播磨 中津構居(権現神社) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①権現神社山門②権現神社拝殿③権現神社本殿④中津石仏と土塁

 

訪問日:2024年1月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 梶原冬庵(道庵)の祖とされる鎌倉権五郎景正は、後三年の役(1083-87)で右目を射られながら奮闘した勇将として知られ、「歌舞伎十八番之内 暫」(しばらく)で、主役の名前としても用いられている。

 

 その3世孫が梶原景時とされ(景正の叔父の系統とも)、今はそちらの方が馴染みがある人も多いだろう。景時は播磨国守護職を務めたが、正治2年(1200)梶原景時の変で梶原宗家は滅びた。

 

 しかし景時の4男・梶原景連は咎なく播磨御厨庄を領したといい、三木合戦(1578−80)当時、後裔の一人・梶原景行(景秀)が高砂城主として別所氏に仕えていた。冬庵はその庶流と考えられる。

 

 冬庵の名は『別所記』などの軍記物に登場し、三木城から援軍として神吉城に入った。6尺余(180cm)以上の大男として描かれているが、一次資料でもその存在は確認されている。

 

 『別所記』から派生したと思われる『播州太平記』では、梶原十右衛門入道道庵として、その姿は弁慶に例えられ、獅子奮迅の働きで、福島正則や加藤清正らと一騎討ちを演じている。

 

 ただし神吉城攻めの大将は織田信忠で、彼らの主である羽柴秀吉の参戦は確認されていない。道庵は城主・神吉頼定らの討死を知り、最早これまでと太刀を咥えて猛火の中へ飛び込んでいったという。

 

 

以下、現地案内板より

 

権現神社(中津構居跡)

 戦国時代の構居(豪族の館を防御施設にしていたもの)跡で、構守梶原十右衛門(冬庵)は、秀吉の神吉城(東神吉神吉)攻めの時に討死した。敷地内には、天和2年(1682)の銘が記された花崗岩製の灯篭がある。

中津町内会 氷丘まちづくり実行委員会

 

 

中津構居跡

 

播磨鑑(宝暦12年)に

 梶原冬庵古城跡 大野郷在中津村 今農家ノ居屋敷ト成

 鎌倉権五郎景政ノ末葉 天正年中秀吉為ニ神吉ノ城ニ於テ討死ス

とあり、播州古城記には

 中津城 中津村 鎌倉権五郎景政の末葉梶原十右衛門の居城他 天正中神吉式部貞範に従ひて討死す

と記録されている。

 

平成3年3月 加古川市教育委員会

 

 

中津 石仏

 この石仏は、石棺材に彫られた石仏と思われる。風化が激しく像容も定かでないが、阿弥陀如来を刻んだものであろう。

 河の増水により、風化が一層進んだものと思われる。造られた年代も室町時代までと考えられる。

 なお、横の頭が、三角帽子で下に二段の切り込みがある板碑も、相当古いものと思われ、おそらく室町中期以前の造立と考えられる。

 

平成2年6月 加古川市教育委員会