播磨 神吉八幡神社 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 神吉氏は赤松氏一族の播磨明石郡神出城主・赤松範次が文和年間(1352-56)に印南郡神吉庄を領して神吉城を築き、その子・元頼から神吉氏を称したという。また源頼政の裔とするものもある。

 

 天正6年(1578)羽柴秀吉の播磨攻めにより神吉城は落城し、最後の城主・神吉頼定は討死して神吉氏嫡流は滅亡した。しかし、現在も加古川には神吉姓の方が多数存在し、一族はその後も栄えたようだ。

 

 神吉八幡神社の石垣を築いたという神吉頼経は頼定の父と伝わる。天文の人物であれば妥当と思われるが、歴代城主を範次ー元頼ー重光ー頼経ー信烈(頼定の兄?)ー頼定とするこの系図はやや不自然さを感じる。

 

 嘉吉の変で宗家の赤松満祐とともに戦ったという神吉貞光・神吉光定をともに元頼の子とするなど全く異なる系図もあり、また別系統の赤松系神吉氏も伝わるなど、神吉氏の系図には不明な点も多い。

 

 神吉一族は先祖の供養に熱心だったようで、神吉城跡の常楽寺には落城から約200年後の安永4年(1775)に子孫たちが建立したという頼定の墓がある。

 

 神吉八幡神社の頼経の石碑も同じような想いで刻まれたと思われる。可能ならばこの石碑についての専門家の文化財としての評価を聞いてみたいと思う。

 

 

以下、現地案内板より

 

神吉八幡神社

 祭神 誉田別命

 

 称光天皇の応永3年(1397)の創立にして、神吉の荘天下原村圭光山鞍馬寺の境内に鎮座せしも、のち神吉の庄大国村に遷座し、妙見大明神と称す。

次いで、嘉吉の兵火に罹り、社殿ことごとく焼失せしかば、聖武天皇の行宮と伝うる神吉庄宮前村北の山なる地に社殿を建て妙見山宝林寺中之坊妙見大明神と云い、大国村旧地を御旅所とす。

寛永9年(1633)雷震い、社殿其他の営造物ことごとく烏有に帰し、天和3年(1684)5月24日之を再建せり、即ち現今の社殿是なり。

当社は古今より身の守り神として、厄除け交通安全など崇敬者が多い。

 

 

神吉城主 中務少輔 神吉頼経の石碑

 

 此石垣天文年中神吉城主

 中務少輔神吉頼経公之所築

 也恐後世失願主之名茲記之

 

此の石垣は、天文年中に神吉城主 中務少輔 神吉頼経公の所築で、後世に願主の名が失われることを恐れ、ここに銘文を記す。

 

・天文年中(1532年~1555年)

・神吉城主 第4代 中務少輔 神吉頼経 天文12年(1543)~元亀元年(1570)

・現今の石垣は神吉頼経の所築した石垣を平成28年9月に改修

 

平成29年4月吉日 神吉八幡神社