、人々は神様に従うのではなく、自分に都合の良い解釈をしながら信仰生活を送っています。

たとえば、断食祈祷している時に起きてきた何かの不思議な感情によって、自分は神様を愛していると思っています。また、賛美するときメロディーや歌詞に陶酔しているそのような感情を神を愛することだと思っています。

しかし、それは違います。聖書ではそのような感情を愛だとは教えていません。

ヨハネによる福音書3章16節をお読みします。

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。

神様は、私達の赦しと救いのために、ご自分のひとり子をこの世に賜ったと書いてあります。神様が私達のためにイエス様を賜ったこの行為を聖書は愛と呼ぶのです。

神様は天から私達を見下ろして、感情的な愛を感じておられたのではありません。神様は一人子を賜ったのです。愛は考えたり、感じたりすることではなく、具体的に行動することだと神様は説明されたのです。

ヨハネ第一の手紙4章7-10節です。

4:7愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。 4:8愛さない者は、神を知らない。神は愛である。 4:9神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。 4:10わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。

神様は私達に愛とは行動であることを示されました。それが愛です。愛は神様が私達に命じられた事を行うことです。この単純な概念が誤解されているために多くのクリスチャンに問題が生じるのです。

私達の罪のあがないの供え物として、イエス様は十字架で亡くなられました。私達の罪を代わりに背負う行動をとられたのです。愛は行為です。行動です。

ヨハネによる福音書14章15節と21節です。

「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」。

「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

愛は神様の律法を守ることです。このことが誤解されています。主を愛するとは自分の中の湧き上がる感情的なものだと誤解されているのです。教会で賛美を歌いながら神を愛すると言います。しかし、教会の外では子供を怒鳴ったり、愚痴や不平不満をつぶやいていながら、自分は主を愛していると錯覚しているのです。主を愛するというのはそのようなものではありません。愛とは神様の律法を守り、聖書の教えに従う事です。自分が行う行為です。

これは律法主義ではありません。主の戒めに反する行動が間違いであり罪なのです。神様の戒めを守るのは正しいことです。

このように、教会が間違った教えを伝えているために、愛について誤解してしまいました。愛を正しく理解していないために、このようなことが起きているのです。

また、結婚生活に問題が生じるのは同じように愛に対する誤解の為です。夫婦が互いに愛するというのは、彼らがお互いに交わした誓約に忠実であるということであって、好き嫌いの感情ではありません。行動そのものなのです。

ですから、ドラマや映画の愛は偽りです。そういうものによって、間違った愛の理解を持つようになってしまうのです。サタンは私達クリスチャンの心に愛について誤解するように仕向けています。

愛は対象に対する暖かい感情ではありません。愛は契約による行動です。忠実な行いです。契約を守ることであり、原則に従うことであり、行動することです。単純なことなのです。

この問題が正しく理解されるなら、私達の心に改革が起きるのです。皆さん今もしかしたら神様の戒めに従ってない何かがあるのではありませんか? そうだとするなら、神様を愛しているのではありません。愛しているとしても、それは部分的で制限された愛です。神様への愛は、70%、90%でもだめで、100%のもの、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛」することです。

私たちが主に従って生きようとするなら、必ず世と衝突することが起きてきます。世の価値観、しきたり、ルールと神様の戒めは一致しないことがあるのです。その時生じる不利益のために、恐れて行っていないことがあるなら、皆さんはこの世を愛しているのです。神様を愛しているのではありません。

1ヨハネ2:15「もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない」と言われているとおりです。

この単純な理解が信仰生活を正しい方向に導くようになります。私達の心に、神様に向かう切なる忠誠心や献身、従順心があるなら、神様は私達の中の愛を認めてくださるでしょう。そしてそのように私達が生きることができるように、力も与えてくださいます。

コリント第一13章4節から7節です。

13:4愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 13:5不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 13:6不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 13:7そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」。

愛は実際の行為です。原則に対する従順そのものです。

十戒を考えてみましょう。この十戒の中で一つでも守らない人は、神様を愛してるいのではありません。

 

 

次に、信仰に関する誤解です。信仰というのも教会の中心的な言葉です。しかしこの簡単な単語が、間違った概念で理解されています。信仰とは何でしょうか? 愛は行動だと言いました。そして、信仰も行動なのです。信仰とは聖書の御言葉に対する私達の理性的な同意や感情ではありません。信仰とは、神様の御言葉に従う行動です。このことが誤解されているため信仰生活に多くの問題が起きてしまうのです。

単なる知的同意は、信仰があるように見えますが偽りなのです。愛に見えますが偽りです。

へブル人への手紙11章4節,6-10節をお読みします。

11:4信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。・・・11:6信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 11:7信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 11:8信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 11:9信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 11:10彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」。

 

信仰は行動です。主の命令に従って生きる生涯であり、主の御言葉に従うことです。ですから、主の御心、御言葉通り生きてないのは信仰ではありません。それは単なる思想、知識、主義に過ぎません。信仰ではありません。

信仰とは行き先がわからなくても神様を信じて前進すること、そのような生き方、従順な行動を信仰と定義しています。

ヤコブの手紙2章17-24節です。

 

2:14わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。 2:15ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、 2:16あなたがたのうち、だれかが、『安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい』と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。 2:17信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。 2:18しかし、『ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある』と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。 2:19あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。 2:20ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 2:21わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。 2:22あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、 2:23こうして、『アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた』という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。 2:24これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない」。

何かを信じる知的な同意を信仰とするのなら、この地球で一番信仰を持っているのはサタンです。現代の多くのクリスチャンが持っている信仰を信仰とするなら、サタンこそ一番最高の信仰者ということになります。サタンは神様について全てを知り同意しているのです。しかし彼は決して神様に従おうとはしません。

