播磨 稲根神社 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①拝殿②本殿③能舞台④楼門⑤献灯⑥遠望

 

訪問日:2024年1月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 日本では、稲作文化の発達とともに、水田の灌漑のため弥生時代にはすでにため池が存在していたという。古代では古墳の築造とともに池溝の開削など、大規模な土木事業が行われた。

 

 兵庫県は全国で最もため池が多く(24,400ヶ所・2020年)、現存する県下で最も古い天満大池(稲美町)の原形である岡大池の築造は飛鳥時代後期の白鳳3年(675)と推測されている。

 

 稲根神社本殿の背後には二塚古墳があり、こうした池溝の開削に指導的役割を果たした人物が眠っているのかもしれない。神社は曇川と五ヶ井用水・新井用水と水路で四方を囲まれている。

 

 伝説によると日向明神(日岡神社の神)と聖徳太子によって加古川に五ヶ井堰が築かれ、五ヶ井用水が通されたというが、実際は鎌倉時代末期に文観坊弘真の修築事業が伝説化したという説がある。

 

 文観は弘安元年(1278)播磨国北条郷大野の豪族・大野重真の孫で、正応3年(1290)真言律宗の仏門に入り、永仁3年(1295)からは奈良西大寺の信空に学び、その側近となった。

 

 嘉元4年(1306)までに播磨に戻り(常楽寺)、真言律宗の指導者として五ヶ井用水の修築事業など、曇川に沿って開墾を進めた。この事業は後継者により14世紀末に天満大池の整備で完遂された。

 

 播磨における名声とともに、正和5年(1316)真言宗醍醐寺に移る。元亨3年(1323)後醍醐天皇に勅命で招かれ、その後の建武政権・南朝の仏教政策の腹心として、後醍醐・後村上両天皇の護持僧を務めた。

 

 絵師としても『絹本著色後醍醐天皇御像』などが知られ、仏教美術プロデューサーでもあった。また多くの仏教書を著し、中世密教の最高到達点ともいわれる「三尊合行法」の理論を完成させた。

 

 正平12年(延文2・1357)80歳で金剛寺大門往生院にて入滅、南朝の衰退とともに文観は「妖僧」の汚名を着せられた。その実像が解明され、名誉が回復されたのは21世紀に入ってからという。

 

 

以下、現地案内板より

 

稲根神社略記

一、由緒

太古人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂神がこれを憐れみ給い、高天原より稲穂を下されました。このうち3粒が、神納郷高田別所の谷に落下して実り、やがて世の中に稲穂が満ち溢れるようになりました。この御神恩に感謝して皇徳天皇の御代の白雉年間(約1300年前)に此処を社地と定めて創始されました。

以来稲根大明神と称え天下撫育の宗社と崇められてきました。

二、御祭神

 うかのみたまのかみ

主神は倉稲魂神をお祀りしています。食物の守護神であると共に人々の命の源、健康をお守りされる神様であります。

相殿には猿田彦命、菅原道眞公が配祀されています。家内安全、交通安全と芸事上達、学業成就を守護される神様です。

三、祭日

例祭 10月9、10日 獅子舞、芸能奉納、その他の神事

夏祭 7月14、15日 湯立神事

新年祭、祈年祭、新嘗祭、祖霊祭、月次祭等

四、境内・遺跡

境内地約6000㎡、四社の境内社には本社に関係のある神様がお祀りされています。社殿後方の宮山には二基の古墳があり文化財遺跡に指定されています。又この宮山から発掘された経筒は、貴重な遺物として歴史学会にもよく知られ、社宝として保存されています。