訪問日:2022年5月
所在地:福島県郡山市
ここでは篠川公方=4男・足利満直、稲村公方=次男・足利満貞としたが、地元ではどうやら満貞が篠川公方として扱われているようだ。次男・4男も逆かもしれない。
足利満直は2代目鎌倉公方・足利氏満の4男として生まれた。兄に3代目・満兼(1378-1409)満貞(稲村公方?-1439)満隆(?-1417)がいる。
明徳3年(1392)父が3代将軍・足利義満と和解し、奥州管領職が廃止され、陸奥・出羽が鎌倉府の管国に加えられる。応永5年(1398)父の死去により兄が公方を継ぐ。
応永6年(1399)兄の命により陸奥国岩瀬郡稲村に下向した満貞と同時期に安積郡篠川に下向し「篠川公方」と呼ばれたとされるが、もっと後のこととする説もある。
応永16年(1409)満兼が32歳で死去、12歳の持氏が4代目鎌倉公方となり、応永18年(1411)に関東管領に就任した(犬懸)上杉氏憲(禅秀)の補佐を受けた。
応永20年(1413)伊達持宗が篠川・稲村両御所を襲撃し籠城するが、満直・満貞ともに討伐に動かず、持氏が二本松畠山氏らに命じて降伏させた。
応永23年(1416)持氏と対立し関東管領を更迭された氏憲が満隆や持氏の弟・足利持仲らとともに持氏を追放し、鎌倉を制圧する(上杉禅秀の乱)。
持氏を支持した4代将軍・足利義持の追討軍に敗れ、応永24年(1417)氏憲らは敗死するが、犬懸上杉家に近い満直は持氏との関係が悪化する。
満直は持氏と対立する幕府の支持を得て鎌倉公方の地位を目指し、持氏はこれに対抗して奥州直接統治を目指した。満貞は持氏を支持して応永31年(1424)鎌倉に戻る。
永享10年(1438)永享の乱が起こり、満直も6代将軍・足利義教の命を受け奥州の兵を率いて出陣した。永享11年(1439)敗れた持氏と満貞は自害した。
永享12年(1440)結城氏朝が持氏の遺児を擁立して挙兵(結城合戦)するとこれに呼応した南奥州国人衆が篠川御所を襲撃、満直は自害した(年齢不詳)。
以下、現地案内板より
史蹟篠川城蹟
此の篠川城は南北朝時代の末期明徳元年(西紀1390年)鎌倉管領足利氏満の弟満秀が下向駐在し続いて応永初年には氏満の第3子満隆も下向応永5年(1398)氏満の死後満隆は鎌倉に帰り代って翌6年第4子満貞陸奥管領として下向永享12年(1440)まで40年間駐留在城した処で篠川御所篠川公方などと称され當時奥羽の最高統治府であり京都将軍と鎌倉管領との間に立って重要な役割を果した史実がある 城郭は南北2粁東西三百米余阿武隈川西岸に沿って構築され現在の笹川字高瀬字東館字篠川はその中心部で字篠川の南端にある現在の笹川総鎮守熊野神社は足利氏の守護神であった 後天文20年(1551)より天正18年(1590)まで須賀川二階堂氏の臣須田佐渡守頼隆が城郭の一部に居城 現在の稲荷神社は須田氏の氏神であったと伝えられている。
撰文 柳沼儀介
笹川満堯詠歌 足利満貞系第19代立
我が身に負う歴史の郷愁たどり来てここ笹川の城跡に佇つ
天性寺殿實山輝光大居士
此々笹川に「御所」が置かれていた。600余年前の室町(足利)幕府時代南陸奥の鎮守として篠川城に御所が置かれ、足利一族の足利満隆・足利満貞等が駐在した記録が残されている。
足利満貞は当初満秀(満守・満季とも)と称し、日光山別当36世大僧正として治山6年還俗して、2代関東管領で兄足利氏満の養子となり、明徳元年(1390)一族の足利満隆と共に篠河(笹川)に下向した。満隆公は篠川殿・安積郡司として駐在した。応永初年に城郭の一隅東館に社殿を造営している。満隆公は応永5年(1398)子息足利満安(若御所と称された)を残し鎌倉に帰る。応永6年満秀は満貞と改名して篠川に下向し、奥州都元師・公方として永享11年(1439)2月の死去まで、南陸奥の鎮将として篠川御所に駐在し多くの功績を残した記録が地元に残されている。(満貞と異なる説もある)