私たちの信仰は聖書的な信仰、すなわち、アブラハムが持ったような服従し行動する信仰でなければなりません。アブラハムは、その行いによって義と認められたのです。

感情的な愛や、知的な同意による信仰ではなく、原則に従う愛、行動に表される信仰、そのような愛と信仰が神様に認められたら、私たちは天に受け入れられることができるのです。

 

神様が人間に与えようとしておられる天の報いは、素晴らしいものです。神様は、この偉大な祝福を口先だけの愛の人、服従することのない信仰者に与えられることは決してありません。

それは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なるあなたの神を愛」する人、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛」する人に与えてくださるのです。

小羊が導かれるところに従う者たちがクリスチャンです。行いのない信仰は間違っていると教えられています。

ヤコブの時代に教会の中にこのような口先だけの信者、言うだけで実行しない信者の問題が起きてきたために、正しい信仰とはどのようなものか説明したのです。

マタイによる福音書7章21から24節です。

7:21わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 7:22その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 7:23そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法をく者どもよ、行ってしまえ』。

7:24それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう」。

 

ここに2種類の人が登場します。彼らは主を賛美し、お祈りし、伝道し、献金を捧げ主の名を呼んだ人たちです。しかし、天に受け入れられるのは神様の御心通りに行った者です。主の御心に従って生きなければなりません。神を信じると言うのは、主の御言葉に従って生きることを意味します。従い歩むことが信仰です。

 

もちろん私たちが神様に従うためには、神様の恵みが必要です。ユダヤ人たちは神様の律法を守るために作った細かい規則集、社会制度を持っていました。形だけそれに従っていれば信仰があると思われるようになってしまったのです。しかし、律法は心で守るものです。神様の恵みによって守ることができるようになるのです。

神様の恵みに頼らず、自分の力や努力で守ろうとすると律法主義になり、気難しい人になります。律法を守るという人たちの品性がおかしくなるのです。

 

愛と信仰と同じように誤解されていることのもう一つのものが。神様の恵みです。恵みは神様が私達を憐れんでくださる同情心以上のものです。恵みは神様が私達に与えて下さるやさしさ以上のものです。恵みは神様の福音の力です。主がわたしたちを救うために、聖霊様を通して私達の心に働きかけてくださる福音の力です。その恵みは私達が主の愛を知り、悔い改め、主の戒め通りに生きようと屈服したとき、聖霊様が私達の心に入ってくださり、私達の動機や考えを変えて下さり、新しい心を私達に入れて下さり、主の戒め通り生きたいという願いが切に生じるようにして下さる主の力です。

福音は神を信じる人々を救う神様の力だとローマ人への手紙1章16,17節に書いてあります。「1:16わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。 1:17神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」。

 

主の戒めに従い、生き続けるようにさせてくださるのが主の恵みです。信仰から信仰へ、義なる者から義なる者へと、義が強く深く信じるものの中に根付くようにされるのです。

それが神様の恵みの働きです。以前は罪が私達を支配していたのですが、恵みが私達を支配し、私たちが罪を支配するようにしてくださるのです。これが福音の力です。主の福音は私達の肉体の性質や思想を変えるのではなく、私達の心に新しい清い霊を与えてくださり、主に従う動機を変えてくださり、出す言葉を変えて下さり、行動を変えて下さり、私達の生き方を変えて御言葉と一致するように導いて下さいます。

それが新しく生まれるということです。私達には、神様を愛する心は微塵もなく、反逆と敵意しかなかったのです。世と罪と自分しか愛してこなかった者に、義を愛し罪を憎む新しい心を与え、主の戒めに従うことが私達の喜びになるようにしてくださるのです。そのようなことは、私達がどんなに頑張って行おうとしても、決してできなかったことです。正しいことが分かっていても、従うことができなかった、その心に、天の新しい要素を植え付けてくださるのです。それが主の福音の力です。人間のうちに、サタンに対する敵意を起こさせるのは、キリストが心の中に植え付けてくださる恵みです。キリストがお与えになる力によって、人間は暴君であり、横領者であるサタンに抵抗する力をえることができます。だれでも、罪を愛する変わりに、罪を憎み、これまで心の中を支配していた欲望に抵抗して、それに打ち勝つなら、それは天からの新しい原則が働いている証拠です。

 

主に対する愛、信仰、恵みに関する概念を正しく理解し体験するなら、神様がもっとはっきり分かるようになり、聖書が新しく見えてきます。

 

皆さんは神様がよく分かりますか。私たちはどのようにしたら、神様がもっとよく分かるようになるでしょうか。神様をよく分かる方法をお話ししましょう。

ローマ人への手紙1章18-20節にこのように書いてあります。

1:18神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。 1:19なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。 1:20神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。

自然や動物を見てみましょう。アルパカと言う動物を見たことがあります。私はその動物を見ながら神様を見ました。アルパカを創造し、そのように存在させる神を見ました。

電気を考えてみましょう。電気は目には見えませんが電気を送ってくれる電気会社の存在は私達は知ってますね。

太陽を見て下さい。バッテリーもないのに続けて光を発してます。太陽をそのように作ってくださった神が私には見えます。

太陽や、月、海を見るときその後ろの神様が見えます。

神様を愛することが何故できるのかと質問されるでしょうか? 主の戒め通り何故生きられるのだと質問されるでしょうか? 神様を知るからです。私をこのように存在させてくださった方が生存しておられるからです。

 

