河内 新大和川(付替起点) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①新大和川付替起点碑②上流側・石川分岐③下流側・長瀬川分岐④長瀬川と築留樋門⑤長瀬川築留二番樋⑥中甚兵衛像

 

訪問日:2024年4月

 

所在地:大阪府藤井寺市・柏原市

 

 甚兵衛は、寛永16年(1639)河内郡今米村(東大阪市)の庄屋の3男として生まれた。兄に太兵衛ら、承応元年(1652)14歳の時、近くで吉田川(大和川の支流)が決壊、初めて洪水を体験する。

 

 明暦2年(1656)父が死去、明暦3年(1657)19歳の甚兵衛は初めて江戸に下り、大和川の付け替えを願い出る。その後、足掛け15年にわたりほとんど江戸に滞在して嘆願を繰り返す。

 

 万治3年(1660)、寛文5年(1665)、寛文11年(1671)と3度の幕府役人の検分が行われたが、新川筋候補地の反対もあり計画中止を繰り返す。寛文12年(1672)甚兵衛は今米村に戻り、翌年結婚する。

 

 その間も大和川の急速な天井川化が進み、延宝2年(1674)の大洪水では深野池・新開池といった大池(かつての河内湖)を含む35ヶ所の堤防が決壊するなど大きな被害を受ける(寅年大洪水)。

 

 大和川付け替え運動は摂津・河内両国の15万石余の村々が賛同する規模に拡大し、延宝4年(1676)、天和3年(1683)と幕府の検分が行われるが、政商・河村瑞賢(1618-99)の意見で安治川開削などの大普請が行われることとなる。

 

 なおこの普請をめぐり、貞享元年(1684)畿内治水事業の最高責任者の任を解かれた若年寄・稲葉正休が大老・堀田正俊を刺殺する事件が起きている。貞享4年(1687)第一期普請が完了し、付け替え嘆願は禁止される。

 

 甚兵衛は代替治水計画の嘆願に切り替えて運動を続けるが、その規模は河内7万石、さらに3万石へと縮小する。元禄12年(1699)堀江川の開削や木津川の直線化などの第二期普請が完了する。

 

 しかし、元禄14年(1701)河内国低地部で大水害が発生、元禄15年(1702)幕府はようやく大和川の付け替えを前提とした検討に入り、甚兵衛は堤奉行・万年長十郎から普請御用を仰せつかる。

 

 元禄16年(1703)6度目の検分が20年ぶりに実施され、付け替えが決定する。65歳の甚兵衛は中甚助と改名、元禄17年(1704)2月、川下より新大和川築造工事が開始される。

 

 同年(改元して宝永元年)10月、付け替え起点で切通しが行われ、新大和川開削工事が竣工した。甚助は嫡子・九兵衛とともに御礼言上のため江戸に下った。

 

 宝永2年(1705)甚助は大坂北御堂で剃髪、乗久と号する。享保15年(1730)92歳の長寿をもって死去した。時を経た大正3年(1914)従五位を追贈されている。

 

 

以下、現地案内板より

 

大和川付替え

 

 付替え以前の大和川はいくつかに分流しながら河内平野を北方に流れ、淀川と合流していました。天井川化が著しいため、流域は頻繁に洪水にみまわれていました。江戸時代に入ると、今米村(現、東大阪市)の庄屋中甚兵衛を中心とした農民たちが付替えを幕府に何度も嘆願しました。しかし、付替え地流域の反対意見や、河村瑞賢による治水工事の進言もあって、一旦、天和3年(1683)に付替え不要が幕府で決定されました。 

 その後、付替え促進派のさらなる嘆願により、元禄16年(1703)10月付替えが決定されました。工事は翌年2月には開始され、延べ245万人をかけ、わずか8ヶ月という短期間で宝永元年(1704)10月13日に竣工しました。このとき、落堀川の掘削や西除川の改流なども行われました。 

 付替えによって、旧川筋では鴻池新田など多くの新田が開発され、米作りや、綿花栽培などが盛んになりましたが、新川筋では、舟運の衰退、川床となった田地に関したトラブル、左岸の浸水被害、土砂流出による堺港の沖への移動などの弊害も生まれました。

 藤井寺市ではこの付替えにより発生する浸水対策として、小山・北条の2ヶ所で雨水排水用ポンプ場を建設しています。この工事に先立ち、左岸堤を断ち割る発掘調査を実施しました。これらの調査で堤盛土の下に旧耕作土の畝が残されており、特別な整地をせずに堤防が築かれたことが判りました。また、堤の鋼土は地山(もとの地盤)と土質がよく似ており、落堀川を掘削しつつ、築堤した可​​能性が考えられます。 

工事規模  大和川 幅約180m、延長14.3km  落堀川 幅約30m、延長13.2km

 

平成15年3月 藤井寺市教育委員会

 

 

大和川付けかえと中甚兵衛

 

 河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付けかえられたのは、元禄が宝永と 改元された1704年のことです。工事は、わずか8ヶ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までには、50年近くの月日を要しました。

 その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すよう大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床 には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってしまいました。

 しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。

 この付けかえ促進旅で終止運動の中心にあったのが代々の今来村(現在の東大阪市)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。 そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。

 甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして亡くなりました。

 御墓は京都東山西大谷に、生地の春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています。

 

 

利水300年のあゆみ

 

今から300年前の1704年10月ここ築留の地から北へ流れていた旧大和川は今米村の庄屋であった中甚兵衛翁の生涯をかけた運動により川の流れは現在のように西へかえられました。

川の流れがかわったことによりたびたびの洪水で大きな被害を受けていた河内の人々はその災難から救われました。

流れがかわると農業に必要な水が来なくなるので川付替えと同時に新しい大和川の取水樋門を設け、旧大和川の川跡に長瀬川と玉串川という農業用の水路を造り田畑に用水を供給しその水路の維持管理をおこなうため75ヶ村の農民により築留樋組を造りました。

当時は4千町歩以上もあった農地も現在では約300町歩に減少していますが当改良区は300年の伝統を守り地域においても貴重な財産である水路を保全し周辺の美観保持にも努めています。

 

2004年7月 築留土地改良区

 

 

築留二番樋

 文化庁登録有形文化財

この樋は明治40年頃に築造されイギリス積みと呼ばれるレンガ積みで笠石部が花崗岩の樋である

逆アーチ型の側壁は美しいカーブを付けて仕上げられており 平成13年12月に文化庁の有形文化財に登録されました

平成14年 築留土地改良区