河内 百済寺/百済王神社 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①百済寺堂塔院跡②百済寺僧院跡③百済寺西北院跡④百済寺南門跡⑤百済王神社⑥百済王神社旧拝殿

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:大阪府枚方市

 

 斉明天皇6年(660)義慈王が唐・新羅連合軍に降伏して百済は滅んだ。天智天皇元年(662)中大兄皇子は人質として倭国に滞在していた義慈王の子・扶余豊璋に安曇比羅夫らの兵船を付けて百済に派遣した。

 

 しかし同年の白村江の戦いで大敗し、百済の復興戦争は失敗に終わった。倭国に残っていた豊璋の弟・扶余勇は持統天皇(在位690-697)から百済王(くだらのこにきし)姓を与えられて百済王善光と称し、廷臣となった。

 

 善光の曾孫・百済王敬福は文武天皇元年(698)百済王郎虞(従四位下・摂津亮)の子として生まれた。天平11年(739)従五位下に叙爵し、天平15年(743)陸奥介から陸奥守に昇進する。

 

 同年、聖武天皇(在位724-749)が大仏造立の詔を発する。天平18年(746)敬福は上総守に転任するが、すぐに従五位上に昇叙され陸奥守に再任される。

 

 そして天平21年(749)敬服は陸奥小田郡(宮城県遠田郡)産出の黄金900両を朝廷に献上して天皇を狂喜させ、7階級特進の従三位に叙せられる。万葉歌人・大伴家持(当時は従五位上・越中守)は、

 

  すめろぎの 御代さかえむと あずまなる みちのくやまに こがねはなさく  と詠んだ。

 

 その後、10年余にわたり年間900〜1000両、総計10446両の黄金が陸奥から奈良に運ばれた。天平勝宝4年(752)大仏開眼供養会が盛大に行われた後も、鍍金や光背の制作は続いた。

 

 敬福は、天平勝宝2年(750)宮内卿として帰京した頃、河内国交野郡に百済寺を建立し、百済王氏一族の拠点を摂津国難波から移したと考えられている。天平勝宝4年には常陸守に任ぜられる。

 

 天平勝宝9歳(757)出雲守に任ぜられ、同年の橘奈良麻呂の乱では、大宰帥・船王とともに勾留警備の任にあたり、道祖王・黄文王・大伴古麻呂・小野東人らを拷問死させ評価された。

 

 天平宝字3年(759)伊予守に任ぜられ、藤原仲麻呂による新羅征討計画では、天平宝字5年(761)南海道節度使に任ぜられ、紀伊・四国・山陽12ヶ国の軍事を統括したが、実行されることはなかった。

 

 天平宝字7年(763)讃岐守に転じ、天平宝字8年(764)藤原仲麻呂の乱では外衛大将として和気王・山村王とともに淳仁天皇(淡路廃帝)の中宮院を囲み、天皇を幽閉する役目を果たす。

 

 その後は刑部卿に転じ、天平神護元年(765)称徳天皇の紀伊国行幸では御後騎兵将軍として警護し、帰途の河内国弓削寺で天皇に百済舞を披露したという。天平神護2年(766)69歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

特別史跡百済寺跡

 

 百済寺は、朝鮮半島百済の王族の末裔である百済王氏の氏寺として奈良時代後半に建立されました。淀川と天野川を眼下に見下ろす景勝地に立地します。

 円形の柱座をつくり出した精巧な礎石が多く残り、創建当時の主要堂塔の基壇などが良好に遺存する数少ない遺跡であること、また百済王氏の歴史とも重なって、古代日本と朝鮮の交流史を示す価値の高い遺跡であることから、昭和16年(1941)に国の史跡に、昭和27年には国の特別史跡に指定されました。

