①坂越湾と標柱
②千種川の眺望
③山頂
④石仏
⑤和田一族の墓
⑥尼子山より(中央)
訪問日:2021年11月
所在地:兵庫県赤穂市
嘉吉元年(1441)当時38歳の但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護・山名持豊(宗全)は将軍・足利義教らとともに播磨・備前・美作3ヶ国の守護・赤松満祐の屋敷を訪問する。
義教が満祐に討たれると(嘉吉の乱)持豊は脱出し、同族の山名教清・山名教之らとともに満祐討伐軍を率いて播磨に侵攻し、城山城を攻略して鎮圧した。
持豊には播磨が与えられ、教清は石見に加え美作を、教之には伯耆に加えて備前を与えられ、山名熙高の因幡と合わせ山名氏は10ヶ国の守護職を回復した。
東播の明石郡・美嚢郡・加東郡は討伐軍に加わった赤松満政に与えられたが、文安4年(1444)これも領有し、翌年には満政を討って実力で播磨を平定した。
嘉吉の乱で殺害された山名熙貴(石見守護)の2人の娘を養女として周防など5ヶ国の守護・大内教弘、細川京兆家当主・細川勝元に嫁がせて畠山持国に対抗した。
享徳3年(1454)御家騒動で持国が失脚、勝元とともに幕政を掌握し、同年には赤松氏の赦免をめぐり将軍・足利義政と対立するも勝元の取りなしで事なきを得た。
宗全は家督と守護職を嫡子・教豊に譲り但馬に下国するが、満祐の甥・赤松則尚が播磨で挙兵すると享徳4年(1455)これを討ち、長禄2年(1458)赦されて幕政に復帰する。
文正元年(1466)勝元とともに義政側近の伊勢貞親らを追放し、将軍の政治力を奪う。しかし宗全や勝元ら諸大名は翌年応仁の乱を引き起こしてしまう。
以下、現地案内板より
茶臼山城跡
標高166mの宝珠山(茶臼山)にある。山名持豊が駐留したといわれているが、詳細はわからない。