河内 石田神社 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①拝殿②社殿③境内④明和4年燈籠⑤御成婚記念樹⑥鳥居

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:大阪府東大阪市

 

 石田神社(いわたじんじゃ)は江戸時代には岩田八幡宮や石田八幡と称し、足仲彦命(仲哀天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・誉田別命(応神天皇)を祀り、後に天照大神・天児屋根命を合祀した。

 

 延喜式神名帳の河内国若江郡の小社・石田(イワタノ)神社(三座)に比定され、明治5年(1872)現社名に変更され、村社と定められ、神社の北側にあった神宮寺の善城寺は廃された。

 

 延喜式神名帳には、石田神社が他に山城国久世郡や伊勢国、越前国、大和国(伊波多神社)に見られ、特に久世郡の石田神社は、月次/新嘗の幣帛を受ける官幣大社であった。

 

 久世郡の石田(イハタノ)神社には以下の3つの論社があり、確定していない。祭神もまちまちだが、八幡三神を祀っているところはない。

 

●石田神社(東岩田神社)

 八幡市八幡岩田里

 祭神 磐裂神

 別名 牛頭天王社、明治に石田神社と改称される。

●石田神社(西岩田神社)

 八幡市八幡岩田大将軍

 祭神 天照大神 (配祀)大山咋命 五十日足彦命 (相殿)饒速日命 惟喬親王

 別名 大龍王宮社・御霊社、明治に石田神社と改称、西岩田神社からの勧請説も。

●天穂日命神社  

 京都市伏見区石田森西(山城国宇治郡石田村)

 祭神 天穂日命大神  相殿 天照大神 大山咋命

 別名 石田社・田中社、明治に宇治郡式内社・天穂日命神社に比定され改称される。

 

 この中では、東岩田神社が本来の石田神社に近いような気がする。若江郡の石田神社も中世か近世初期に八幡神が勧請され、かつての祭神三座は忘れ去られたともいわれる。

 

 ただ、久世郡の石田神社は一座で、若江郡のそれは三座である。あるいは案内板にある岩船と二つの小塚の主が、かつての三座なのかもしれない。

 

 

以下、現地案内板より

 

石田神社と宮寺「善城寺」

 

平安時代の初め延長5年(927)に完成した「延喜式」の神名帳にのせられている古い神社で帯仲彦尊(仲哀天皇)息長带姫尊(神功皇后)誉田別尊(応神天皇)の三座をまつり、後に天照大神、天児屋根命を合祀した。

 欽明天皇の時代(500年代)にこのあたりの水田に岩船があって、三神がその上に現われ、そこで神社を築いておまつりしたと伝えられる。俗に八幡神とよばれ、明治5年に村社と定められた。

 また、神社の宮寺「善城寺」は石田神社の北側にあり、禅宗黄檗派で、江戸時代には村人の崇拝する寺であったが、明治初年の神仏分離の際に廃絶した。寺に安置されていた不動明王像 (室町時代作)と左右の制多迦、矜羯羅童子の二体も共に当地の西光寺に移され現存している。

 

平成10年3月  岩田町文化財保存会 東大阪市

 

 

岩船の伝説・幸神塚と無名塚

 

 現在は空地になっているが、石田神社の北側に昭和38年頃まで直径2メートルたらずの円錐形の二つの小塚が水田の中にあった。東の塚を「幸神塚」といい、西の塚は「無名の塚」とよばれている。伝説によると、「幸神塚」は「塞の神」(村の疫病などの侵入を防いだり、道行く人を災難から守る神)をまつった旧地だといわれている。

 また、ここを開拓した時、船によく似た大きな岩船があり、その長さは東塚より西塚に達し、全長50メートル近くもあった。これは古代大きな石の船がここで難破したもので、二つの塚はその前後のものといわれている。石田神社の社伝によると、欽明天皇(500年代)の御代の岩船に祭神が降りてきたと伝えられる。

 

平成10年3月  岩田町文化財保存会 東大阪市