聖書では
罪をどのように取り扱っているのでしょうか?
私が思うに罪というのは
一種のナイフのようなものだと思います![]()
人間は生まれてから
この世で生きていく上で
強く生きていかなければならないから
時にはそのナイフを振り回したり
あるいは生きづらく感じて
ナイフを自分に向けたりする時もあると思います。
守ってくださる親であられる神様の存在を
知らなければそう生きてしまうのは
もしかしたら当たり前かもしれないですね。
前まで私は
罪はとにかく道徳的なもので
生れた時から背負っている責任のようなもので
だからとにかくイエス様を信じるだけで
無条件にその罪がなくなるなんて
なんて福音なんだろう
と思っていたのですが
神様が聖書を通して教える罪の概念や
罪の取り扱い方は
まずその持っているナイフを完全に
捨て去る
という事です。
しかし罪という名のナイフを完全に捨て去るためにはまず
そのナイフがもたらす結果がどれほど深刻なのかについて
知らなければなりませんね。
ナイフがもたらす結果がどれほど
恐ろしくて深刻なのかが分かれば
もう二度とそのナイフを持ちたいとは
思えなくなるでしょう。
しかし世の中では
そのナイフを持っている事が誇りだったり
ナイフを使って得たものが
良く思えてしまうので
ナイフが危ないと分かっていても
なかなか手放せない人が大半なのではないでしょうか。。。
神様は愛する子供達が
危ないナイフを持って
振り回したりして
相手や自分自身を傷付ける事を
心から悲しまれます。
私達は罪について今一度
真剣に考えて罪を捨て去らなくてはなりません。
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私達クリスチャンの生涯は、罪と義という二つの単語の間で戦う人生とも言えます。
クリスチャンは罪の深刻さを知っています。罪が私達の生活と品性をどのように破壊するか、私達を実際的にどのように滅亡に誘うかをよく知っています。ですから私達は、罪を阻止する方法を知り、罪に勝利する秘訣を知る必要があります。罪を犯さないように、自分の全てを神様に屈服させる人生がクリスチャンの生涯とも言えます。
人々は罪の深刻さをよくわかっていないため、軽い気持ちで罪を犯します。私達の生涯は罪を赦されるところで終わるのではなく、罪を私達の中で繰り返して犯さないようにするまでがクリスチャン人生の目標だと言えます。
罪の深刻さをよく表しているのは、罪を犯したアダムとエバがエデンから追放されたことです。どうして神様はそのようになさったのでしょうか? 私達はこのように考えるかも知れません。木の実を食べたぐらいで、神様はそこまでする必要があったのだろうかと思うかも知れません。
善悪を知る木の実を食べたぐらいで、アダムとエバ以来私達まで、6000年もの長い間苦しみを受けなければならないとはどうしてだろうかと思うかも知れません。飢えや寒さに耐えなければならないし、死を迎えなければならないし、悲しみや辛さを経験しなければならなくなりました。
木の実を食べたことがこれほど深刻で重要なことなのかと思うかも知れません。
長い間の罪のため私達の脳は鈍くなり判断力が衰え、理解力がなくなり、洞察力がなくなり、罪のない清さについての理解が低くなりました。私達は罪の深刻さを聖霊と信仰によって受け入れなければなりません。聖霊によって罪の深刻さを受け入れると、聖書について目が開かれていきます。
信仰の出発は信じることです。霊的な救いの出発点は信じることからです。
神様がこの地球を創造なさったという事実を信じることから、神様を知る知識が出発します。同じように私達は心の中でアダムとエバがエデンから追い出された例を見て、罪の深刻さを信じ理解しなければなりません。
創世記2章15から17節です。
「主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
神様の命令に従わないことから死に至るのです。たった一つの罪であっても私達を死に至らせます。罪は永遠に生きる命、神様の祝福を奪ってしまう深刻な結果をもたらします。
