淡路 白巣城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①東ノ丸②米倉③虎口④馬繋場土塁⑤本丸を望む⑥立岩

 

訪問日:2024年2月

 

所在地:兵庫県洲本市

 

 橘姓淡路安宅氏は、紀伊安宅荘を拠点として熊野水軍として活動した紀伊安宅氏が淡路島に進出し、勢力を拡大した。なお清和源氏小笠原流とする説もある。

 

 淡路安宅氏は東浦に北から岩屋(淡路市)・安乎・炬口・洲本・千草猪鼻・由良(以上洲本市)、西浦に湊(南あわじ市)、そして淡路島中央部の三野畑(白巣城)の8家に分かれ、「安宅八家衆」と呼ばれた。

 

 永正16年(1519)阿波の三好之長が淡路守護・細川尚春を滅ぼし、三好氏の淡路支配が進むと、安宅八家衆もこれに従うが、大永8年(1528)には炬口の安宅次郎三郎が謀反を起こしている。

 

 そして時期は不明だが、之長の曾孫(孫とも)で、三好長慶の3弟・千々世(1526?-1564)が安宅氏の養子となり、安宅冬康と名乗り洲本城を拠点に淡路水軍を統率した。

 

 冬康が継いだのは洲本安宅氏とされることが多いが、白巣城主・安宅冬秀との諱名の類似から、三野畑安宅氏を継いだとも考えられる。淡路安宅氏の宗家が淡路島中央部の三野畑を本拠としていてもおかしくない。

 

 淡路島内の安宅氏を統括する冬秀とは違い、三好一族として畿内や阿波との連絡が欠かせない冬康が、東浦の洲本に宗家の本拠を移転することは当然のことであろう。

 

 ただ、冬秀が天正9年(1581)の羽柴秀吉による淡路征伐で滅んだのであれば、冬康の養父とは考えにくいかもしれない。三野畑安宅氏の実子で冬康の義兄弟と想像してみた。

 

 庶流が次々と秀吉に降伏する中、淡路安宅氏宗家の冬秀はその名誉をかけて滅んでいった。白巣城はその本拠として相応しい規模を誇る城といえよう。

 

 なお一説に、冬康は紀伊安宅氏の実俊の子で、一度三好氏の養子になり、後に安宅氏に復したとするものがある。だとすれば永禄7年(1564)冬康が長慶に殺害された理由もまた違ってくる。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 白巣城跡

 

 洲本市五色町鮎原三野畑所在の白巣城は、標高約320mの白巣山山頂に位置する戦国時代の山城で、別名「三野畑城」とも呼ばれています。江戸時代の地誌『味地草』には「険阻にして要害無双の城なり」と記されています。

 永正16年(1519)に淡路守護細川家が滅亡後、淡路島は三好氏の勢力下に入り淡路国人衆が台頭する戦国時代がはじまります。国人衆の中で最大の勢力を誇ったのが淡路水軍を率いていた安宅氏です。安宅氏は淡路各地に城を構え、その主な城は「安宅八家衆」の城と呼ばれ、白巣城も安宅八家衆の城の一つに数えられています。しかしその安宅氏も三好氏の衰退とともに次第に衰えていきます。そして天正9年(1581)、羽柴秀吉による淡路攻めで国人衆は秀吉軍に降伏、淡路国人衆の時代はここに幕を降ろすこととなります。

 白巣城についての当時の資料は残っておらず、詳細なことはわかっていません。江戸時代の地誌『淡路国名所図絵』によると「白巣城は足利の末、安宅九郎左衛門冬秀二三代居住す」と記されています。他の地誌にも「安宅冬秀」が白巣城主であったと記されており、安宅冬秀城主説が現在最も有力とされています。

 白巣城は、自然の地形をうまく利用して築かれており、縄張りの大きさは南北約350m東西約300mで戦国時代の淡路島の城の中でも最大級の規模です。

「本丸」「西の丸」「東の丸」「馬繋場」「馬責場」「米倉」と呼ばれる曲輪が堀切により独立しており、土塁や竪堀など当時の遺構が今も良好な形で残っています。

また東は大阪湾、西は播磨灘を望見でき、瀬戸内海や大阪湾を往来する船を監視するには最適の場所です。

 秀吉による淡路攻めで淡路国人衆は悉く降伏し、淡路島は3日間で陥落したと言われています。その中で白巣城主は唯一抵抗し、秀吉軍の火攻めにより炎上し落城したと伝えられています。

「竹の皮合戦」や「黄金の鶏」など落城時の伝説が今も地元で語り継がれています。

平成24年3月29日に洲本市の史跡に指定され、大切に守り管理しています。

 

平成25年3月 三野畑町内会 白巣交流推進委員会