摂津 雀の松原 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①石碑②道標石③村境の碑④東求女塚古墳⑤住吉川⑥摂津名所図会

 

訪問日:2024年2月

 

所在地:神戸市東灘区

 

 洞院公尹は、洞院家の祖・洞院実雄(1219-73、従一位・左大臣)の4男だが生年は不明。母は白拍子無量。異母兄弟に洞院公宗(1241-63)、小倉公雄(?-?)、洞院公守(1249-1317)ら。

 

 異母姉妹に佶子(1245-72、90代・亀山天皇皇后、91代・後宇多天皇生母)、愔子(1246-1329、89代・後深草天皇後宮、92代・伏見天皇生母)、季子(1265-1336、伏見天皇妃、95代・花園天皇生母)ら。

 

 3人の天皇の外祖父となった父(いずれも即位はその薨去後)は、弘長元年(1261)左大臣、弘長2年(1262)には従一位に昇叙し、弘長3年(1263)公宗が23歳で死去する前日に左大臣を辞した。

 

 文永5年(1268)後嵯峨院の意思により佶子の生後8ヶ月の世仁親王が立太子、文永9年(1272)次兄の小倉公雄が、目をかけられていた後嵯峨院の崩御を悲しんで出家する。

 

 文永10年(1273)父・実雄が薨去、しかし文永11年(1274)世仁親王が即位(後宇多天皇)し、洞院家は天皇の外戚となる。3兄・公守は建治4年(1278)正二位に昇叙する。

 

 生母が白拍子である公尹も、弘安3年(1280)従四位上に昇叙、正応3年(1290)正三位・権中納言、永仁元年(1293)権中納言を辞するも、永仁2年(1294)正二位に昇叙した。

 

 しかし正安元年12月(1300年1月)薨去、3兄・公守が51歳時なので、それ以下の年齢で薨去している可能性が高い。また、妻や子女の記録は伝わっていない。

 

 公守は永仁4年(1296)従一位に至り、正安元年(1299)には太政大臣となる(同年のうちに辞職)。嘉元3年(1305)出家、文保元年(1317)69歳で薨去している。

 

 実雄を初代とする洞院家は、10代目の公数が伝来の家記・文書類を売却して文明8年(1476)出家し断絶、本家筋の西園寺実遠が子の公連をして再興するも、有名無実のまま程なくして歴史から消えた。

 

 公守の次男・正親町実明を祖とする正親町家はその後も存続し、120代・仁孝天皇の後宮・正親町雅子(新待賢門院)は121代・孝明天皇らの生母であり、明治天皇の祖母である。

 

 

以下、現地案内板より

 

雀の松原の石碑

 魚崎一帯の浜辺の松林は、古来「雀の松原」と呼ばれ、「源平盛衰記」の中にも山陽道沿いの名所として記された景勝地でありました。この地ではよく歌もうたわれ

‟竹ならぬかけも雀のやりとりはいつ名にしめし松はらの跡  中納言公尹卿詠”

‟雀松原遺址 杖とめて千代の古塚とへよかしここや昔のすゝめの松原”

と石碑に刻んであります。

 

伝説 雀合戦

 むかし、魚崎一帯の浜辺の松林は、雀の松原の名で呼ばれるほど、大勢の雀が生息していました。三年に一度ほど山奥の丹波から、雀の大軍がおしよせて、この地の雀と大合戦をするようになりました。

 この話は人々の間に広がり、数十日間も続く大合戦を観ようと、たくさんの人々が訪れるようになりました。そのうちある村人がたおれた雀をひろい集め、合戦の間「雀茶屋」と称する焼鳥の店を開くことを考えました。この店が名物となって年中開店し、「雀宿」と言う、宿屋まで出来たと言われます。

 多くの歌人もこの地を訪れ、歌もたくさん残されました。 貞松の

  ‟千代千代となけど鶴の声でなし 雀松原百になるまで”

もここで歌われたものです。

 

古戦場 雀の松原

 街道沿いの松林は、戦時に陣地ともなりました。福原・兵庫に陣取った平家を伐つため源範頼に率いられた源氏の軍勢が、寿永3年(1184)2月雀の松原に陣をしいたと「平家物語」に記されています。また「太平記」にも弟の足利直義と争った尊氏たちの陣が、観応2年(1351)2月ここに張られた記録が残っています。戦国時代の記録でも、謀叛を起こした荒木村重の花隈城攻めのため、織田信長の軍勢が天正6年(1578)11月ここに陣取りをしたと、「信長公記」が伝えています。

雀の松原の由来

 むかし、このあたりはササイの里と呼ばれていました。ササイとは「雀(ささい)」と言う鳥の名で、この字を地名にあてていました。それが鎌倉時代までに「すずめ」と読み変えられ、雀の松原と言う地名が出来たのだろうと言われています。

 

 

村境の碑

 住吉川下流の西岸は、古くから住吉・魚崎両村の間で境界争いが行われていました。その和解成立と、村の境界を示したのが左にある大きな石碑です。

 碑には、「是より北 住吉村 世話掛 山下八郎兵衛」、反対の面に「是より南 魚崎村 世話掛 下浦清兵衛」とあり、側面に「明治十四年三月」と刻まれています。

 

 

東求女塚古墳

 東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女塚古墳とともに、「葦屋の兎名負処女」をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、兎名負処女をめぐって争った信太壮士の墓だといわれていますが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられます。

 現在、墳丘の一部は公園の中に残っていますが、墳丘のほとんどは、土取りによってなくなってしまいました。

 昭和57年、遊喜幼稚園の園舎改装工事に伴って行われた発掘調査では、前方部の墳丘の裾部と周濠が発見されました。また、公園整備に伴う調査で後円部の裾部も残っていることがわかりました。

 これらの調査結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、墳丘の斜面には石が葺かれていたとわかりました。

 東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡、車輪石、剣、玉などで、明治時代の壁土取りの際発見されました。これらの遺物は現在、東京国立博物館に保管されています。 この古墳の造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられます。

東灘区役所