そして、主の戒め、御言葉通りに生きることは私たちの人生でとてもうれしい簡単なことになります。というより、それ以外の道は考えられないのです。

主が私達に戒めや御言葉を与えて下さった理由は、私達がこの世の誘惑とサタンの罪に陥らないように、私達を罪から分離させるためです。私達が神様の戒め通りに生きるなら、私達は罪から分離されます。サタンやこの世から分離されます。

罪が私達を支配しないように、主の御心に沿って生きるように導いて下さるのが主の戒め、律法です。戒めを守り従うことが愛です。

主が私達を救うために、愛によってこの世にひとり子を賜った、その愛を悟ることによって、私達は主の御言葉通り生きることが喜びになります。それが私達が主を愛することです。しかし、このことが全く理解されていません。

 

信仰とは主の導きを信じ、御言葉に聞き従って生きる私の人生そのものです。ですから、御言葉に従わない人がいると、その人の背後にサタンがいることが分かります。サタンがいるというのは、何か外見が変わることではありません。その人の選択や人生の方向が、御言葉とは違った方向に行くようになるのです。

私達は十字架にかかられたイエス様を知る時に、神様の愛を見ることができます。それによって私達は神様を愛することが出来るようになります。見えない神様を見えるようにして、神様に愛と忠誠を捧げることができるようになります。

神様の全ての約束の御言葉を信頼し、主がおられることと、信じる者に報いを与えてくださることを信じます。さらに、主に従う力をいただき、思いにおいてすら、誘惑に負けない、罪を選ばない、御言葉に忠実な歩みができるようにされます。

 

神様を愛し、神様を信頼して生きる信仰を心に持たなければなりません。それはイエス様の十字架をいつも思うことによって理解されるようになります。これが信仰です。

私達がこのように生き続けるなら、主が再びおいでになるとき、私達の目が開かれ、私達が主と似ていることを知るようになるでしょう。

その時はそれほど遠くありません。私達は、聖書的な正しい愛、正しい信仰、正しい恵みの概念を持たなければなりません。この重要な事実を正しく理解し体験して、主を喜んでお迎えする民となることができますようにお祈り致します。

 

 

 

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サタンは一番初めにエデンで人間を

騙したやり方と全く同じやり方で

今の時代を生きる私達を騙してきます。

 

 

 

ちょっとくらい大丈夫だよニヤ

それくらいで死なないってニヤ

少しくらいどうってことないよニヤ

 

 

 

人に小さな嘘をついたり

悪口を言ったり

ダメだとどこかで分かっているのに

やってしまったり。。。

 

 

 

 

人間を騙すサタンの目的は

神様の戒めを破らせて滅ぼすためなのです。

 

 

それほど神様の戒めというものは

不変のものであり

素晴らしいものなのです。

 

 

それを知っているサタンは

どうにかしてでも人間を戒めから遠ざけたり

キリスト教の世界に関しては

守らなくても救われるという欺瞞を

吹き込んで世界中を騙しています。。。

 

 

 

 

この世で本当に心から

まごころを込めて

愛と善と正義なる神様の戒めを

守ろうとすると

 

時には周りにバカにされたり

ビビりだと言われたり批判や迫害があると思いますが

そんなサタンの力に負けずに

 

すでに勝利なさったイエス様を信じる信仰のゆえに

私達は最後まで勝ち残らなければなりません!!

 

 

目を覚まして気を付けていないといけませんねあせる

 

 

 

 

 

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サタンが最も嫌うものが何かをご存知ですか? サタンが人間を堕落させる時、何を最初に攻撃したかを見るとよくわかります。サタンはエバをどのように誘惑しましたか? 神様の命令を守らなくても死ぬことはないと言いました。

創世記3章4、5節に書いてあります。

「へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」

神様は、エデンの園のどの木からでも自由にとって食べてもよいが、この実だけは食べてはいけないとおっしゃいました。サタンは人間が神様の戒めに従う限り永遠に生き、自分が手を出せないことをよく知っていました。それで彼は人間が神様の戒めを犯すように誘惑しました。

人間が神様の戒めを守らなくなれば神様の保護から外れ、自分の権威の配下になることをサタンはよく知っています。それでサタンは神様の戒めを一番嫌うのです。

つまり、この最後の時代に、神様の戒めを守る真実なクリスチャンを一番嫌うのです。

ヨハネの黙示録12章17節に次のように書いてあります。

龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。

 

彼、すなわちサタンが怒りを発し、戦おうとする相手は「神の戒めを守」る人だと書いてあります。サタンは神様の戒めに対して常に戦いを挑んでいます。

私達人類が最初に堕落したのは神様の戒めに関する問題でした。そして、人類の歴史が終わる最後の時代にも、神様の戒めが霊的な戦争の焦点になるのです。

ところで、なぜエデンで「食べてはならない」と言われた言葉が神様の戒めを意味するのかご存知でしょうか? 神様が人間を創造されたとき自由意志を与え、選択して神様に仕えるように創造されました。その時神様は、エデンに一つの禁止事項を置かれました。もし神様が、善悪を知る木を食べてはならないと命令されなかったら、人間が神様に仕えるのは、ロボットのように自動的な無意識的な行動にすぎません。自由意志を与えられた人間が神様に仕える時は必ず、これはしてもいい、これはしてはならないという基準がなければならないのです。

神様と私達の関係は創造主と被造物です。そこには越えることの出来ない違いがあります。その違いを明確にしなければ全ての秩序が崩れてしまうのです。そこで神様は人間と一つの取り決め、契約を結ばれました。その契約の中にいる時、被造物である人間は真に造られた目的を果たすことができるのです。しかし神様は、人間がその契約の中で幸福に生きることも、契約を無視して罪に生きることもできる、自由な存在者として創造されたのです。選択できない愛は真の愛ではありません。他の選択が出来るにも関わらず神様を愛し、尊重して神様の戒めを守ることによって愛の関係が成立するのです。創造主と被造物の間に真の関係が成立するのです。