伝承として、満貞公は仁慈徳正にして黎民を育し豊穣を祈願したとされ、応永年代に構築されたと伝えられる笹川の荒地貯水池の南端に鎮座する水神祠境内の2基の碑文にも見ることができる。
応永27年(1420)2月と3月には、臨済宗霊雲山天性寺と真言宗雲對山龍性寺の2ヶ寺を此の地に開基建立した。又熊野大権現社より奉遷し篠川城の守護神としたという。東舘より社を現在の篠川神社の地にうつし奉祀。大巳貴命を祀り共に足利一族を祀り祠堂としたとも伝えられる。
元寿院殿泰岳真公大居士
篠川城に須賀川二階堂信濃守照行の家臣須田佐渡守頼隆が居城したのは、天文20年(1551)より天正17年(1589)までとされる。天性寺の再興を祈願し臨済宗である天性寺を曹洞宗に改宗し、来迎山天性寺と改め、日山芳旭和尚を招き中興再建し現在に至っている。また篠川を笹川の文字に改めたとも伝えられる。東舘稲荷神社は、須田氏が氏神として祀り祈願したという。
平成17年3月吉日設置 足利満貞公供養碑建立委員会
室町幕府ゆかりの笹川地区史跡案内
①曹洞宗来迎山天性寺
郡山市指定文化財
篠川御所の足利満貞公は応永27年(1420)京都の天龍寺(足利尊氏を祀るお寺)の「天」「龍」一字づつ入れて、天性寺と龍性寺の二寺を御所内に開山しました。
龍性寺は明治6年(1873)廃寺。
天性寺は明治43年(1910)汽車からの飛び火にて焼失のため現在地へ移りました。
「笹川のあばれ地蔵」 郡山市指定文化財 平成18年2月21日 指定
笹川のあばれ地蔵は、天性寺を中心として、笹川地区で、毎年11月2日に行われている年中行事です。
またこの行事は、収穫期という季節の変わり目に行われる訪れ人・来訪神の民俗行事の中でも、ヤナギの木で作られた地蔵を大地に打つ(鎮魂)という仏教と習合した型をとっているめずらしい行事です。
確かな起源は不明ですが、嘉永年間(1848~1854)からと記した文書もあり、明治14年(1881)発行の笹川村地誌には、はっきりと記述が見られ地域に根ざした年中行事です。
②笹川高石坊古墓地石造供養塔群(板碑)
郡山市指定文化財
笹川集落の明治以前の古墓地で、ここに中世の鎌倉時代から南北朝時代に建碑された板碑が23基あり、この板碑は平成16年8月郡山市重要有形文化財として指定されています。
「笹川高石坊石造供養塔」 郡山市指定文化財 平成18年8月24日 指定
笹川古来の古墓地ですが、ここに中世の石造供養塔が23基あります。内7基は笹川集落内より近年移設されたもので、鎌倉時代から南北朝時代の仏教文化を知る手がかりとなる資料です。
元弘3年(1333)の「佐々河城の合戦」。観応3年(1352)宇津峯城の合戦の時期に供養塔として建立されたものと言われています。
安積町笹川地区が、本市の中世史において、重要な役割を担っていた地域であることを理解する上でも、貴重な歴史的遺産と言えます。
③熊野神社(旧熊野大権現)
笹川集落鎮守熊野神社は創立の詳細は不明ながらも、応永年間(1399年頃)篠川御所築城の時、御所を守護する神様としました。
元文元年(1736)造替時の棟札があります。
④東館稲荷神社史蹟篠川城跡碑
須賀川二階堂の家臣須田佐渡守頼隆が篠川御所跡に居住したのは天文20年(1551)から約40年間とされています。
この間須田氏が氏神とした神社で境内に柳沼儀助翁撰文の「史蹟篠川城跡碑」が昭和52年(1977)に建立されています。
⑤篠川神社(旧御所大明神)
鎌倉公方足利氏満の子である足利満貞公が笹川村の古鎮守大国の神に誓い、応永27年(1420)3月武運興隆の祈祷として醍醐 仁和寺の僧「實叶」を呼び、鎧兜を納めて御所の神を勧請し御所大明神としました。
平成27年8月1日 笹川のあばれ地蔵保存会 創立10周年記念