改)摂津 三宅城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①城跡碑

イメージ 2②城跡碑

訪問日:2010年12月

所在地:大阪府茨木市

 

三好長慶⑦

 三宅城主・三宅国村は享禄4年(1531)大物崩れによる細川高国の敗死後、その弟の細川晴国を支援していた。富田教行寺の下間頼広の娘を室とし、天文3年(1534)には本願寺門徒となる。

 

 天文4年(1535)には、その2年前の千熊丸(三好長慶)の仲介による和睦を破棄して再戦に及んだ本願寺と、これを法華一揆らの力を借りて打ち破った細川晴元との仲介をしている。

 

 天文5年(1536)晴国を見限った国村は晴元へ内応して晴国を誘い出し、天王寺で自害に追い込み、これを手土産に晴元に帰参する。

 

 天文10年(1541)晴元が長慶らに縁戚関係にあった塩川氏討伐を命じると、伊丹親興とともに将軍・足利義晴にその不当性を訴え、木沢長政に救援を依頼し、長慶らを退却させた。

 

 しかしその後、木沢が幕府対策に失敗したため、親興とともに晴元に帰参。孤立した木沢は天文11年(1542)長慶らとの太平寺の戦いに敗れて討死した。

 

 天文15年(1546)高国の養子・細川氏綱が台頭してくると、国村は再び晴元を裏切る。初めは優勢だった氏綱方だったが、四国勢の来援を得た晴元方が巻き返す。


 天文16年(1547)2月20日、原田城を攻略した長慶は2月25日三宅城を包囲し、外郭を落とされた国村は3月22日に降伏して城を明け渡した。

 

 その後、国村は長慶が天文17年(1548)晴元に叛くとこれに与して三宅城を回復、その後も晴元の側近・香西元成により二度にわたり落城するが、長慶の支援もあり奪回していた。

 

 しかし、永禄5年(1562)近江の六角義賢や河内の畠山高政が長慶に対し挙兵するとこれに与したが、結果的に敗れた国村は三宅城を捨てて逃亡または自害したという。

 

 残った三宅一族は後に原田氏と同様に中川清秀の家臣となり、中川氏の播磨三木、豊後岡への転封に伴って移り、そこで明治維新を迎えている。



以下、現地案内板より

三宅城跡

 三宅城は、丑寅二丁目・蔵垣内三丁目におよぶ小字「城之内」のあたりで、永正一年(1504)に三宅出羽守國政が築き、永正から大永・享禄・天文・弘治を経て、永禄五年(1562)までの五八年間続いたとされています。
 三宅氏の系図をみると、右京守政明・伊賀守清明・出羽守國政・美濃守國広・出羽守國村の名前があげられています。
 その頃の城の範囲は、ほぼ東西596メートル・南北540メートルと推定されており、このなかのやや高まった場所に本丸があったといわれ、かなり立派なものだったと思われますが、くわしくは、わかっていません。
 しかし小字名に「堀田」・「蓮池」・「大名寺池」と呼ばれる地名などがあり、この城のことを知る手掛かりになっています。

茨木市教育委員会