神様が戒めを与えられた理由は、被造物である私達が、神様の戒めを守る時真の自由と平安があり、幸せや永遠の命を得られるということを教えて下さるためでした。私達の永遠の命は主に従うという条件によることを聖書は教えています。

神様は人間に選択の自由を根付かせて下さるために、善悪を知る木をエデンに置かれました。それは一つの戒めでした。人間は、神様を信頼し愛するので、神様の命令に従って善悪の実を食べない、そのことによって、真実の愛を神様に捧げられるのです。真の忠誠を神様に捧げることになるのです。

ヨハネによる福音書14章15節と21節です。

「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである」。「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

主の戒めを守る人が主を愛する者だと書いてあります。

 

アダムとエバには、今のような十戒を与える必要はありませんでした。彼らは罪を知らなかったからです。しかし、被造物である人間の最高の品性の発達と幸福のために、ただ一つの禁止事項が与えられました。そして、その当時は神様の御心に従って生きることが当たり前でした。しかし、サタンが神様の権威に対抗するため神様の戒めを攻撃し始めました。

主の戒めを守らなくても良いと言って誘惑したのです。これが始まりです。そして、サタンは神様の品性を誤解させました。神様は不公平で慈悲に満ちた方ではないと誤解させるように話したのです。神様は利己的な方で、この善悪を知る木の実をひとり占めにしておられるのだと言いました。この善悪を知る木の実を食べれば、あなたも神様のような能力を持つようになると口説きました。その結果人間は自らの意志で神様の戒めに逆らったのです。

 

現在の世界がこのように問題だらけで道徳が低下した理由は、神様の律法が無視され、不従順を続けた結果です。現代では、様々な犯罪や殺人の場面が、映画や本テレビ、インターネットに溢れています。そのようなものを見て育った子供たちはどのようになるのでしょうか?

子供たちは小さい時から、まわりの大人たちが神様の戒めを守らない姿を見ながら育つので、どんどん悪くなるしかありません。このような社会の中で神様に従う青年たちを育てるのはとても難しいことです。それは神様の戒めを守る環境、雰囲気がないからです。神様の戒めを守らなくても大丈夫だ、自分たちだけでやっていけるという勝手な思い込みがあるからです。

神様の戒めは、私達の心の中にある罪を教えて、イエス様のところに行くようにするために与えられたものです。また、神様の戒めを守るのは私達が神様を愛していると言う表現であって、私達が信仰によって救われた経験を感謝の応答として外面に表わすことが、主の戒めを守る信仰生活です。

しかし、そのような者をサタンは嫌うのです。

ダニエル書7章25節です。

「彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒をます。

彼はまた時と律法とをえようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、

彼の手にわたされる」。

反キリストの勢力が、時と律法を変えようとすることが預言されています。また聖書は、神様の御言葉を教えるべき宗教指導者も、神様の律法を破るようになると預言しています。

マラキ書2章7,8節です。

「祭司のくちびるは知識を保ち、人々が彼の口から律法を尋ねるのが当然である。彼は万軍の主の使者だからだ。ところが、あなたがたは道を離れ、多くの人を教えてつまずかせ、レビの契約を破ったと、万軍の主は言われる。あなたがたはわたしの道を守らず、律法を教えるに当って、人にかたよったがために、あなたがたをすべての民の前に侮られ、卑しめられるようにする」。

 

レビの契約(ネヘミヤ13:29,民25:13)というのは、レビ族の祭司たちが人々に神様の戒めを守るように教えるべきことを命じられたことです。人々を神様に従うように導くのが祭司たちの仕事でした。祭司たちの口に律法があるのです。しかし、その祭司たちが律法を破ったと書いてあります。

現在の教会では、十字架によって律法が破棄されたと教える人がたくさんいます。それは正反対のことです。神様が律法を破棄することが出来るのなら、主が十字架で亡くなられる必要はありませんでした。ただ律法を無くしてしまうか、私達の罪を、「いいよ、いいよ」と言って赦してくだされば良かったのです。

詩篇19篇7節です。

「主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無な者を賢くする」。

ローマ人への手紙3章31節には次のように書いてあります。

「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」。

 

次は7章12,14節です。

「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。・・・7:14わたしたちは、律法は霊的なものであると知っている。しかし、わたしは肉につける者であって、罪の下に売られているのである」。

神様が戒めを下さった目的は何だったでしょうか? 神様の戒めは国家の憲法のように、神様の政府の基礎です。私達の安全と平和はこの神様の戒めに依存しているのです。今も、全宇宙の万物が神様が定められた法則の中で運行しています。月も、星も法則に従って正確に動いています。もし、月や星が法則から離れて勝手に動き回ったなら宇宙はすぐに破壊されてしまいます。ところがその中で、人間だけが法則に逆らっているのです。

法がないと罪は成立しません。ローマ人への手紙3章20節にこのように書いてあります。

「なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである」。

私達は律法を守ることによって救われるのではありません。しかし、律法によって私達の罪が何かを悟り、悔い改めるのです。神様の律法、十戒がないなら、罪もなく、罪がなければ刑罰も審判もいりません。ですから十戒は必ず必要なのです。十戒をなくすことができるのなら、イエス様は何のためにこの地上に来られ十字架で亡くなられたのでしょうか? 私達の罪を代わりに背負ってくださった理由は何でしょうか? 律法の目的の一つは罪を悟らせることです。その罪を悔い改めて神様の前に出ていくようにさせるのです。

ローマ人への手紙7章7節にこうあります。

「それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」。

 

聖書は律法を無視する者たちは神様を知らない者だと言っています。

ヤコブの手紙1章22から25節です

「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される」。

 

皆さんが鏡を見た時、顔に汚れがついていたらどうしますか? 鏡の中の自分の顔をゴシゴシこすってきれいにしようとしますか? それとも、鏡を捨てて、自分の顔は汚れてないと否定すればいいのでしょうか?

