摂津 平野環濠 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①環濠②石碑③土塁から環濠跡④松山小橋跡⑤樋尻口地蔵⑥末吉家

 

訪問日:2020年10月

 

所在地:大阪市平野区

 

 末吉孫左衛門長方は天正16年(1588)先代・孫左衛門吉康の子として生まれた。元和3年(1617)吉康が48歳で死去したため30歳で家督を継ぐ。

 

 父から引き継いだ摂津・河内の代官職の他、大坂の陣の戦火に遭った平野や平野熊野三所権現社(杭全神社)の復興に努める。

 

 元和6年(1620)の大和川決壊により、柏原村1400石の農地が全滅した際には水路を開いて物資輸送路を確保した。私財を投じて排水路や堤防を築き、荒地を復興した。

 

 また、朱印船貿易においては、末吉船は寛永12年(1735)の鎖国令までに12回(吉康7回、長方5回)海外に派遣された。

 

 末吉船が無事帰国すると、長方は京都清水寺(坂上田村麻呂創建と伝わる)や杭全神社に絵馬を奉納した。

 

 その内、寛永9年(1632)10年、11年に清水寺に奉納した3枚は国の重要文化財に指定されている。

 

 寛永15年(1638)には幕府より柏原村復興の恩賞米200石を賜る。寛永16年(1639)52歳で死去した。

 

 末吉邸は(1707)頃の建築と伝わる。明治20年(1887)末吉氏14代・末吉勘四郎らが平野紡績会社を発足させる。

 

 平野紡績はその後摂津紡績と合併、さらに尼崎紡績と合併して大日本紡績(後ニチボー)に、さらに日本レイヨンと合併してユニチカとなった。

 

 

以下、現地案内板より

 

平野環濠跡

 

中世に、自治都市として栄えた平野の町は、周囲に濠をめぐらし、町内の悪水を集めるとともに、防御の役割をも果した。ここに残る濠はその一部である。

 

 

平野郷十三口 ー平野環濠都市遺跡ー

樋ノ尻口地蔵

 

 中世、堺とともに自治都市として栄えた平野郷は、戦国時代には自治と自衛のため、濠と土塁をめぐらした、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもっていた。いま杭全神社の東北部と、赤留比売命神社の背後にその面影を残している。

 濠のあいだには大小十三の木戸口があり、摂河泉各方面へ道路が放射状に延びていた。

 樋ノ尻口門は奈良街道や久宝寺、八尾につらなるもので、木戸としては大きい方であった。

 門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があった。この地蔵堂も樋ノ尻口門の傍らにあったもので、郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。

 

 大坂夏之陣の元和元年(1615)5月7日、徳川家康の樋ノ尻口通過を予測した真田幸村は、この地蔵堂内に地雷を仕掛け大坂城へ引き揚げた。予想通り家康が来て、ここで休憩したが、ちょっと座を外したときに地雷が爆発し、危うく命拾いしたという伝説があり、現在全興寺に祀られている首地蔵は、このときの爆発で吹き飛んできた樋ノ尻地蔵の首と伝えられている。

 

昭和62年8月

平野環濠都市遺跡顕彰会

財団法人観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)

 

 

平野郷樋之尻口門跡

 

 戦国時代の平野郷は、俗に「環濠集落」と呼ばれる形態をもち、周囲には自治と自衛のため濠がめぐらされていた。

 濠のあいだには大小13の木戸があり、八尾・古市・堺などへの道路が放射状にのびていた。

 樋之尻口門は、八尾久宝寺につながるもので木戸としては大きい方であった。門のそばにはいずれも地蔵堂や遠見櫓、門番屋敷があったといわれるが、当公園一角に現存する地蔵堂は当時のなごりである。郷から外に出るときは一身の加護を祈り、外からの変事はこの入口で退散させようとした祈願のあらわれであろう。

 少し東方の平野川に「樋之尻橋」の名がとどめられている。

 

平野区役所