越前 鞠山陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①鞠山神社②鞠山神社③陣屋跡④光照寺⑤金ヶ崎城を望む⑥敦賀新港

 

訪問日:2023年12月

 

所在地:福井県敦賀市

 

 酒井忠毗は、文化12年(1815)敦賀藩6代藩主・酒井忠藎の4男として生まれた。母は越前丸岡藩主・有馬孝純の孫娘、正室は出羽松山藩主・酒井忠方の娘。

 

 天保4年(1833)父の死去により家督を継ぎ、天保14年(1843)には若年寄に任ぜられる。在任中の安政6年(1859)ロシア東シベリア総督・ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが軍艦7隻を率いて江戸品川に来航する。

 

 虎ノ門天徳寺における会談で、サハリン全土はロシア領と主張するムラヴィヨフに対し、幕府側は忠毗と外国事務掛・遠藤胤統(近江三上藩主)を通してこれを退けた。

 

 一方で同年には藩の財政難により、所領を本家・若狭小浜藩に返還して廃藩(小浜藩に統合)を願い出るも、領民の猛反対により中止されたという。

 

 万延元年12月(1861年1月)駐日アメリカ領事館通訳ヘンリー・ヒュースケンが攘夷派薩摩藩士らに殺害されると、英国公使・オールコックや仏国公使ベルクールが抗議として横浜に退去した。

 

 オールコックはその江戸復帰の交渉相手として忠毗を指名した。文久元年9月(1861年10月)1080石を加増され、文久2年(1862)には城主格となり、江戸定府から参勤交代の義務が生じ、さらに藩財政は苦しくなった。

 

 同年に発生した生麦事件の賠償についても文久3年(1863)英国代理公使・ニールやベルクールらとの交渉にのぞみ、英国の薩摩国遠征の中止を依頼したが、薩英戦争となった。

 

 同年に長州藩が起こした下関戦争の賠償についても元治元年(1864)英・仏・米・蘭と交渉して、賠償金支払いに合意した。慶応元年(1865)3度目の就任であった若年寄を辞す。

 

 慶応3年(1867)6月、大政奉還を前に20歳の4男・忠経に家督を譲る。慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いを経て、忠経は小浜藩と袂を分かち新政府軍に与した。

 

 同年(明治元年)藩士5人が家老の野口俊則を殺害した鞠山騒動が起こっている。明治2年(1869)版籍奉還、明治3年(1870)小浜藩と合併し、忠経が小浜藩知事となる。

 

 明治4年(1871)廃藩置県により小浜県となり、同年さらに鯖江県を統合して敦賀県となった。明治6年(1873)には足羽県を編入して敦賀県は一度はほぼ現在の福井県の県域となった。

 

 これらを見届けた忠毗は、明治9年(1876)62歳で死去した。ちなみに同年9月、若狭国一円と敦賀郡が滋賀県に合併され、さらに明治14年(1881)にはこれらが福井県に編入されて現在に至る。

 

 

以下、現地案内板より

 

鞠山神社

 

 天和2年(1682)、小浜藩2代藩主酒井忠直から、次男忠稠(ただしげ)が1万石を分領され、赤崎浦塩込に陣屋を築き、この地を「鞠山」と改めて、「鞠山藩」を開いた。小藩ながら歴代藩主には寺社奉行・若年寄などの要職に就く者もいた。明治2年(1869)、人材育成のため藩校「日新館」を設立。その藩士の多くが新時代の先駆者となって、敦賀の教育・文化の発展に貢献した。その功績と理念は、今も脈々と引き継がれている。

 明治3年(1870)、鞠山藩は宗藩小浜藩と合併。「・・・君臣ニシテ其ノ情父子ノ如ク、領民ヲ愛撫シ、廣ク徳政ヲ布カレ候」の鞠山藩は、領民に惜しまれつつ廃藩となった。

 明治38年(1905)、鞠山藩の消滅を憂う地区住民と元藩士らが、初代藩主酒井忠稠の二百回忌に合わせて、既存の鞠山藩の稲荷神社に、藩祖忠稠を合祀し、社名を「鞠山神社」と改めて、この鞠山藩陣屋跡地に創建した。

 神殿には、歴代藩主の略歴巻子本、斬馬剣と由緒書、陣屋絵図面、鞠山の鳥瞰図などが奉納されている。陣屋を中心にして、稲荷神社・砲台・民家・寺院・地蔵堂などが描かれた鳥瞰図は、鞠山藩と共に歩んできた鞠山区の貴重な歴史資料になっている。

 由緒書には、慶応4年(1868)、若年の8代藩主忠經(ただつぐ)を蔑ろにし、藩政を思いのままにと企てる家老が、主家の存亡を危惧した青年藩士5名に斬殺された事件の経緯が記されている。宗藩に自首し、強く自裁を望んだ5名は、藩士としての一分を推重され、明治5年(1872)4月、松原村来迎寺門外にて切腹した。同寺には敦賀町民の募金によって、墓碑が建立されている。

 当神社では、毎年7月12日、鞠山藩の歴史を偲びながら、祭礼が執り行われています。そして、各家々の鎮守と五穀豊穣・商売繁盛店学業成就の祈願をしています。

 

謹白