豊前遠征②途中下車の旅 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①立留りの景

 宿願であった長岩城は攻略したが、まだ陽は高く、せっかくなので耶馬溪を見ておこうということで、立留りの景がよく見える平田城へ立ち寄る。城跡の隅々まで見る余力は無く、よく整備された南台のみを攻略、さらに競秀峰へ。知識になかったが、耶馬溪は北海道の大沼、静岡県の三保の松原ともに新日本三景(大正5年・1916選出)のひとつだ。

②八幡古表神社

 県境を越え(かつては同じ豊前国)千束藩の旭城を(平城なので楽に)攻略し、レンタカー返却先の中津駅(大分県内なら追加料金はかからない)へ。途中の神々が相撲をとるという八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町)に立ち寄るも、時間が気になり鳥居前で失礼してしまう。ちなみに築上郡は明治29年(1896)の郡制施行の際に、旧築城郡と旧上毛郡が合併して成立した。無事にレンタカーを返却し、中津駅で関西までの乗車券を購入し、日豊本線の各駅停車で本日の宿所の小倉へ向かう。

③キャプテンハーロック像

 小倉は漫画家の故・松本零士氏(1938-2023)が育った(生まれは久留米市)町だ。昭和29年(1954)15歳の時に投稿作品が『漫画少年』に掲載された。高校卒業後の昭和32年(1957)連載が決定して上京した。

 小倉駅で途中下車、ホテルにチェックインしたあと、現地在住の友人と九州素材という和食居酒屋で海鮮や日本酒などを楽しんだ。

④松本清張記念館

 早起きして小倉城周辺を散歩、松本清張(1909-92)は、公式には現在の小倉北区である企救郡板櫃村生まれとされているが、実際は広島で生まれ、その頃に父親が商売で大損して逃げ出し、清張は母親とともに小倉に来て出生届が出されたらしい。その後一旦下関に移住し、10歳ほどの頃から小倉に定住したという。20年前に小倉を訪れた際は入館したが、今回は開館前でもありスルー。

⑤旧師団司令部正門跡

 明治8年(1875)陸軍の歩兵第14連隊が小倉に設置され、乃木希典が連隊長心得として赴任、翌年の秋月の乱を鎮圧し、明治10年(1877)には西南戦争にも出陣している。明治18年(1885)松の丸跡に同連隊と福岡の歩兵第24連隊を管轄する歩兵第12旅団本部が置かれ、明治31年(1898)には、本丸に小倉・大分・久留米・佐賀の各連隊と、下関要塞砲兵連隊からなる第12師団の司令部庁舎が設置された。

⑥小倉城の桜

 この日の小倉の桜は七分咲きといったところか。小倉城は、天保8年(1837)に唐造り(南蛮造り)と呼ばれた天守を焼失、昭和34年(1959)鉄筋コンクリートで復興された。本来は最上層以外には破風はなかったが、地元の要望で姫路城そっくりの破風がつけられたのは個性が半減して残念。早朝なのでまだ人は少なかったが、特に天守閣広場は花見客で賑わう。

⑦鳥町食道街

 今年は元旦から北陸で地震、2日には航空機事故と散々な年始だったが、3日には小倉で36店舗が焼ける大規模火災があった。と思ったら4月も四国・九州で地震、そして2日前にも小倉の正月の火災のすぐ近くで8店舗が焼ける火災が、、、そして昨日は自衛隊ヘリ2機が、、、。

 ホテルをチェックアウトして小倉駅に向かい、友人お薦めのベーカリーは開店前(10時開店)で買えず、コンビニで朝食を購入し、広島駅までの自由席券を購入して新幹線で移動。

⑧武田山登山口

 体力の回復が心配だが、この日は安芸武田氏の銀山城を攻める。広島駅はインバウンドの観光客らで混雑していた。バスで登山口に近い終点に近づいた頃、リュックをコインロッカーに預け忘れたことに気付く。まあ空いているロッカーは無かっただろうと自分を納得させる。今日も苦行になりそうだ。

 写真⑧は、嘉永3年(1850)の土石流によるものという。この辺りでは平成26年(2014)77人に上る死者を出したのも記憶に新しい。

⑨武田山からの眺望

 武田山はハイキングコースとして整備されているので、すれ違うハイカーも多い。やはり昨日の長岩城攻めなどのダメージと重いリュックがツラい。それでも何とか頂上に辿り着き下界を見下ろすと、しばし疲れを忘れる。しかし下山して痛む左足の親指を見てみると案の定内出血をしていた。今は痛みもなく剥れる気配もないが変色したままである。

⑩JR可部線下祗園駅

 駅近くのお好み焼き店に入り、ビールとともに昼食をいただくと、完全復活!したような気がした。予定通り新装開店した福山城を攻める(福山駅から撮影のみも考えた)ことにして、福山駅までの自由席券を購入した。在来線も調べてみたが、新幹線との所要時間の差(最速22分×要乗換1時間45分以上)はかなり大きい。

⑪福寿会館洋館と茶室

 福寿会館は、1930年代に民間の別荘として福山城の旧二の丸下段北側の米蔵があった場所に建てられた。変遷の後の昭和28年(1953)福山市に寄贈され、平成9年(1997)洋館が国の登録有形文化財に指定され、平成24年(2012)には、2棟の茶室なども同じく登録されている。

 新装されオリジナルに近づいた天守はやはり前のものより格好良く感じた。できれば小倉城もオリジナルに近づけてほしいが、構造が大きく違うので、こちらは技術的に難しいか?

⑫500系こだま

 まだ陽は高かったが、さすがに疲れたので福山駅でお土産と広島名物あなごめし弁当とビールを買い、空いているこだま自由席に乗り込む。500系新幹線はJR西日本がより高速化を目指して単独開発し、平成8年(1996)から3年間に16両編成×9本の144両が製造された。現在は「こだま」として全て8両編成化され、6編成が残存するが、2026年度末までにさらに4編成が用途廃止されるという。車内で早めの夕食を摂り、西明石駅で在来線に乗り換えて(座れた!)帰宅する。