常陸 瓜連城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①櫓台・源太郎稲荷社②土塁③主郭切岸④堀切⑤空堀⑥常福寺

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県那珂市

 

 楠木正家(左近蔵人)は楠木正成の弟ともいわれるが確証はない。延元元年(建武3・1336)後醍醐天皇方の正成の代官として常陸に赴いて瓜連城に入り、足利方の常陸守護・佐竹貞義と対峙する。

 

 瓜連城は久慈川とその支流の山田川を挟んで佐竹氏の本拠・太田城と直線距離で10kmほどに位置する。北条時宗の甥・北条貞国の別名が瓜連備前入道であり、北条一門の所領だったと思われる。

 

 同年2月6日の戦いで貞義の子・佐竹義冬を討ち取る。2月25日には佐竹幸乙丸なる人物が正家に寝返り、その後那珂・川野辺氏一族(藤原秀郷裔)、大掾氏一族なども正家に与した。

 

 西国でも2月11日の豊島河原の戦いで、正成や新田義貞、陸奥から駆けつけた北畠顕家が足利尊氏を破り、尊氏は九州に敗走するなど、この頃の戦況は後醍醐天皇方が優勢であった。

 

 しかし尊氏は九州で再起して東上、5月25日の湊川の戦いで正成が敗死すると常陸の戦況も一転し、足利方の相馬胤頼や伊賀盛光らが佐竹氏に加勢し、正家は苦戦に陥る。

 

 同年12月11日、瓜連城は陥落する。正家は陸奥の顕家のもとに逃れ、延元2年(建武4・1337)顕家とともに上洛し、正平3(貞和4・1348)四條畷の戦いで楠木正行とともに討死したという。

 

 四條畷神社では主祭神の正行配下の二十四将の一人・楠左近将監正家として子息とともに配祀されている。しかし、瓜連城落城後の正家の動向は不明とされている。

 

 また、秋田県由利本荘市には「正四位上副将軍楠出羽守橘朝臣正家之墓」が立っており、正成の曾孫・楠木正家が由利本荘内越に移り、打越氏を称したという伝説が残る。

 

 なお、常福寺を祈願所とした佐竹義篤(1311-62)は貞義の次男(嫡男・義冬らの兄)で、父の跡を継ぎ佐竹氏9代当主となり、在京して室町幕府侍所頭人(1354-57)も務めた。

 

 

以下、現地案内板より

 

県指定史跡 瓜連城跡

 

指定年月日 昭和9年12月18日

指定地 那珂市大字瓜連字入門前1221〜1222番地

管理者 常福寺

 

 延元元年(1336年)正月、南北朝争乱のさなかに、南朝の忠臣楠木正成の一族楠木正家がこの地によって約1年間、北朝方の佐竹氏と戦った。正家は同年12月、佐竹勢に包囲され、那賀城主那賀五郎通辰の援護のもとに応戦したが、佐竹義篤に破れ、廃城となった。

 現在、常福寺の境内になっている所が、瓜連城の本丸跡とされている。土塁と堀は比較的よく保存され、北東面は急な崖となっておりその下の水田面との標高差は約20mである。土塁は二段に構築され所々に一種の小さな出丸(武者溜)のような平坦なところがある。

 また、区域内には数多く土塁の残存遺構がみられ、これらを外郭と考えると、東西南北それぞれ700mほどになり、大規模な城郭であったことが想像される。

 

常福寺

 

宗派 浄土宗常陸総本山

国指定重要文化財  紙本着色拾遺古徳伝 絹本着色法然上人画像

 

 延元年間、了実上人が春日川のほとり(瓜連白蓮塚付近)に創建したと伝えられ佐竹義篤は、寺地、仏供料を寄進して祈願所とした。元中5年(1388年)類焼にあい、その後間もなく、ここ瓜連城跡に再建された。宝徳4年(1452年)後花園天皇の勅願所となり、慶長7年(1602年)徳川家康から寺領100石の御朱印賜わり、関東十八檀林の一つに列せられた。

 旧暦9月26日には、常福寺2世了誉上人の遺徳をしのび、二十六夜尊(六夜さん)の大法要が毎年行われている。

 

那珂市教育委員会