播磨 如意山 金剛寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂②薬師堂③五重塔④境内⑤山門⑥大村由巳像

 

訪問日:2023年6月

 

所在地:兵庫県三木市

 

 大村由巳は三木合戦(1578-80)の頃にはすでに羽柴秀吉の祐筆となり、金剛寺が兵火で焼失すると、住職の良盛法印は由巳を通じて再興を願い出て、天正8年(1580)草堂を建てた。

 

 金剛寺の麓には討死した織田方の谷大膳亮衛好やその一族の墓がある。天正10年(1582)由巳は大坂天満宮の別当となり、その後も天下統一に邁進する秀吉に近侍した。

 

 由巳による秀吉の軍記『天正記』は、秀吉がその偉業を後世に伝えるための新作能として作成を命じた軍記物語で、以下の12巻からなる。

 

『播磨別所記』天正13年(1585)由巳自身が貝塚で蟄居中の顕如・教如父子の前で語ったという

『惟任退治記』天正10年(1582)成立

『柴田退治記』天正11年(1583)成立

『紀州御発向記』天正13年(1585)紀州征伐の記録

『関白任官記』天正13年の成立、秀吉の祖父や母の出自などを虚飾したと思われる

『四国御発向並北国御動座記』天正13年、四国征伐、富山の役の記録

『西国征伐記』散逸、天正14年(1586)〜15年(1587)九州征伐の記録か

『聚楽行幸記』天正16年(1588)成立、後陽成天皇聚楽第行幸の記録

『金賦之記』散逸、天正17年(1589)諸大名に金銀を振舞った記録か

『大政所御煩平癒記』散逸、秀吉の母が病気から回復した記録か

『若公御誕生之記』散逸、天正17年、鶴松誕生の記録か

『小田原御陣』天正18年(1590)小田原征伐の記録

 

 それぞれの事績直後に成立しているものが多く、秀吉は政権の宣伝のため由巳を重用した。また、由巳は謡曲・和歌・連歌・俳諧・狂歌などにも才を発揮し、山科言継・里村紹巴・藤原惺窩らとの親交があった。

 

 文禄の役でも秀吉に従って肥前名護屋まで同行したが、帰洛後に体調を崩し、慶長元年(1596)摂津国天満で死去した。61歳とも伝わる。

 

 

以下、現地案内板より

 

大村由巳 頼音房

 

 三木大村の出身、金剛寺の僧となり「頼音房」と称す。京都に相国寺で禅学・漢詩を、諸家を尋ねて和歌・連歌を学び、これらを巧にしたので当時外典第一の人と称せられた。やがて帰郷して大村の青柳山長楽寺の住持をつとめたが、その後大坂城に出て天満天神の社僧となる。故あって還俗し大村由巳と名のり梅庵・藻虫斎と号した。その文才により秀吉に見出され御伽衆となり、和歌の代作を命じられたりして文芸・政治・軍事などの相談役として活躍した。

 三木城攻略の折りには秀吉に近侍し、殊に落城後の三木の復旧発展のために従前どおりに免租地とすることを進言し、そのため免租・借銭・借米の帳消し・諸役御免等の五カ条からなる条文の高札を立て実行せしめた。

 秀吉の軍記「天正記」をはじめ新作の能・詞章の作者として著名であり、特に落城後10余日で完稿した「播州征伐の事」は2年近い三木合戦の様相を簡潔に活写して事件直後に述作しているので、他に見ることのできない特色があり価値を高からしめている。

 晩年秀吉の朝鮮出陣に随従し、彼地で求めた仏像画を金剛寺に寄付し寺の再建に尽力している。その寄付状と仏画は寺宝として伝えられている。

 出雲大社の巫女であった阿国は若い頃由巳に芸能の助言を受け当時第一の舞の手となり京・大坂をはじめ全国を遊芸し、かぶきの祖となったと伝えられる。

 文禄5年(1596)天満天神で妻子を残し永眠。行年60才。

 没後417年 近世三木発展の恩人でありながら忘れられていた由巳が「三木演劇セミナー」の上演により甦り、市民の前にあらわれたのを記念して その遺徳を讃え、石像を建てて郷土の偉人を顕彰します。

 

平成24年5月7日 大村町民一同