和泉 堺城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①千利休屋敷跡②武野紹鷗屋敷跡③今井屋敷跡④本成寺日親上人墓碑⑤環濠⑥環濠遺跡発掘調査

 

訪問日:2023年12月

 

所在地:堺市堺区

 

 今井宗薫(兼久)は、天文21年(1552)茶人・今井宗久(兼員)の嫡子として生まれた。ということはおそらく母は宗久の師である武野紹鷗(1502-55)の娘であろう。

 

 父は岳父・紹鷗の家財茶器などを譲り受け、その晩年の子・武野宗瓦(1550-1614)を養育した。後に宗瓦とその遺産を巡り争うが、織田信長の裁定で父が勝利している。

 

 宗薫も父とともに信長、その後豊臣秀吉に茶頭や御伽衆として仕えるが、文禄2年(1593)に父が死去すると、秀吉によりその遺領は縁戚の今井兵部卿(河瀬富綱)に与えられた。

 

 宗薫は別に摂津国住吉郡に1000石を与えられ、秀吉の死後は徳川家康に近づき、家康の子・松平忠輝と伊達政宗の子・五郎八姫の婚約成立に奔走する。

 

 しかしこれが秀吉の遺命である大名の私婚禁止令に違反するとして非難され、宗薫は高野山に蟄居する。慶長5年(1600)関が原の戦いで東軍に与して武器を供給し、300石を加増される。

 

 河内・和泉の代官として堺に屋敷を構えるが、慶長19年(1614)大坂の陣を前に徳川方への内通を疑われ、長男・彦八郎(宗呑)とともに大坂城内に監禁される。

 

 織田有楽斎のとりなしで高野山に追放される。慶長20年(1615)の夏の陣では、徳川方に与し、堺は豊臣方の焼討に遭って、宗薫も屋敷、家財を失った。

 

 その後も徳川家に旗本として仕え、寛永4年(1627)66歳で死去、宗呑には先立たれており、次男・兼隆が家督を継いだ。

 

 宗薫は、朱印船貿易のための朱印状も与えられていたが、寛永12年(1635)のいわゆる第三次鎖国令により、朱印船貿易は終末を迎える。

 

 

以下、現地案内板より

 

千利休(1522~1591)

室町時代後期の大永2年(1522) 納屋衆田中与兵衛の長男として堺今市町のこの地で誕生幼名は与四郎のちに宗易・抛筌斎と号す

8代将軍足利義政の同朋衆であった祖父千阿弥は里見義親の血統をひく

はじめ 堺の長老北向道陳について茶を学び 次いで武野紹鷗につき織田信長の時には今井宗久 津田宗及と共に茶堂として仕え 三宗匠と称される 特に豊臣秀吉の時代になると天下一の茶人として賞賛され 珠光に始まった草庵茶をわび茶として大成させる

天正13年(1585)には秀吉の禁中茶会に際して正親町天皇から利休居士号を勅賜されたとされる

しかし 大徳寺上門に寄進した金毛閣に木像を掲げたことや朝鮮出兵に関して秀吉の怒りにふれ天正19年2月28日 自刃して果てる

享年70歳であった

 

 

武野紹鷗屋敷跡

 武野紹鷗は、文亀2年(1502)大和(奈良)で生まれ、のち堺のこの辺りに移りました。皮屋の号を持つ豪商の一人です。若い頃、京で三条西実隆に和歌を、村田珠光の流れを継ぐ茶人に茶の湯を学び、堺に帰って津田宗及、今井宗久、千利休らに朱光のわび茶を伝えました。宗久を娘婿にして、財産・茶器を譲ったといわれています。茶人北向道陳らと交友し、南宗寺の開祖大林宗套の禅を学びました。

 南宗寺には紹鴎の供養塔、臨江寺には紹鷗のお墓があります。

 

 

今井屋敷跡

 現在地にあった今井宗薫の屋敷は、織田有楽斎から譲り受けたもので、元禄2年(1689)の尺度で、東西29間(約55m)・南北32間(約61m)と考えられています。

 今井宗薫は、堺の豪商で茶人の今井宗久の長男として生まれ、茶の湯を父に学び、豊臣秀吉の近侍となりました。秀吉の死後は、徳川家康に重用され、関ヶ原の戦いで功をあげて、河内・和泉二国の代官となりました。慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際して、関東に通じる嫌疑を受け、家財を没収され、大坂城に監禁されました。のち、逃れて城中の様子を家康に伝え、徳川軍に従いました。

 

 

本成寺

 当寺は、日蓮宗で、本尊は十界曼荼羅です。

 文安元年(1444)、久遠成院日親が播磨東条の法難を逃れ、兵庫より船で堺の浜に上陸し、石を高座にして伝道中、付近の桔梗屋重兵衛がその教えを受け、日親を開山に迎え建立されました。

 日親は、室町時代の日蓮宗の僧で、宗祖日蓮の「立正安国論」にならって「立正治国論」を著し、将軍足利義教に諫言を試みましたが、厳しい数々の迫害に遭い、ついには真っ赤に焼けた鉄鍋を頭にかぶせられるという大迫害に遭いました。しかし、信力強固な日親は、これでも屈服せず、やがて、洛中洛外の町衆たちに「なべかむり上人」と畏敬されたのです。

 当寺に安置する日親上人坐像は、重兵衛の屋敷にあった銀杏の霊木を使って、日親自ら彫刻し、更に肉牙を胎内に納め、開眼したもので、生身の日親を拝するようで、「日本一体肉牙の御尊像」としてあがめられています。室町時代(15世紀)のすぐれた肖像彫刻として貴重です。

 

 

堺環濠都市遺跡(SKT960地点<堺区少林寺町東3丁地内>)

 堺環濠都市は、戦国時代から江戸時代にかけて栄えた貿易都市です。

 この地点(SKT960)の調査では環濠都市「堺」を象徴する4条の環濠が発掘されました。なかでも環濠1は幅17m、深さ4.5mの二段に掘られた巨大なもので、これまで確認されている環濠の中で最大級のものです。環濠の北側には掘った土を盛り上げて土塁を造り、環濠都市「堺」の防御性を高めていました。「黄金の日々」を謳歌した環濠都市「堺」の繁栄を如実に示す環濠といえましょう。これほどの大規模な環濠も豊臣秀吉の命令で埋め戻されますが、これらの4条の環濠は、今日に続く環濠都市「堺」の出発点と言える記念碑なのです。