播磨 淡河城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①模擬櫓②本丸土塁③本丸土塁から堀④本丸堀⑤淡河氏墓所⑥東から見る

 

訪問日:2022年12月

 

所在地:神戸市北区

 

 承久3年(1221)の結果、播磨国美嚢郡淡河庄は北条政子・義時の弟で初代連署・北条時房(1175-1240)の所領となり、翌年に地頭代として一族の右近将監成正が派遣されたという。

 

 時房の孫で時盛(1197-1277)の子・時治が淡河に入り城を築いたという。正応2年(1289)一遍上人が摂津兵庫津で死去する直前に駆け付けて最後の念仏札を授かった「淡河殿の女房」は時治室のことという。

 

 この時治が淡河氏を称したと考えられている。『太平記』では淡河時治は元弘3年(1333)元弘の乱の際に越前で敗死したとされるが、これは年代的に疑わしいと言わざるを得ない。

 

 時治の姉妹には6代執権・赤橋長時(1230-64)室や、足利尊氏の曽祖父・足利頼氏(?-1262)室がおり、時治が鎌倉幕府滅亡まで生存していたとは思えず、その子孫であろうか。

 

 淡河氏はその後も淡河城にあり、南北朝時代には南朝に与し、延元4年(暦応2・1339)赤松円心と石峯寺・三津田で戦い敗れて淡河城は落城した。

 

 明徳3年(1392)淡河範清は赤松氏から季範を養子として迎えて赤松氏に属した。季範の子・則政の時代の嘉吉元年(1441)嘉吉の乱が発生し、山名氏に降った。

 

 その後の三木城主・別所氏の台頭により淡河氏はこれに従い、淡河元範の天文23年(1554)三好長慶の支援を得た三津田城主・有馬重則により淡河城は落城したが、永禄元年(1558)には復帰した。

 

 天正6年(1578)別所長治が織田信長に叛き、三木城は羽柴秀吉の攻撃を受ける。淡河定範は淡河城に籠って善戦したが、その後自焼して三木城に入り討死したとも生き延びたともいう。

 

 なんとなくだが、南北朝以降の淡河氏は北条氏一族の淡河時治とは無関係のような気がする。時治の子孫は別の所領の越前に拠点を移し、地頭代の右近将監成正の子孫が淡河氏を名乗ったのかもしれない。