追)紀伊 慶徳山 長保寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂と多宝塔②境内③大門イメージ 1④大門内側

イメージ 2⑤本堂と多宝塔

イメージ 3⑥境内

 

訪問日:2001年5月(④⑤⑥) 2024年2月(①②③)

 

所在地:和歌山県海南市(旧海草郡下津町)
 
 23年前の前回訪問時には紀州藩主墓所などを観ていなかったので再び訪れてみたが、令和5年(2023)6月の豪雨により、本堂裏斜面が崩落したため、拝観停止中であった。

 

 犬公方・徳川綱吉には鶴姫と徳松という二人の子がいた。延宝8年(1680)将軍に就任した綱吉は、翌天和元年(1681)鶴姫(当時4歳)を紀州藩嫡子・徳川綱教(当時17)と婚約させる。

 

 将軍家世嗣となった徳松は天和3年(1683)5歳で夭折、貞享2年(1585)鶴姫を娶った綱教が将軍後継の有力候補となる。

 

 鶴姫を溺愛した綱吉は貞享5年(1688)「鶴字法度」を出し、庶民が鶴の字や紋を使用することを禁じた。このあおりを受け井原西鶴は雅号を「井原西鵬」と改め、歌舞伎の中村座は丸に舞鶴の定紋を角切銀杏に改めた。また和菓子の老舗・鶴屋は「駿河屋」と屋号を改め現在に至っている。

 

 綱教は元禄11年(1698)家督を継ぎ紀州藩主となる。しかし、子宝に恵まれぬまま宝永元年(1704)4月鶴姫が疱瘡により28歳で、綱教も翌宝永2年(1705)5月に41歳でともに綱吉に先立って亡くなった。

 

 同年8月には父・光貞が亡くなり、9月には紀州藩を相続した次弟・頼職も26歳の若さで亡くなり、その跡を継いだのが4弟・吉宗である。

 

 紀州藩歴代藩主は長保寺に葬られるが、後に8代将軍になった吉宗は寛永寺に、14代将軍となった慶福(家茂)や江戸住みであった鶴姫は増上寺に葬られている。

 

 

以下、現地案内板より

 

長保寺(国宝・重要文化財)

 

 長保寺は長保2年(1000年)に一条天皇の勅願で創建され、本堂(1311年)・多宝塔(1357年)・大門(1388年)が国宝に、鎮守堂(1295年)が重要文化財に指定されている。江戸時代(1666年)に初代紀州藩主徳川頼宣により菩提寺に定められ、全国随一の規模を誇る藩主墓所が築かれた。
 墓所には幕府の将軍に就任した5代藩主吉宗(8代将軍)、13代藩主慶福(14代将軍)を除く歴代藩主の墓所が設けられている。
 
和歌の浦日本遺産活用推進協議会
海南市
 
 
国宝 長保寺大門 一棟
 国指定 明治37年8月29日
 国宝   昭和28年3月31日
 
 この門は、後小松天皇の勅宣を受けて寺僧実然が嘉慶2年(1388)に再建したものである。
 3間1戸の門で入母屋造り本瓦葺の建物で、組物は和様を基調とした三手先斗栱に尾垂木を組み、軒を受けるなど室町初期の特徴をよく表し、形態がよく整った点においては代表的な門の一つである。
 現在掲げる額は、紀州家初代頼宣卿が藩の儒者季梅溪に命じて模写させたものであり、当初の扁額は応永24年(1417)妙法院二品親王の御筆で大門と共に指定されている。
 仁王尊は弘安9年(1286)湛慶作と伝えられる秀作である。