摂津 嶋上郡衙/芥川廃寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①郡衙跡②郡衙跡③芥川廃寺跡④素戔嗚尊神社⑤廃寺塔心礎⑥想像図

 

訪問日:2021年1月

 

所在地:大阪府高槻市

 

 紀元前6000年から5000年頃、「縄文海進」と呼ばれる温暖化に伴う120mにも及ぶという海水準上昇により、現在の高槻市付近を北限とする「河内湾」が形成された。

 

 湾の北東岸には淀川が、南岸には大和川が流入し、上町台地から北方に砂州が伸び、弥生後期から古墳時代にかけて湾口がほぼ塞がれ、潟湖「河内湖」となった。

 

 さらに両川の水により淡水化し、堆積物により河内湖は縮小して4〜5世紀には草香江と呼ばれたが、たびたび水害を引き起こしていた。

 

 上町台地上の難波高津宮に都を置いた第16代・仁徳天皇(4世紀末〜5世紀前半)は草香江の水害対策として難波の堀江や茨田堤を築いたといわれている。

 

 一説に淀川鎮守の神として川中島の御島(三島)に大山祇神(三島神)を百済から招致して祀った。大山祇神社(愛媛県)や三嶋大社(静岡県)もここから遷座されたという。

 

 その奉祀を任されたともされる三嶋県主は6世紀に竹村屯倉の設定に協力するなどヤマト政権と良好な関係を維持し、8世紀後半には三嶋県主広調らが宿禰姓を賜与された。

 

 一方で三島は中臣氏の根拠地の一つとなっていた可能性があり、高槻・茨木市境の阿武山古墳の被葬者は天智天皇6年(669)に逝去した中臣(藤原)鎌足といわれる。

 

 大宝元年(701)の大宝律令において、三島郡は三島上郡・三島下郡に二分され、やがて嶋上郡(島上郡)・嶋下郡(島下郡)と表記されるようになった。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 嶋上郡衙跡附寺跡

 

 嶋上郡衙は、芥川の西岸にあって南を山陽道、北を延喜式内社の阿久刀神社、西を芥川廃寺に囲まれた地域にあります。郡衙とは、律令制度のもとで国の下におかれた郡の役所を指し、都や国の役所にならって、戸籍や徴税などを管理する施設が整然と並んでいました。1970年に摂津国嶋上郡を意味する「上郡」の墨書のある土器が出土し、この地が郡衙の中心地にあたることがわかりました。

 嶋上郡の長官である郡司は、古来この地を治めた三島の王の子孫、三島県主の一族であったと考えられます。中央集権的な国家体制のもとで、一族は山陽道に面して郡役所と倉庫群をととのえ、郡の秩序ある繁栄を願って郡寺・芥川廃寺を建立しました。また郡衙南方の津之江には淀川水運に関わる施設がおかれたようです。一方、郡司たちの氏神は本拠地の阿久刀神社にまつられ、墓地は先祖の眠る岡本山一帯につくられたとみられています。

 しかしこれらの寺や役所は、律令制度がくずれるとともに忘れられ、地中に埋もれてしまいました。

 嶋上郡衙は、近畿地方で最初に確認された郡衙跡であり周辺の遺跡を含めてその歴史的な移り変わりをたどることができる貴重な遺跡です。中心部は寺跡とあわせて国の史跡に指定され、保護が図られています。

 

高槻市教育委員会

 

 

芥川廃寺の回廊

 

 芥川廃寺は、約1300年前の白鳳時代に創建され、平安時代中頃まで続いた摂津国嶋上郡の郡寺です。

 平成3年(1991)1月、ここで金堂や塔を囲む回廊の一部や屋根瓦が見つかり伽藍の南端が明らかになりました。

 回廊は幅3m余りに復元され、建て替えた痕跡がありました。地面に穴を掘って直接立てた柱には、直径40cmもあるヒノキが使われていました。

 伽藍の規模は南北一町、東西半町と推定されており、この回廊の位置から東方の嶋上郡衙の庁院とまさに東西並びたっていたことが知られます。

 なお、北側の素戔嗚尊神社には、後方の水田から出土したと伝える塔の心礎が移され、手水鉢として利用されています。

 

高槻市教育委員会