播磨 善楽寺/無量光寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①戒光院明石浦ノ浜松②明石入道の碑③平清盛五輪塔④圓珠院庭園⑤無量光寺山門⑥蔦の細道

 

訪問日:2024年2月

 

所在地:兵庫県明石市

 

 伝教大師最澄が弘仁13年(822)入滅すると、修禅大師義真(781-833)が跡を継ぎ、天長元年(824)初代天台座主となって最澄の宿願であった比叡山大乗戒壇で最初の授戒を行った。

 

 第3代天台座主・慈覚大師円仁(794-864)は横川を開創し、世俗化する東塔・西塔から離れて修法を行う場として整備、円仁を慕う門徒により貴族社会と私的な関係を持たない円仁派が形成された。

 

 一方、園城寺別当から貞観10年(868)第5代天台座主となった智証大師円珍(814-891)は、密教の加持祈祷を求める貴族社会との結びつきを強め、延暦寺の顕密両学が崩れ密教化(台密)が進む。

 

 円珍入滅後も延暦寺は台密を中心に隆盛し、天台座主は第9代・長意を除き、第13代・尊意(866-940)まで約50年間にわたり円珍派が占め、円仁派の横川は衰退していた。

 

 しかし奈良興福寺の対論で名声を上げ、横川を再興した慈恵大師良源(912-985)が康保3年(966)第18代天台座主に就くと、比叡山の密教化を改める方針をとり、円珍派と対立する。

 

 その後も両派の対立は深まり、永祚元年(989)第20代天台座主に就任した円珍派の余慶(919-991、諡号・智弁)は、円仁派の妨害により宣命を奪われ、わずか3ヶ月で辞任することとなる。

 

 正暦4年(993)両派の武力衝突により、円珍派1000人余りは比叡山から追い出され、円珍像などを持って園城寺に移り本拠とする。以降天台宗は寺門派(円珍派・園城寺)と山門派(円仁派・延暦寺)に二分される。

 

 寺門派は摂関家との関係を深め、藤原道長(966-1028)は法成寺などの要職をその門弟に与え、熊野三山も寺門派が密教を重視する立場から修験の徒が多く出たことから、その勢力下に入った。

 

 園城寺の明尊(971-1063)は長暦2年(1038)天台座主に指名されるが、山門派の関白・藤原頼通(道長嫡子)邸への強訴により阻止され、後の永承3年(1048)第29代に就任するも3日で辞職に追い込まれる。

 

 播磨明石の善楽寺から天喜元年(1053)第31代天台座主に就任したという源泉(976-1055)は播磨出身の寺門派で、明尊と同様に山門派の圧力によりわずか3日で辞職に追い込まれた。

 

 紫式部の父・藤原為時(949頃-1029頃)は、安和元年(968)当時(紫式部の生年は970〜978の間とされる)は播磨権少掾の地位にあり、長和5年(1016)園城寺にて出家している。

 

 園城寺で『源氏物語』を著したとも伝わる紫式部は源泉と同年代で、両者に交流があったとしてもおかしくない。源氏物語「明石の巻」は善楽寺と源泉のプロモーションに利用されたかもしれない。

 

 なおその後、政権を争う武家達が権門寺院の取り込みを図り、平安末期には源氏(寺門派)と平家(山門派)に、中世には北朝(寺門派)と南朝(山門派)に分かれて戦った。

 

 平家政権下では、善楽寺には平清盛の甥・忠快(山門派)が住し、元暦2年(1585)壇ノ浦の戦いで捕虜となるが、その後も源頼朝らの帰依を受け、承久年間(1219-22)には横川の長吏に就任した。

 

 

以下、現地案内板より

 

法寫山 善樂寺

 

【縁起】善楽寺は孝徳天皇の大化年中(645-649)に天竺の高僧法道仙人が開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。

平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。

 寺伝によると、平安時代中期の天喜元年(1053)10月26日に住職だった源泉法師が延暦寺第31世座主になられている。短期間の座主ではあったが、当時の勢力を物語る出来事であった。しかし元永2年(1119)には火災で堂塔を焼失した。

 それから30余年のちの保元元年(1156)、播磨守に任じられた平清盛はこの地を重視し、善楽寺のすべての堂塔伽藍を再興、念持仏であった木像の地蔵尊と寺領500石を寄進した。この付近は当津と呼ばれる庄村で、海路の要衝であったためといわれる。それ以来、ここの中心寺院として栄え、平安時代末期には17ヵ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は材木町にわたる約1キロ平方という広大なものだった。

 このころ当寺には、清盛の弟教盛の子 忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中である養和元年(1181)に亡くなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文8年(1539)には再び戦乱のなかで本堂などを焼失、文禄2年(1593)に再建している。

 江戸時代には明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。5代藩主松平忠国は、源氏物語の世界をここにみて、明石入道の碑を建てた。淡路島を前に美しい寺であったのだろう。境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。

 昭和20年7月7日、戦災によって3たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰燼に帰した。同53年12月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活、同63年3月30日4度目の復興をなし遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人は絶えない。

 

 

明石市指定文化財(昭和52年2月10日)

善楽寺の平清盛五輪塔

 

高さ3m36㎝の花崗岩の五輪塔で堂々たる風格をもちます。

善楽寺は寺伝によると、大化年間、法道仙人開基といい、明石で一番古い寺です。平清盛は寺僧に自らの寺念仏と寺領500石を与えました。この五輪塔は、養和2年(1182) 清盛の甥の忠快律師がこの寺の僧であった時、清盛の厚意に報いるため建立したものといわれています。

明石の石造物として価値が高く、鎌倉時代の特色を示すものです。

 

明石市教育委員会

 

 

源氏物語の里

 

 この周辺は、世界最古の長編ロマン「源氏物語」の舞台であり、主人公 光源氏と明石の上との秘められたロマンが繰り広げられた。

 善楽寺は明石の上の父 明石入道が住む「浜辺の館」の跡で「明石入道の碑」や「浜辺の松の碑」が立つ。

 無量光寺は、光源氏の月見寺で「源氏稲荷」である。また、山門の前に「蔦の細道」という光源氏の恋の通い道がある。

 

明石市教育委員会

 

 

伝「宮本武蔵」作庭

 圓珠院 庭園

 

 宮本武蔵は、元和4年(1618年)明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えられ、同年、明石城の築城が始まると、明石城下の町割を担当するとともに、作庭にもその才を発揮し、明石城の樹木屋敷やこの圓珠院の庭園の作庭に当たったと伝えられています。

 この庭園は圓珠院本堂の前方に位置する枯池枯山水庭園です。

 全体的にみて、小規模ではあるが、石組を中心として立面構成を重視し、視点による庭景の変化と遠近感を取入れ、水墨画を思わせるような造りとなっています。

 圓珠院のほか、明石市上ノ丸にまる本松寺の庭園も武蔵の作と伝えられています。