 昭和・平成におこなった3回の発掘調査によって、南門・中門・金堂・講堂・北方建物(食堂)・北門が中軸線上に並び、中門から発した回廊が金堂に取りつき、回廊内に東西2つの塔が並ぶ建物の配置がわかりました。また寺の範囲は約140m四方で築地塀が廻り、堂塔院・僧院をはさんで4つの区画があったことが明らかになりました。建物基壇には外縁に凝灰岩切石を用いたものもあり、平城京の大寺院に匹敵する立派さです。古代の有力氏族であった百済王氏の氏寺として、格の高い寺院であったことがわかります。

 

令和4年3月 枚方市

 

 

特別史跡 百済寺跡

 

 ここに寺跡をとどめる百済寺については、興福寺官務牒疏という末寺帳に、岡寺の義淵僧正の弟子で奈良時代に活躍した宣教大師の開基したものであることが記されている。

 寺跡の西隣に百済王神社があり百済寺と称したことから、百済王氏一族の氏寺であると考えられる。したがってその一族が天平勝宝2年における百済王敬福の宮内卿兼河内守任官を契機に、摂津国百済郡の故地を離れ、ここ交野郡の土地を賜って移住し、氏神百済王神社と氏寺百済寺を建立したものと思われる。

 その後一族から俊秀の人達を輩出し、また桓武天皇朝にはその外戚として繁栄し、当寺もこの氏族と盛衰をともにした。後には奈良興福寺の末寺として室町時代までその命脈をつないだように思われる。現百済王神社本殿が、興福寺と一体的なものであった春日神社関係の社殿を移築したものt認められることからもこれを裏付けている。

 昭和40年、当時の市長寺嶋宗一郎ほか地元有志は、それまで雑草の繁茂にゆだねられていたこの寺院を市民の親しみうる場所とするための環境整備事業を発起し、大阪府教育委員会はその概要を知る為に全面的な発掘調査を実施し、ついで枚方市が国および府の補助金を得て、わが国で初めての史跡公園を完成したものである。

この調査の結果、一辺長一町半、約160mを占める方形寺地の中心線上に伽藍を配し、寺地南限の南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両塔を包容し金堂両脇に取付くもので、新羅の感恩寺と同形式であることが分る。またこの伽藍成立以前の奈良時代前期にも仏舎の営まれていたことが、出土瓦から考えられるに至った。さらに寺地東南隅角には、東院とも呼ぶべき一郭があり、うちに一堂宇を配していたことも判明した。

 ともかくこの寺跡は、寺地全体とともに主要堂塔の大部分を遺存する希有なものであり、またその伽藍配置形式は、その歴史的背景とあいまって古代日韓文化交流の史実を徴証する価値高い史跡である。

 昭和27年3月29日 文化財保護法の規定により特別史跡の指定を受ける

 

昭和60年3月  文化庁 大阪府教育委員会  管理団体 枚方市 

 

 

百済王神社

 

 当社の創建時期については諸説ありますが、延宝9年(1681)の「寺社改帳」に社名が見え、当時の地誌『河内鑑名所記』にも「百済王の宮」として登場することから、江戸時代前期には旧中宮村の氏神になっていたことがわかります。また、祭神は拝殿の扁額が示すように百済国王及び牛頭天王で、当社が元は、古代朝鮮半島にあった百済(660年滅亡)国王の末裔、百済王氏の祖霊を祀る神社であったことを今に伝えています。

 本殿は春日大社本社本殿の社殿を移築した「春日移し」で、高欄の擬宝珠銘に「文政十年」と刻まれていることから、江戸時代後期の文化5年(1808)に春日大社で造営された後、文政10年(1827)に当社へ移築されたものと考えられます。保存状態は極めて良好で、春日大社の本社本殿であった当時の形式を伝える貴重な遺構です。

 なお、正面向かって右側にある建物は旧拝殿で、江戸時代後期の天保7年(1836)に再建されたものです。現在の拝殿が新築されるにあたり、平成12年(2001)に移築されました。

 

2018年 枚方市教育委員会