安芸 銀山城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①御守岩台から館跡②瀬戸内海を望む③上高間からの眺望④千畳敷⑤御門跡⑥馬返しへの堀切

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:広島市安佐南区

 

 武田元綱は、嘉吉元年(1441)安芸武田氏4代・武田信繁の4男として生まれた。兄に信栄・信賢・国信がいる。安芸武田氏は甲斐源氏10代・武田信武の次男・氏信(1312-80安芸分郡守護)を初代とする。

 

 長兄・信栄は、永享12年(1440)将軍・足利義教の密命で丹後・若狭守護の一色義貫とその子らを謀殺した功により若狭守護職を与えられ、本拠を若狭に移すも同年に28歳で急死する。

 

 次兄・信賢が若狭に加え、同年には信繁から安芸分郡も相続した。信賢は若狭の経営に集中したため、信繁が守護代的な立場で銀山城を本拠に安芸分郡を治め、周防の大内教弘(1420-65)と戦っていた。

 

 長禄元年(1457)大内氏が大軍で銀山城を攻めた際に初陣を果たす。寛正6年(1465)信繁が死去すると、守護代的な役割を引き継ぐ。応仁元年(1467)京都で応仁の乱が勃発する。

 

 当初は東軍として上洛し、兄の信賢(さらに丹後守護職も兼ねる)・国信とともに戦ったが、安芸国人・毛利豊元らの誘いに乗り、文明3年(1471)西軍の大内政弘(教弘の子)に転じ、兄らと袂を分かつ。

 

 同年、信賢が死去し、国信が若狭・丹後と安芸分郡守護を継いだ。文明13年(1483)政弘らの仲介で国信と和解、安芸分郡の経営は任されるも、その守護職は引き続き国信が掌握した。

 

 明応2年(1493)10代将軍・足利義材(義稙)が管領・細川政元らに追放される。明応7年(1498)義材支持の政弘の子・大内義興が安芸に侵攻を開始すると、明応8年(1499)武田家臣の温品国親が離反する。

 

 元綱と嫡男・武田元繁はこれを独力で鎮圧できず、毛利氏や武田家臣の熊谷膳直の働きによりようやく鎮圧した。明応9年(1500)義尹が義興を頼って周防に逃れる。

 

 その義尹の仲介により義興とともに義尹を支持することとなり、その結果、現将軍・足利義澄を支持する武田元信(国信の子)の若狭武田氏と再び袂を分かち、宗家から独立することとなる。

 

 永正2年(1505)元綱は65歳で死去、元繁が家督を継ぐ。永正5年(1508)義興が義尹を奉じて上洛、元繁もこれに従う。同年、義尹が将軍に復帰し、元繁は若狭武田氏からの完全な独立を果たす。

 

 その後も義興とともに畿内に留まっていたが、永正12年(1515)安芸国内の内乱鎮圧のため帰国を命じられると、元繁は出雲尼子氏の支援を得て大内氏から離反し、勢力拡大を図る。

 

 しかし、永正14年(1517)大内方で初陣の毛利元就(21歳)率いる毛利・吉川連合軍にまさかの敗北を喫し討死する。後に西の桶狭間とも呼ばれたこの戦いを機に安芸武田氏は衰退に向かう。

 

 9代・武田信実(若狭武田氏からの養子)の天文10年(1541)元就により銀山城は落城、安芸武田氏は滅亡する。なお後の毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊は安芸武田氏一族であり、元繁の曾孫との説がある。

 

 なお、ここでは信賢を安芸武田氏5代、元綱・元繁父子を6・7代とし、信栄を若狭武田氏初代、国信を2代としている。

 

 

以下、現地案内板より

 

広島県史跡 銀山城跡  指定 昭和31年3月30日  広島市安佐南区祇園町、大町、相田町

 

 鎌倉時代初期、旧祇園町一帯には、安芸国内から運ばれてくる物資の保管倉庫(倉敷地)が集中していました。また、この地域は、古市、今津などの市場や港町で賑わい、安芸国の政治、経済、交通の大変重要な場所をしめていました。

 こうした要衝の地をおさえるため、承久の乱(1221)で手がらをたてた甲斐(山梨)守護職武田信光は、安芸守護職に任命され、守護所を武田山南麓に構えました。その後、鎌倉時代末までには、武田氏により銀山城が築かれたと伝えられています。銀山城は、これ以後、天文10年(1541)大内氏の命をうけた毛利元就らに攻め落とされるまで約300年間、太田川中、下流域を中心として安芸国支配をすすめようとした武田氏一族の一大拠点として重要な役割りを果たしていました。

 現在、銀山城跡には、斜面を削り取り、平らにした50近くの郭の跡や堀切などが残っています。特に中腹の要所に設けられた御門跡とよばれる郭跡には、通路を直角にとるかぎの手の石積みを残しており、近世城郭の桝型の原形として大変貴重なものといわれています。このように広島市域で最大の規模をもつ銀山城は構造的にもきわめて優れており、広島県を代表する中世の山城といえます。

 

平成2年2月10日 広島県教育委員会