周防 国衙 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①国衙阯碑②築地跡③国衙跡④国衙跡⑤佐波神社⑥多々良大仏

 

訪問日:2021年8月

 

所在地:山口県防府市

 

 清原元輔は延喜8年(908)従五位下下総守・清原春光(清原深養父説も)の子として生まれた。母は筑前守・高向利生の娘。妻は周防命婦と伝わるが詳細は不明。

 

 子に清原為成(天慶8年・945頃生)・清原致信・戒秀・清原正高・清少納言(橘則光のち藤原棟世室、康保3年・966頃生)・藤原理能室がいる。

 

 村上天皇の天暦5年(951)河内権少掾(遙任)に任官し、同年には源順らとともに「梨壺の五人」として『万葉集』の訓読、『後撰和歌集』の編纂にあたる。

 

 その後は、少監物・中監物・大蔵少丞・民部少丞・民部大丞を経て、安和2年(969)従五位下・河内権守に叙任される。

 

 67歳となった天延2年(974)には周防守として受領となり現地に赴任した。なお周防では貨幣鋳造が行われており、鋳銭司を兼ねた。

 

 この赴任には当時幼少の娘・清少納言も同行して4年間周防に暮らした。『枕草子』第290段にはその時のものと思われる船旅の描写が見られる。

 

 周防守在任中には、天禄4年(973)に焼失した薬師寺の造営を担い、功により天元3年(980)従五位上に昇叙される。

 

 寛和2年(986)には79歳にして肥後守として九州に赴き、永祚2年(990)任地にて83歳で死去した。

 

 歌人としては藤原公任(966ー1041)による『三十六歌仙』に選ばれ、藤原定家(1162-1241)の『小倉百人一首』では

 

ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは

(42番)

 

が選ばれた。また、清少納言は女房勤めの折、父の名を辱めたくないので歌は詠まないと言って中宮・定子に許された(枕草子第99段)という。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 周防国衙跡 政庁域(二町域)

昭和12年(1937年)6月15日指定

 

 大化改新(645年)以降、大和朝廷は、律令国家体制を整えていくなかで、地方を国・郡(評)・里に分けました。国にはそれぞれ国府(国衙)を置き、朝廷から国司を派遣して政務を執りました。

 この公園は、奈良時代から平安時代の初め頃まで国衙の中心である政庁(役所)があったと推定される場所で、国府域の中で最も重要な場所です。四方の広さは、ほぼ二町(一町=106〜109m)あります。

 東に接する地区には、国府に関わる金属加工等の工房が、北側には国司の住居があったことが発掘調査でわかってきました。

 

平成14年3月 山口県教育委員会 防府市教育委員会

 

 

国指定史跡 周防国衙跡 西北隅

昭和12年(1937年)6月15日指定

 

 周防国衙(国府)は、飛鳥・奈良時代に置かれた周防国の役所で、中世には東大寺の管轄となって存続しました。

 周防国衙域は文献上に「方八町」(一町=106〜109m)とあり、この地はその西北の隅にあたります。

 昭和50年の発掘調査では、戦国時代に埋まった溝や地形を造成した跡などが見つかっています。

 当地のすぐ北には、周防国の総社であり国衙と深い関わりのあった佐波神社があります。

 

平成14年3月 山口県教育委員会 防府市教育委員会

 

 

周防国 多々良 大佛殿

 

奈良の都といえば霞立つ若草、三笠の山々を背景に東大寺大佛殿の伽藍が聳え立っていたので名高い。

その奈良の都を模して、周防の国衙の立馬場に建立されたのが辻福寺の大佛殿で、遠く大平、矢筈、多々良の峰々に映えわたっていた。

この大佛殿はそこが明治25年毛利邸用地に定められたときこの地に移築したもので、坐像の高さ約3mの佛像は阿弥陀如来、周防の国司、俊乗坊重源上人(806年前)の作と伝えられ今日広く信仰を集めている。

 

平成5年6月24日 大佛殿保存会