摂津 萱野邸 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①長屋門②長屋門扉③土塀④長屋門内側と井戸⑤涓泉亭⑥萱野家墓所

 

訪問日:2024年1月

 

所在地:大阪府箕面市

 

 元禄14年3月14日(1701年4月21日)江戸城松の廊下にて吉良上野介義央への刃傷に及んだ浅野内匠頭長矩は、その日のうちに切腹して果てた。

 

 元禄15年(1702)正月、三平は主君の月命日を自身の最期の日と定め、1月13日、近隣の庄屋のもとに嫁いでいた姉・小きんを訪ね、同日付で大石内蔵助良雄に宛て遺書を認めた。

 

 為年始之御祝意先達奉愚礼候 然旧冬以来吉田忠左衛門 近松勘六申合当春江戸可罷下奉存候処 愚父七郎左衛門儀不知其主意強制止候 最本意申聞候は却而喜悦可仕とは存候得共 御手前様差上置候神文之手前御座候得は 仮令父子之間にても此儀口外難仕君父忠孝之間に於聊当惑仕依之自殺仕儀 最吉田近松江以別紙不申候間従御手前様可然奉憑候  

恐惶謹言

正月十三日  萱野三平

大石内蔵助様

 

翌1月14日、父・萱野重利に宛て

 

 去年亡主伝奏御馳走之儀付 吉良上野介殿江如何様之御鬱憤被成御座候哉 於殿中被及刃傷候処 御同席之御方々御押留被成不被遂御本意御生害之節嘸御残念可被成御座段我等式迄難忍仕合奉存候故 去年赤穂被召上候節より同志申合候儀有之 時節を考此度罷下候に付 御暇乞をも不仕罷下候而は後日之思召も恐多不孝之沙汰可申処 心外之儀存御暇乞に参上仕候得は達而御留被成段御尤之思召入難有奉存候得共 神文に而申合儀兎角難申上御心逆申事候 思食随候得忠義忘申似たり忠義立可申存候得思召違不孝之罪猶可被重候依之自殺仕候 一通残置候間於山科大石内蔵助早々御届可被下候 且又此度同道申合候衆尋来可申候 右之衆中申置度候得共事急候間無其儀候 宜御伝可被下候 以上

正月十四日  萱野三平

七郎左衛門様

 

 三平は俳人としても知られ(俳号・涓泉)、四十七士の大高源吾(子葉)・神崎与五郎(竹平)とともに水間沾徳門下で、当時の俳諧人にもその技量を広く認められていた。その辞世の句は、、、

 

  晴れゆくや 日頃心の 花曇り

 

 三平の大石宛遺書は1月16日、父・重利の自刃当日の大石宛書簡とともに山科の大石のもとに届く。

 

 愚子三平儀 今十四日自殺令候 其趣意如何と言事不存 次に貴辺へ一通也と遺書を残し置之間悲歎を押御届申上候 以上

正月十四日  萱野七郎左衛門

大石内蔵助様

 

 同年12月14日(1703年1月30日)大石は吉良邸討入を決行する。この日も主君の月命日であった。

 

 

以下、現地案内板より

 

大阪府指定史跡 萱野三平旧邸

 

萱野三平重實は、江戸時代の延宝3年(1675)、父萱野重利、母小満の3男として当地に生まれました。三平重實は13才の時に、父の主君である美濃の旗本大嶋出羽守の推挙により、播州赤穂藩5万石 藩主 浅野内匠頭長矩の中小姓として仕えるようになりました。

元禄14年(1701)3月14日、江戸城松之廊下で幕府勅使供応役の浅野内匠頭長矩が高家肝煎の吉良上野介義央に対し刃傷に及んだ赤穂事件の後、三平重實は大石内蔵助良雄を中心とする敵討ちの同志に加わっていましたが、三平重實を推挙した大嶋氏に迷惑がかかることを心配した父の反対と主君への恩義との板ばさみに苦しみ悩み、遂に主君の月命日を自分の最期の日と決め、元禄15年(1702)1月14日、当地において自刃し28才の生涯を閉じました。

「涓泉」の名は三平重實の俳号で、多くの優れた句を残した文化人でもありました。

萱野三平重實の生誕、終焉の地である旧邸は、地元自治会の努力により保存継承され、昭和48年(1973)に大阪府指定史跡指定を受け、平成4年(1992)箕面市に寄贈されました。

 

箕面市教育委員会

 

 

萱野三平墓碑(箕面市指定有形文化財)

 

 萱野三平重実は美濃の旗本大嶋氏の所領であった椋橋庄(現豊中市大島町付近)の代官、萱野重利の3男として、延宝3年(1675)当地で誕生しました。12才で、父の主君、大嶋出羽守の推挙により播州赤穂の浅野家に仕官した三平は、元禄14年(1701)3月14日、主君浅野内匠頭(長矩)が江戸城松の廊下で、吉良上野介(義央)に刃傷に及ぶという、いわゆる「赤穂事件」が起きた時、早駕籠の使者となり、事件の第一報を赤穂へもたらしました。主君の無念を果たすため、大石内蔵助(良雄)を中心とする仇討ちの義盟に加わったものの、赤穂城開城後、父重利から大嶋家へ仕官するよう強く勧められ、同志との約束・旧主への忠義と父への孝行との間で板ばさみになり、討ち入りに加わることなく、元禄15年(1702)1月14日、自宅長屋門の一室で自刃(切腹)し、27歳の生涯を終えました。

 箕面市萱野の共同墓地内にあるこの墓は、三平の没後39年が経過した元文5年(1740)伊丹の酒造家で、俳諧・連歌・茶道などに名を残す北河原好昌に嫁いだ三平の姉「おとら」の3男、北河原長好と三平の兄萱野重通の孫重好が建立しました。

 正面の「萱野三平墓」の文字は書家として著名な黄檗宗の高僧百拙元養、側面の撰文は儒者として有名な「堀南湖」によるもので、赤穂義士萱野三平の墓であるとともに、江戸時代の著名な文化人が建立に係わった歴史的価値の高いものです。

 

箕面市教育委員会