罪がどれほどは恐ろしくて深刻であるかを、私達は聖書を通して理解することが出来ます。罪の深刻さは信仰によって受け入れなければなりません。罪の深刻さを疑って受け入れないなら、私達は永遠の命を得ることは出来ません。
聖書を読むとき、聖書の御言葉の通りに受け入れ信じなければなりません。それが永遠の命を得るためのスタートであり、私達は回復し始めるのです。そして私達は赦され救われます。
創世記2章22節から25節です。
「主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。そのとき、人は言った。 『これこそ、ついにわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。男から取ったものだから、これを女と名づけよう』。それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった」。
これは純粋で純潔だという事を意味します。罪が私達の心の中に入ってくる前は恥ずかしさがありませんでした。もちろんこれはアダムとエバが天使が着ているような光の服を着ていたからですが、しかしこれは彼らの心に罪悪感や恥ずかしさが全くなかったことを意味しているのです。
これは罪を犯したことがない人だけが持つことのできる心です。まさに、イエス様はこのように生きておられました。イエス様には外部からの罪の誘惑や攻撃はありましたが、イエス様は心の中で罪によって汚れた経験がないため、罪のない人が感じる純潔さや清さや平安がありました。
私達の心は堕落したために神様の純潔さや清さを理解することは出来ません。やがて神様が私達に永遠の命を与えて下さるとき、私達はそれを理解するようになるでしょう。
天使のような体と天使のような心を受けて、神様と共に天で私達がお互いに手をつないで会話する時、その時から私達はアダムとエバの純潔さ、つまり、罪を知らなかった時の品性と思想と感性を持つようになります。その時から私たちは、心に一点の罪の汚れもなく、尽きることのない感謝と喜びと平安に満ちた幸いを感じるようになるでしょう。
たとえ私たちがどれほどこの地上で清められ、神様の印を受けて義なる者とされ、全ての罪を赦されたとしても、罪の性質と記憶が残っているので、完全な天の喜びを感じることは出来ません。
しかし私達が天へ行った時には、神様が人間を創造された本当の意味を理解し体験して、神様に心から感謝し賛美するのです。
創世記3章22節から24節です。
「主なる神は言われた、『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』。そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた』。
神様は善と悪の両面を知っておられます。しかし、神様は100%善だけを持っておられる方です。神様には暗闇が全く存在しません。それに対して、人間の哲学は陰と陽です。この世が始まるときから善の神と悪の神が一緒に存在していたと信じています。同じく人間の心にも善と悪が一緒に存在していると考えています。
これは人間の考えです。私達人間は罪を犯した後で、善と悪を知るようになったのです。その罪を知っただけではなく、罪に属してしまいました。善と悪を知る知識が日常的に罪を犯すようにしてしまいました。これは人間の本質を変えてしまいました。考えや感情を変えてしまいました。
神様は私達の生まれ持った性質を審判なさるのではありません。神様が私達を審判される基準は私達の考えと感情を合わせた私達の品性です。
罪を犯したため品性が汚れてしまいました。この汚れた品性のまま命の果実を食べ、永遠に生きるのは危険なのでエデンから追い出されました。罪の結果を経験させられたのです。罪の辛い苦痛を経験しないと罪を捨てません。私達は罪を犯した後、罪の結果の恐ろしさを経験しないと悔い改めません。罪の結果の辛い経験をしてから神様を求め、悔い改め平安を求めます。
神様はエデンから追い出されただけではありません。またエデンに戻ってこられるように救いの道を作ってくださいました。
罪の結果を経験するのは、全宇宙には法則があるため、罪の結果を経験しなければならないのですが、神様は私達を見捨てられません。