鏡は私達の顔が汚れていることだけを教えてくれます。鏡を見て汚れていることがわかったら、石鹼を使って自分の顔の汚れを取るようにします。それと同じです。律法は私達に自分の罪を見せてくれます。私達が従うべきものが何かを教え、従うことを要求します。しかし、人間には従う力がありません。そのとき救い主が必要になるのです。イエス様の十字架のもとに行き、イエス様の血によって赦されるのです。

イエス様は律法を廃止するために来られたのではありません。

マタイによる福音書5章17,18節にこう言われました。

「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」。

 イエス様を信じる時に律法のすべての要求は満たされます。そして、私達は律法と調和した、その状態を続けていくことができるのです。それが信仰生活です。

さらに、イエス様は律法に対する私達の考えを、神様の水準にまで高められました。私達が律法を守るという時にたいせつなのは、私達の心の動機だと教えられました。

マタイによる福音書5章27,28です

「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。

 十戒は外面の行動だけでなく、心の思いから守らなければならないものです。

そして、私たちが律法を心から守るためには、十字架の血によって私達の心が洗われ、生まれ変わって新しいイエス様の心を与えられ、律法と一致した心を持つようになって始めて、律法を守れるのです。

 

律法は今も守るべきものです。戒めを守る行いによって救われるのではありませんが、私達が救われた者なら主の戒めを守る者になるのです。サタンは神様の存在と権威を認めていますが、律法に従わないのです。主の戒めに従順な者が義なる者だと聖書は強調しています。

しかし、問題があります。私達は堕落した本性を持っているので、私達の力では神様の律法を守ることが出来ません。どうすればいいのでしょうか? 聖霊によって生まれ変わらなければならないのです。そうしたら、神様が私達に新しい心を与えて下さいます。新しい動機や考えをくださいます。

ローマ人への手紙8章1節から4節にこう書かれています。

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」。

聖霊様が成し遂げて下さいます。私達のうちに律法の要求を満たしてくださいます。私達が戒めに喜んで従うことができるようにしてくださるのです。その時私達は罪から解放されます。それは解放されたから戒めを守らなくても良いという意味ではありません。赦されたのは主の戒め通り生きるためです。

ローマ人への手紙3章31節に次のように述べられています。

「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである」。

私達は神様の戒めを守る自分の行いで救われるのではありません。救いは神様の恵みによるものです。しかし、救われた者たちは神様を愛するので神様の御心の通りに生きるようになります。

サタンは最初に神様の律法を攻撃し、アダムとエバに罪を犯させ、律法は守ることができないと主張しました。しかし、神様は最後の時代に、神様の戒めを守る忠実なクリスチャンの出現によって、この地球がサタンのものではないという事を証明なさるのです。

へブル人への手紙10章16節です。

「わたしが、それらの日の後、彼らにして立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心にえ、彼らの思いのうちに書きつけよう」。

これが新しい契約です。私達は悔い改めて主と新しい契約を結ぶのです。新しい契約を結ぶまでには段階があります。神様が示された、神様の方法によって一つひとつその段階を踏んでいかなければなりません。

まず、イエス様はいろいろな出来事を通して、私達の心の戸を叩かれます。そして、今まで、私は神様を知りたい、私は神様に従いたい、私は清くなりたいというように、主語が私だった状態から、神様はここで何を望まれるのだろうか、神様のご計画は何なのだろうか、神様が喜ばれることは何だろうかと、主語が神様になるように導いてくださり、少しだけ心の戸を開かせてくださいます。自分の心の罪に目を開かせてくださいます。

そして、今までの自分の心の動機は、すべて利己的なものであり、その行いはすべて自分を義とする流れの中にいたことを知り、真の悔い改めに導かれます。そして、心の底からイエス様の動機、希望、イエス様の義を心のうちに根付かせていただくことを求めるようになります。

それから、そのイエス様の心を少しずつ根付かせていただきながら、神様よりも大事にしていた心の中の偶像をすべて捨てさせていただいた時、全く新しい心に創り変えてくださいます。その心は、「罪を憎み義を愛する心」なので、律法を犯すことができなくなるのです。

自分を義とする流れで歩んでいる人と、イエス様の義のうちに歩んでいる人との違いは、何だと思いますか? 自分を義とする流れの中を歩んでいる人は、自分の善行をすべて覚えていますが、イエス様の義のうちを歩んでいる人はやったことを忘れています。また、自分を義とする流れの中を歩んでいる人は、律法に従わなければならないと思って従っています。イエス様の義のうちに歩んでいる人は、律法に従いたくて、従わずにおれなくて、心から喜んで従います。これが新しい契約です。

 

サタンの攻撃目標は神様の戒めです。ヨハネの黙示録14章12節を読みます。

「ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。

皆さんは神様を愛していますか? 皆さんは神様とその戒めに死ぬほど忠誠を尽くす心がありますか? 皆さんは誰の奴隷ですか? 神様の奴隷ですか?それとも、依然として罪の奴隷ですか?

