神戸 外国人居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①居留地十五番館②居留地十五番館③東入口④東側⑤煉瓦造下水道遺構

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:神戸市中央区

 

 安政5年(1858)江戸幕府は、米・蘭・露・英・仏と安政五カ国条約を結び、兵庫は神奈川や長崎から少し遅れた1863年1月1日(文久2年11月12日)に開港・開市されることとなった。

 

 しかし、その後も朝廷は京都に近い兵庫の開港に難色を示して勅許を与えず、幕府は諸外国と交渉して開港を5年遅れの1868年1月1日(慶応3年12月7日)とした。

 

 1867年5月16日(慶応3年4月13日)幕府は英・米・仏と「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」を締結し、兵庫津の東の神戸村に居留地を設け、その海岸に建設する港を開くこととした。

 

 神戸居留地は、神戸村内の東は生田川(現・フラワーロード)、西は鯉川(現・鯉川筋)、南は海岸とされ、1867年11月9日(慶応3年10月14日)の大政奉還後も旧幕府が事務を担当した。

 

 しかし、開港後の1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は江戸に引き上げたため居留地造成工事は中断され、その後の工事は明治新政府が引き継いだ。

 

 居留地造成の遅れを受け、3月30日(慶応4年3月7日)東は(旧)生田川、西は宇治川、南は海岸、北は山麓の区域に限定し「雑居地」として外国人の居住を認めた。

 

 当初条約を結んでいなかった清国人は鯉川の西に清国人街(南京町)を形成し、山麓の雑居地には外国人が居住していた住宅が「異人館」として、現在も多く残されている。

 

 1872年(明治5年)には居留地は完成し、それまでにも埠頭の拡張や生田川の付け替えなど、神戸港の整備が進み、居留外国人は1890年(明治23年)には2000人(うち清国人1400人余)を超えた。

 

 不平等条約である安政五カ国条約改正を目指す政府は、領事裁判権撤廃と外国人居留地の返還を実現する条約を1894年(明治27年)の英国をはじめ14カ国と結んだ。

 

 1899年(明治32年)7月17日、一連の条約が発効し、神戸外国人居留地は日本に返還されて神戸市に編入された。ただ外国人に貸与された永代借地権はその後も存続した。

 

 外国側との折衝の結果、1942年(昭和17年)4月1日をもって永代借地権は消滅し,土地所有権に切り替えられた。居留地の歴史の完全な終焉はこの時とされる。

 

 

以下、現地案内板より

 

旧神戸居留地十五番館

 (国指定重要文化財)  指定年月日 平成元年5月19日

 

 慶応3年12月7日 (1868.1.1)の兵庫開港により、126区画、25.8haの外国人居留地が開設され、商館を中心として領事館やホテル、教会などがつぎつぎに建てられました。

 15番地のこの場所に、明治14年頃に建築されたこの建物は、神戸市内に残された異人館としては最も古い建物で、木骨煉瓦造2階建、寄棟造、桟瓦茸で2階は南側両端にペジメントをつけ、コロニアルスタイルの開放されたベランダを持ち、外観は石造風意匠となっています。

 神戸の旧居留地に現存する唯一の遺構として平成元年に重要文化財に指定され、平成2年7月 から5年3月にかけて行われた修理工事により明治の面影を取り戻していましたが、平成7年1月17日に発生した阪神・淡路大地震により全壊してしまいました。

 地震により液状化現象が生じた旧居留地内ではこの建物以外にも、20棟を超すビルが全壊しており、いかに激しい地震であったか窺い知ることができます。

 全壊した十五番館でしたが、震災後部材を回収することからはじまった復旧工事は、約3年の月日と関係者の努力と様々な人々の協力により、震災前の姿を取り戻すことができました。

 最新の耐震技術である免震工法を採用したわが国最初の文化財建造物として蘇ったこの十五番館は、今後の地震に対して充分耐えられるだけの耐震性能を持ち、今後も旧居留地の歴史を伝える唯一の建物として私たちに明治の面影の画影を伝えてくれることでしょう。

 

平成11年4月 神戸市教育委員会