彼らがエデンから追い出される後ろ姿を見て悲しんでおられたに違いありません。
他人を傷つける嘘や、裁き、批判は自分の心の魂と品性を傷つけるのです。相手の悪い噂は本人が悔い改め赦しを受けた後も続きます。罪と言うのはそのように恐ろしいものです。
罪をたくさん犯した人は神様の恵みがもっとたくさん必要です。罪によって意志が弱くなっているからです。神様は私達が罪を意識することを望んでおられませんでした。また罪を知ることも望んでおられませんでした。罪を知ることが悪いのではなく、罪を知り、罪の経験をもつことが致命的です。姦淫の経験がある人は、姦淫の経験がない人より苦しいのです。姦淫の経験がある人はその罪の楽しさを知っているからです。誘惑されやすいのです。
罪の経験が与える致命的な怖さを知らないため、私達は軽く罪を犯します。私達は悔い改めて赦されるとしても、もう罪を犯してはなりません。罪は犯さない方がいいのです。罪は軽く犯して軽く赦されるものではありません。罪は私達に致命的な傷を負わせます。
このことを知っているなら、クリスチャンは罪を犯さないように常に心がけるでしょう。なぜなら、罪を犯した経験が自分をどれほど霊的に苦しめるか知っているからです。
もちろん神様の血の力と聖霊の恵みは、どんなに悪質な罪人でも罪から救う力があります。しかし、覚えていいてください。罪を繰り返すうちに私達の意志は弱くなります。罪は皆同じです。しかし、同じ罪を繰り返した人は繰り返さない人よりもっと多く祈り、徹底的に屈服し、聖霊様の恵みをもっと受けなければなりません。
このことを理解しているなら、クリスチャンは罪を犯すことを恐れるでしょう。罪を繰り返し犯すと自分の考えや心がマヒするため、罪を犯しても罪悪感を持たなくなり、悔い改めようとする強力な力を感じなくなるのです。罪を犯すのは簡単です。人を非難する人は、人を非難しても罪悪感を持たなくなります。徹底的に生まれ変わり、徹底的な聖霊の感動がないと私達の良心は敏感になりません。
聖書に、私達が赦しを求め、屈服し、罪を言い表すようにと書いてある理由は、罪を告白し捨て去ることによって私達の良心が生まれ変わるからです。回復されなければなりません。
これは重要な原則です。人々は罪の深刻さをわからないために同じ罪を繰り返し犯しながらも罪悪感をあまり持ちません。
天使たちはルシファーと堕落した天使たちを目の当たりにし、罪の恐ろしさを見ました。
心の中の罪、不順従の経験は罪人の心の中にサタンが入り働きかける道を開いてしまいます。罪を犯した瞬間、私達はサタンに心を開いたのです。罪はわかった瞬間に悔い改めて捨てることが大切です。悔い改めることを後回しにし、心の中に抱き続けているなら、その罪が私達の魂に致命的な害を及ぼすのです。
罪は人間の品性に大きな弱さを及ぼします。私達を人間の本来の幸せや純粋さから離れさせます。それによって、忠誠心と順従さが低下してしまいます。
罪には2面性があります。まず、罪を犯すと罪悪感が生じます。もしも、この罪悪感がない人は良心が死んだ人です。私達の良心をイエス様の血によって洗い、聖霊様によって回復されるようにしなければなりません。
罪を犯すと罪悪感と刑罰への恐れが押し寄せてきます。刑罰に対する恐れは、私達を神様から分離させます。神様が怖くなり、審判を恐れ、お祈りするのが嫌になり、聖書を読むと罪悪感が刺激されるので御言葉が嫌いになります。そのため神様との関係が回復される前に、この罪悪感の問題が解決されなければなりません。罪の赦しが先にないと回復されません。罪を犯した人は、赦しを受けなければ罪悪感のために神様の前に立つことが出来ません。赦しがないと回復の過程が始まりません。
罪のもう一つの面は不順従を通して得る罪の知識です。罪を知らないで生きられるなら一番いいですね。しかし、不順従を通して得た知識は赦されても記憶から削除することは出来ません。神様が私達の罪を赦される時、罪の経験や知識まで無くしてくださるなら幸いです。しかし、アダムとエバの罪は一瞬でしたがその結果は一生を通して残り続けました。
罪はただ一回犯したとしても私達の頭の中に一生残ります。
創世記3章17節に次のように書いてあります。