イエス様は私達を救うためすべてを与えて下さいました。本当に生まれ変わって、主の戒め通りに生きる者にするため、すべての力を与えて下さいました。

神様は私達にすべてを与えて下さいました。私達が救われない理由はどこにもありません。その神様の愛にお答えして、皆さんはイエス様のために今日何を捧げますか? 主にすべてを捧げサタンに勝利する献身の人生を送られますようにお祈りいたします。

 

 

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聖書の言う

神様の報いは何の事でしょうか?

 

 

 

 

ルカによる福音書の放蕩息子の物語は

家出をした弟に注目されがちですが

実は兄の態度の方が多くの事を物語っていますあせる

 

 


人生をかけてイエス様に従う私たちは

「こんだけ頑張っているんだから

父もたくさん報酬をくれるだろう」とか

「報いが大きいだろう」と期待したり

損得勘定で従うのではなく

 

ただ何の資格もない

生きる資格もない私達を

 

神様が呼んでくださっただけでも

常に感謝する気持ちで仕えなくてはなりません。

 

 

 

神様の一番そばで働ている私達は

一番幸せで安全なのですから

放蕩息子の主人公の弟が

ボロボロになって帰ってきた時には

 

「よく帰ってきたね。父とずっと一緒に待っていたよ。外の世界は大変だったよね。これからはずっと一緒にいれるのがうれしいよ。」

 

 

と喜んであげるのが

とるべき態度ではなかったかと

思わされるますぐすん

 

 

 

 

神様に従う、仕える動機を

本当に今一度点検してみなくてはなりませんね。

 

 

 

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神様が私達を救い、報いを与えられるには原則があります。神様が私達の働きに対して報いてくださることは事実ですが、どのような人たちが神様の報いにふさわしいとされるのかを理解しておくことはとても重要です。そのことについて私達がどのような理解を持っているかで、私達の生活態度が変わります。また私たちが神様に献身し、従う私達の動機にかかわることなので、これはとても大事な問題です。

私達が主に従う動機がとても大事な事を切に感じなければなりません。この原則を正しく理解する者たちだけが聖霊の力を受けることができるようになります。神様が私達に報いてくださるこの原則を正しく学ぶ者たちだけに聖霊の支配が臨みます。

へブル人への手紙11章5、6です。

「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである」。

 

信仰はまず、神様が生きておられることを必ず信じなければなりません。そして私達が自分の生涯すべてを捧げ、全的に屈服しないと、神様が生きておられる事を信じているとは言えません。

また神様の命令に従わなかったり、罪の習慣を捨てていない人は、神様が生きておられることを信じていない人です。

聖書には神様の報いがあると書かれています。しかしどのような人に報いを与えて下さるか、私達はよく学んでおく必要があります。それはエノクのように神様に喜ばれる者となることによってなのです。

ところが、神様が下さった真理をユダヤ人たちは誤解しました。彼らは自分達の努力によって神様の報いが得られると教えていました。そして自分達がこの世で成し遂げた功績によって神様の報いのレベルがあると教えていました。これはこの世の全ての宗教が持っている考え方です。多くのクリスチャンもこのような概念を持っています。このような考えを持っている人々の礼拝は、自分の祝福を得るための異教的な礼拝なのです。

皆さんはこのように言うかもしれません。神様は私達のためにイエス様を下さり、多くの恵みを与えて下さったのに、これ以上私達が神様の報いを望むようなことはあり得ないと。

しかし、私達の毎日の行動や、生き方、私達の神様への期待、他人に対する態度を見るなら、実は神様の報いを望んでいるとしか言えない行動を取っていることがとても多いのです。

なぜなら、自分を愛することは律法を犯すことだからです。私達がイエス様の弟子になる条件を受け入れないなら主の弟子ではありません。私達が永遠の命を得るには条件があります。それは屈服です。

このように話すと反論する人がいます。永遠の命は神様の恵みではありませんか? ただで下さる贈り物ではありませんかと言います。もちろんそうです。

しかし、恵みによる贈り物だとしても、その恵みと贈り物を受けとるには資格が必要です。誰にでも尊い永遠の命が与えられるのではありません。主が与えて下さる恵みは、私達の行いの功績によるものではなく、無償で受けられるのですが、恵みを受けられる態度と精神を持っている人でなければならないのです。

聖書は私達にこのことについて明確に説明しています。私達は自分を惜しむことなく主に捧げなければなりません。全身全霊を捧げる献身と奉仕以外は真実のものではありません。

神様が私達に望まれるすべてを、主を愛する心と信頼する心で捧げる、そのような動機と態度を持ってない人は、服従も自分のためのものであり、主に対する献身ではないのです。

 

イエス様が弟子たちに、私についてきなさいと命じられた時、彼らはすべてを捨ててついて行きました。彼らがすべてを捨ててイエス様について行った時、彼らの心は真実でした。イエス様が特別な存在、メシヤであることを感じて、彼らはすべてを捨てても惜しくないと思ったのです。

私達が神様に従うというのは、神様の御言葉すべてに従うことを意味します。その行動や行いが私達を救うのではありませんが、主が私達に望まれることをすべてしなければなりません。すべてを捧げて屈服しなければなりません。そこに私達の言い訳があってはなりません。

さらに、私達がそのように主に従ったことによってこの世の全てを失い、不利益を受けても、主に従う人は主が望まれるすべてを祭壇の上に置いて放棄しなければなりません。そのような決断と動機がない人は主の弟子ではありません。

私達はこれらのことを明確に理解してからクリスチャンの道を歩まなければなりません。このことが最初から明確ではないために、信仰生活の中で不平不満が生じます。信仰生活の中で神様に従えない理由や言い訳が生じます。それは間違っています。

