紀伊 岡山城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①岡山の時鐘堂②奥山稲荷社③奥山稲荷社社務所④奥山公園⑤城跡を見上げる⑥和歌山城天守より

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:和歌山県和歌山市

 

 岡山城は、紀伊守護・畠山高政により築かれたとされるが詳細は不明、豊臣氏の和歌山城築城により、その城域に取り込まれて姿を消したようだ。

 

 畠山高政は、大永7年(1527)または享禄4年(1531)河内半国・紀伊の守護である畠山尾州家の畠山政国の嫡男として生まれた。弟に畠山政尚(紀伊岩室城主)、畠山秋高がいる。

 

 父は河内守護代の遊佐長教とともに細川氏綱を支援し、天文18年(1549)江口の戦いで長教は三好長慶とともに細川晴元勢を破るが、政国は河内の実権を握る長教と対立し、出家して紀伊に遁世してしまう。

 

 天文20年(1551)長教が暗殺され、天文21年(1552)父が隠居して高政が家督を継ぎ実権を回復する。天文22年(1553)将軍・足利義輝と争う長慶に家臣の丹下盛知・安見宗房らを援軍に送る。

 

 永禄元年(1558)宗房との対立から河内高屋城を出て、泉州堺、さらに紀伊へと移る。永禄2年(1559)長慶が河内に侵攻し、宗房は飯盛山城に逃れ、高政は高屋城に復帰する。

 

 しかし高政が宗房と和睦したことから、永禄3年(1560)三好氏の河内侵攻を受け、高政と宗房は降伏して堺に退去した。永禄4年(1561)長慶の実弟で和泉岸和田城の十河一存が死去する。

 

 これに乗じ、高政は根来衆らとともに紀伊から和泉に侵攻し、永禄5年(1562)久米田の戦いで長慶の弟・三好実休を討ち取り高屋城を奪還するが、同年の教興寺の戦いで敗れ、大和を経て紀伊に逃れた。

 

 永禄8年(1565)将軍・義輝が三好三人衆らに暗殺される。同年、高政は弟の政頼(後の秋高)に家督を譲る。永禄11年(1568)足利義昭が織田信長とともに上洛すると、秋高とともに幕府に出仕した。

 

 秋高が河内半国・紀伊守護を安堵され、高屋城に戻った後も京都に残り、幕府や信長と渡り合っていたと思われる。同年の三好三人衆の河内侵攻では河内に下向してこれと戦った。

 

 元亀4年(1573)義昭と信長が断交すると、秋高は河内守護代・遊佐信教(長教の子)とともに義昭に与するが、信教に殺害される。秋高が信長方に転じようとしたためともいう。

 

 甥(政尚の子)の貞政が家督を継いだが、義昭が信長に敗れて追放されたこともあり、畠山氏は守護の座を失い、紀伊国有田郡を領する一領主(岩室城主)に甘んじることとなった。

 

 高政は再興のため奔走したようだが果たせなかった。晩年はキリスト教の洗礼を受けたという。天正4年(1576)高政死去、46歳または50歳であった。

 

 

以下、現地案内板より

 

和歌山県指定史跡 岡山の時鐘堂  昭和33年4月1日指定

 時鐘堂は、徳川吉宗が第五代紀州藩主であった時代、正徳2年(1712年)に建立されたものである。

 本堂は、当時本町5丁目にあった時鐘屋敷の鐘と共に、藩士の登城時や刻限を城下に知らせたほか、出火などの非常事態を知らせる重要な施設であった。

 建物は約6メートル四方の二階建ての鐘楼で、二階の大梁に梵鐘がつり下げられている。

 この鐘は、元和元年(1615年)のいわゆる大坂夏の陣で豊臣方が使用した青銅製の大筒(大砲)を徳川方が捕獲し、紀州藩が保管していたものを、後に粉河の鋳物工人に命じて梵鐘に鋳なおされたものと伝えている。

 時鐘堂では、二人の番人によって一刻毎につき鳴らされたと伝えられ、明治以後も時を知らせ続けていたが、大正10年(1921年)の時報廃止と共にその役目を終了した。

 

奥山稲荷社

 紀州の藩祖徳川頼宣卿が駿河の国より国入りの際、和歌山城の守り神として御遷座申し上げたと伝えられています。御祭神(主祭神)は、稲蒼魂命、照川大明神、葛葉大明神、幾田大明神、吉田大明神の5柱を合せ祀られています。

 この外境内に数多くの摂社末社をお祀りしています。

 

鐘突き行事

 8月15日の終戦記念日、12月31日の大晦日に岡山の時鐘堂で鐘を突いてきました。

 

平成10年11月30日  寄贈 阪口政雄氏(時は鐘鳴り会)