「更に人に言われた、『あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る』」。
罪の経験や知識は私達の頭の中に残っているのです。刺激を与え、衝動を起こすのです。罪の赦しは私達の心の罪悪感を無くすものですが、罪を通して得た知識や影響力は削除されません。削除してくださるのは新しい本性と体を与えて下さるときです。
私達は自ら選択し、喜んで神様に屈服すべきです。それによって私達の品性が発達して本来の人間らしくなれるのです。私達は自由意志を持たないロボットではなく、一つの人格を持った存在として創造されました。
罪を犯した経験は私達クリスチャンの生涯に大きな障害物になります。罪を赦され神様に新しい心を与えて下さいと常にお祈りしなければなりません。罪人が罪の恐ろしい結果や悲しみを感じ、再び罪を犯さない経験をしたとき罪を止められます。これこそが私達の救いです。
この全宇宙には最初罪がありませんでした。天使にも人間にも罪はありませんでした。この罪の発生は神秘です。
そして、罪の治療と罪が全宇宙からなくなるためは、罪を犯した者が罪の恐ろしさと悲しみを感じ、再び罪を犯さない経験が心の中に生じたとき宇宙から罪が消えるのです。
神様が私達人間を、罪を犯すように創造されたのではなく、そのような事故が起きたのです。しかし神様はこの事故を通して、永遠に宇宙に罪が起きないように計画なさったのです。あがないの計画です。神様は機械を扱っているのではなく、良心と知性を持った人間を扱っておられるのです。
もし、神様が罪を赦してくださるとき、罪の結果も無くしてくださるなら、人々は罪の恐ろしさを知ることがないので罪の本質を悟ることが出来ないでしょう。罪は早く捨て、悔い改めて下さい。神様に私達の良心を清くしてくださいと祈らなければなりません。清い心を創造していただかなければなりません。新しい考えや心、動機を与えていただかなければなりません。
神様が私達を新生させてくださっても、サタンは色々な環境を通して私達の罪の記憶を刺激して誘惑してきます。ですから、私達が罪の経験を多く持てば持つほど不利になります。罪の記憶が私達を苦しめます。誘惑の衝動を引き起こします。私達は罪の影響を引きずらなければなりません。
私達は毎日、罪の赦しを受けるのですが、審判を通過し神様が印を押してくださるとき私達の罪の記憶を消してくださいます。なぜなら私達の救いが確定されたためです。罪を憎み、罪から勝利し、神様の戒めを守る人とされたからです。
そのことを全宇宙の天使が認めたからです。その時私達から罪の知識と罪の経験や記憶が永遠に消えるのです。その時私達の心の中に、アダムとエバが創造されたときの純潔さが訪れます。その時真の幸せと喜び、清さが私達の心に訪れます。今はわかりません。今は真の喜びと幸せが何かわかりません。
罪が何かを教えるために神様は私達に十戒を与えられました。私達は自分で自分の心の罪を悟ることが出来ません。罪を悟らせくださる恵みが十戒です。
詩篇19篇1節から14節まで読みましょう。
もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。
罪を犯した私達の魂を清くし、罪から心を守り、日々生まれ変わるために主の戒めと御言葉をいつも見なければなりません。そして聖霊様の内在により罪に勝利しなければなりません。
罪の致命的な害毒を理解しなければなりません。そして罪の誘惑を主の御言葉によって勝利されることを願います。
お祈りします。
私達の心に主の御言葉を正しく理解させてください。そしてその御言葉が私達の中で生きて働き、御言葉通り生かしてくださり、主の戒めが金より重要で、はちみつより甘いものとして、常に従う希望を私達の心の中に入れて下さい。そして私達の心が清くなり、罪の致命的な害を悟らせ、罪から離れさせてください。私達の心に新しい考え、感情、動機を与えて下さり、私達が罪に勝利出来るまで神様の恵みを私達の心に満たしてください。イエス様の御名を通してお祈りします。 アーメン
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