私達が主に従う時は「自分を捨て、自分の十字架を背負って」主に従うべきです。私達は主のために死に向かう人々にならなければなりません。死を覚悟した人は何ものも惜しむことはなくなります。

私達のただ一つの課題は、主が今日、そして私の生涯の中で私に与えられる御心は何か、私が何をすることを望んでおられるかそれだけが問題です。

それを知り、確信することができたなら、自分の全てを捧げることができます。

永遠の命を得たいと望む人たちは、すべてを主に捧げる態度や精神、動機を持って生きてなければなりません。そうではない人は誰一人天国にいることはできません。

とても難しいでしょうか? 高すぎる標準でしょうか? 違います。この簡単な御言葉が、神様が私達に報いを与えられる原則の始まりです。この心がなければ主に従えません。この心がない人は、いつかは主を裏切るのです。

ユダはイエス様の御心と計画よりも、自分の考えと計画を優先しました。主に従わない何かが彼には残っていたため、イエス様を裏切ってしまいました

マタイの福音書19章27から30節です。

19:27そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。 19:28イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。 19:29おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。 19:30しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。

 

ペテロはイエスに私達は何がいただけるでしょうかと質問しました。その時イエス様は報いのことを先に教えられました。私達に報いがあることを悟らせてくださいました。聖書に書いてある報いは素晴らしいものです。

主の報いの原則についてもっと詳しく理解する前に、一つ明確にしておくことがあります。私達が神様とイエス様が聖書に命じられた戒めを、私達の人生のすべてをかけて守るなら、神様の報いは永遠に私達のものになるということです。神様が生きておられることを信じて従ってくるものに、必ず報いがあることを約束してくださっています。

このことは、私達が確実に信頼しなければならない重要な事実です。宇宙が存在し、私達がここに存在することが事実であるのと同じように確実な事です。

私達は無意味なことに私達の生涯をかけているのではありません。私達が命をかけて信じ屈服するすべてのことの結論と報いは、イエス様が素晴らしい約束を私達に与えてくださったことによります。永遠の生命、その価値を私達は十分理解することが出来ません。

人はその持っている哲学や思想によって人生の動機や目的が変わります。神様の喜ばれる者はどのような人か、どのような人にどのような報いを与えて下さるのかという原則を正しく理解することはとても重要です。

神様の報いに対する正しい理解、それをどのように理解するかが私達の人生を形作るものになります。私達の動機、態度、献身はとても大事です。

 

先ほどのマタイ19:30のしかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう」は、マタイ20:1-16の5時労働者のたとえ話しの締めくくりの警告と同じ内容です。皆さんは神様を先に信じましたか? 皆さんは主の伝道に先に足を踏み入れましたか? 気を付けて下さい。後の者が先になるであろうと書いてあります。なぜでしょうか? 態度です。

何故ユダヤ人は苦難を受けましたか? 捕囚生活を送らなければなりませんでしたか? 神様が彼らを用いることができなくなった理由は彼らの態度と動機でした。

ペテロのように、私達は何をいただけるでしょうかと言うのは日雇いの精神です。彼らはイエス様を信じてついて行ったのですが、まだ、行為によって報いを得ようとするパリサイ精神から完全に抜け出していなかったのです。彼らは自分たちの苦労に応じた報いを得たいと思っていました。

私達も同じようになっているかもしれません。彼らは自分を高くする精神と、自分を満足させる精神を持ち続け、互いに比較し出しました。誰かが失敗したら他の人は優越感を感じました。自分は違うと思いました。

私達は他人の失敗や罪悪から、恐ろしさを感じるべきです。自分も同じように弱点と罪の性質を持っている者だからです。私もサタンに倒されるものです。私を守り、助けて下さいと祈らなければなりません。

他人の失敗や罪に対して、私達は絶対に優越感を抱いてはなりません。そのような心は、報いの精神が間違っているから起きるのです。イエス様は弟子たちがこの福音の原則をしっかり体験してくれることを望んでおられました。そして、イエス様がご自分のしもべたちをどのように扱い、どのように報いを与えられるか、またどのような精神を持つべきか、人々に説明できるようになることを望んでおられました。

 

どのような心構えで主に仕え、主の働き人になるべきかを教えるためにされたのが、マタイによる福音書20章1節から16節までのブドウ園の労働者たちの話しです。

これは天国の原則である、主がどのように報いを与え、労働者たちをどのように扱われるか、それに対して労働者たちの持つべき態度はどのようなものかを教えるためのものでした。イエス様のこのたとえは、当時の人々には理解できないことでした。常識にあってない話でした。これは労働法を破るような話でした。しかし、御国の原則はこのようなものなのです。神様が私達に与えて下さる永遠の報いは全員同じものなのです。

使徒パウロでも、最後に悔い改めてやっと御国に入る者でも、永遠の報いは同じです。彼らに託された任務は違うかもしれません。それは奉仕であって神様の特別な報いではありません。

主は私達に何を伝えるためにこの例え話をなさったのでしょうか? 一日中働いた者たちは、一時間しか働いてない者たちと同じ一デナリをもらって不満を抱きました。苦労し、暑さを辛抱して主人のために一生懸命働いてあげました。だから私はもっとたくさん報いをうける資格があります。このような考えが多くのクリスチャンの心にあります。しかし、私達には神様から祝福や報いを受ける資格はありません。このことを明確に知りましょう。

神様が私達に祝福や特別な報いを下さる理由はどこにも存在しません。これを明確にしておかないと、私達が主に従う時起きる不利益や不都合に対して、不平不満が起きてきます。なぜならすべてが恵みだからです。慈しみ深い神様を知り、信じる事自体が恵みです。神様を信じ、神様の働き人として歩むことができこと事自体が特権であり、恵みなのです。私達が神様に何かを要求する権利や資格はどこにもありません。このことをイエス様は私達に伝えたかったのです。とても単純な教えです。

