①龍尾寺本堂
②境内
③境内石段
④飯盛山方向を望む
⑤河内平野の眺望
⑥参道入口
訪問日:2022年5月
所在地:大阪府四条畷市
飯盛山の北に位置するこの地の砦としての事蹟は全くわからない。正平3年(貞和4・1348)の四條畷の戦いで高師直率いる幕府軍の一部が飯盛山を攻めるために着陣した可能性はあろう。
飯盛山には南朝方の恩地氏が立て篭っていたようだ。師直は飯盛山の南西の野崎(大東市)に本陣を構えた。飯盛山に像があるが、楠木正行の本陣は往生院(東大阪市)であった。
飯盛山は早々に師直の手に落ちた。1月5日、出陣した正行は正面から師直の本陣を衝き、一時は優勢となり、師直は北に向けて後退したようだ。
追撃した正行だったが、恐らく飯盛山から下りてきた別働隊に挟撃されて力尽き、四條縄手(太平記、正しくは讃良郡北四条)で弟・楠木正時ら一族とともに自害した。
正平2年(貞和3・1347)8月の初陣から半年足らず、京都(北朝)の人々を恐怖に陥れた正行らの首は京都六条河原に晒された。
1月28日、高師泰により南朝の吉野行宮が陥落するが、正行らの弟・楠木正儀が2月8日の戦いで一矢を報い、2月12日に師直・師泰兄弟は京都へ向け撤退した。
500年以上の時を経て明治維新の尊王思想の模範とされた正行は明治9年(1876)従三位を追贈(のち従二位)され、「小楠公」と崇められた。
明治23年(1890)讃良郡甲可村に正行を主祭神とする四條畷神社が創建され、明治28年(1895)には浪速鉄道が四条畷駅(現JR)を開業し、周辺は大いに賑わった。
昭和7年(1932)甲可村は四條畷村と改称し、昭和22年(1947)の町制施行、昭和45年(1970)の市制施行においてもこの名が踏襲された。
以下、現地案内板より
龍尾寺
千年を遡る当市内の寺院として讃良寺、正法寺、龍尾寺がある。
岡山讃良寺は消え、清滝正法寺は戦国期に中野現在地へ。龍尾寺も転じ転じて現在地へ、寺称の起りは里民に慈雨をもたらした龍の尾にちなんで、起雲山龍尾寺。眺望、新緑、紅葉に良し。
龍尾寺
権現川沿い、御机神社と相対する懸崖上にたつ龍尾寺は、行基開山と伝えられる古寺院で、龍尾と称するものがあって寺宝とされています。1m余の渦状で、末尾に剣に似たものがあります。寺伝によれば、「天平年間、旱魃あって里民大いに苦しむ。行基これを憐みて山間に立ち、読経す。一天陰鬱して雲起こり、大雨沛然となる。為に里民愁眉を開き、翌日野に出れば、龍尾の落ちて竹藪に懸れるあり、依って行基これを収めて一庵を創建したりと。」とあります。