ブドウ園に呼んでくださり働かせてくださったことだけでも、私達は感謝すべきです。働いている間、私達に食べ物を与えて下さり、たまに休暇を与えて下さったことだけでも私達は感謝すべきです。

14節の自分の賃金をもらっていきなさいと言われた人は、ただ働きの報酬を得ただけで、賜物である永遠の生命を得たのではありませんでした。

たとえ私たちが多くの方々に福音を伝え聖書を教えたとしても、最後にやっと悔い改めて御国に入った人と報酬は同じなのです。報酬が同じである理由は、すべてが神様の恵みだからです。

私達は主の奉仕をする資格が最初からない者たちでした。招かれたこと自体が恵みです。神様を父として信じること自体が恵みです。それ以上、私達が神様に要求する資格は何一つありません。

資格がないことを知っていると言います。それならなぜ神様に対して不満があるのでしょうか? 私達が自分の人生に不平不満があるというのは、神様に対して不平不満があるということです。このことを知る必要があります。

この世で皆さんは自分の人生をどのように見ているでしょうか? 私達は癌になっても、お金に不自由していても、豊かになっても、心が痛いときも、家族が亡くなっても、子供が不良になっても、私達は神様に対して不平不満を持つことは出来ません。なぜでしょうか?

神様が私達をこの世に生かしておられる意味を考え、計画を考えてみてください。私達が永遠の生命を得るための神様の意図を考えてみてください。過ぎ去ってしまうこの世で私達がテストされている時、私達が持つべき態度は何か考えてみてください。この態度が、私達の人生と心の動機として、徹底的に据えられていなければなりません。基礎がしっかりできてないところに家を建ててはなりません。

多くのクリスチャンが報いの原則の理解が不十分なため、自分達はこの世で報いを受けるはずだと思っています。そのような考え方では、神様に真に喜ばれる人生を送ることは出来ません。

神様がブドウ園の労働者を扱われた方法は、神様が私達をどのように扱われるかを教えて下さるたとえ話です。彼らは自分が働いた分の賃金をもらうのではなく、主人の裁量で賃金をもらうのです。私達の報いは私達の業績によるのではなく、神様の恵みに応じて報いを与えられるのです。

テトスへの手紙3章4節から8節です。

 

3:4ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、 3:5わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。 3:6この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。 3:7これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。 3:8この言葉は確実である。わたしは、あなたがそれらのことを主張するのを願っている。それは、神を信じている者たちが、努めて良いわざを励むことを心がけるようになるためである。これは良いことであって、人々の益となる。

 

誰も永遠の生命を得るためには、何か自分の功績が必要だと思ってはなりません。神様の憐れみによってのみ永遠の命を得ることができるのです。そのように思うことが謙遜です。主が私を主のしもべとして用いてくださり、私を救い、私を義なる者としてくださったのは、全く神様の慈しみと恵みによるものであることを知っているのが謙遜です。この思いが私達の心の中に徹底的に据えられているなら、私達の生きる意味や生活態度が変わります。

争いが無くなります。神様にとっての価値は私達が成し遂げた事の量や結果ではありません。その仕事をした態度と精神です。どのような態度で働きに取り組んだかです。 

5時労働者の態度がこれです。仕事をさせて下さっただけで心から感謝しました。一時間しか残っていないのに仕事を下さった主人に感謝し、賃金を望まず仕事をしました。ただ主人に感謝し、仕事に取組みました。これが5時労働者たちです。主のために惜しむ物は何もありません。

私達が主の仕事をし、主について行く態度と精神、動機がこのようでなければなりません。決して地上の報いを望んではなりません。主は私たちがどのぐらい多くの仕事をしたかより、私達の態度や動機、思いを見られるのです。これがすべての労働者たちが持つべき態度です。私達が神様の働きをする時このような喜びをもって働かなければなりません。

私たちの愛はまず主に捧げられるべきです。皆さんは主の働きをされる時感謝の心で取り組んでおられますか? 私達の全ては主の恵みです。私達の生涯は主の恵みです。私達が神様を知り、真理を発見したこと、永遠の命を得る機会を得たこと、それ自体が永遠の祝福です。すべてが感謝でなければなりません。

私達には不平不満があってはなりません。すべてが主の恵みだからです。これが主について行く者たちの態度であるべきです。報いは恵みによって与えられるのであって、決して行いで得るものではありません。

利己心が死んだ時、争いやねたみ、怒りがなくなります。感謝が心に満ち、愛が人生を導く時、イエス様がその中におられ私達は神様と一緒に働く労働者になるのです。

これが五旬節に集まってきた信者たちの精神です。皆さん、もう一度言います。私達が生きていること自体が神様の恵みです。私達が招かれたこと自体が神様の恵みです。私達が聖書を持っていること自体が神様の恵みです。神様の仕事をするようになったのも神様の恵みです。

このように集まって主の名を呼び、賛美できるすべてが神様の恵みです。私が息をするのも神様の恵みで、私が永遠の命を望むのも神様の恵みです。

私達が主のために働く時、地上の報いを望んではなりません。ただ、感謝と喜びで自分の全てを捧げ、主の仕事を喜んでなすべきです。

主が私達をどのように扱われるかは主の仕事です。私達の仕事ではありません。主が私達に1デナリを与えて下さるのです。それが永遠の生命です。

この精神が最後の時代の真の主の教会に豊かに満ちること、私たちの心にもこの精神が満ち、主の真実の民になられることを心から祈ります。

 

 

 

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