越後 蔵王堂城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本丸南東隅②本丸堀東側③本丸南東隅城跡碑④土塁と堀直寄像⑤本丸安禅寺⑥二の丸金峯神社

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:新潟県長岡市

 

 堀直寄は天正5年(1577)堀(奥田)直政の次男(3男とも)として生まれた。母は側室・妙泉院、堀直清は4歳年長の異母兄。

 

 天正18年(1590)宗家の当主で越前北ノ庄18万石・堀秀政が小田原征伐で陣没すると、豊臣秀吉は15歳の嫡男・秀治への家督相続をすぐには認めなかった。

 

 家老の直政は14歳の直寄を使者として秀吉のもとに派遣し、秀治の相続を認めさせた。直寄はそのまま秀吉の小姓となる。

 

 慶長3年(1598)秀治が越後春日山45万石に増封されると秀吉に直訴して越後に赴き坂戸2万石を、父は三条(直清が城代)に5万石、秀治の弟・親良が蔵王堂に3万石を領した。

 

 慶長5年(1600)父が上杉景勝の不穏な動きを徳川家康に報告、会津討伐が決まると、直寄は西軍味方を主張するが、父の意見で堀氏は東軍に与した。

 

 景勝は越後で上杉遺民一揆を煽動し下倉城が陥落するが、翌日に直寄がこれを奪還、父・兄とともに一揆を平定した。

 

 慶長7年(1602)親良が秀治や直政と対立して出奔、幼い養嗣子・鶴千代(秀治の次男)が蔵王堂城主となり、直寄がこれを後見した。

 

 その鶴千代が慶長11年(1606)に早世すると、直寄がこれを編入し、5万石の領主となった。また、同年には秀治も31歳で死去し、13歳の忠俊が家督を相続する。

 

 慶長12年(1607)忠俊は春日山城から新たに完成した福嶋城に移る。直寄もまた新たに長岡城の築城を計画していた。

 

 しかし慶長13年(1608)父が死去すると兄・直清と対立、これが慶長15年(1610)越後福嶋騒動に発展し、徳川家康の裁定に敗訴した忠俊・直清は改易、直寄も信濃飯山4万石に減封される。

 

 その後は領地を離れ徳川家康のもとに仕え、大坂の陣にも出陣、元和2年(1616)家康の死去直前にはその枕元に呼ばれて後事を託された。

 

 同年、忠俊に替わり福嶋城、のち高田城にあった家康の6男・松平忠輝が改易されると、直寄は8万石で蔵王堂に復帰し、長岡城の築城を再開した。

 

 その完成目前に村上10万石に増封された。家康から得た100万石のお墨付きは反故にされ、代わりに100万両が与えられたという。

 

 寛永13年(1636)隠居して嫡男・直次に家督を譲るも2年後に死去、孫の直定が4歳で跡を継いだ。

 

 寛永16年(1639)直寄は江戸で死去、63歳だった。この時直定に加増された3万石は全て直寄の次男・直時に分与され、安田藩を立藩した。

 

 直定は寛永19年(1642)7歳で死去、村上藩遺臣により直時が跡継ぎに擁立されたが幕府に認められず、村上藩堀氏は断絶した。

 

 

以下、現地案内板より

 

蔵王権現之記

 

 旧記によれば蔵王権現は古志郡楡原村に鎮座していたが、故あって三島郡矢田村を経て、仁治年間(1242年)この地に鎮座したと伝えられている。

 この地はもと殿倉ととなえ三神を祭っていた。いつの頃か権現と習合して蔵王権現と称し、三神の祭事をも共に行ったので世の人々の崇敬するところとなった。祭事の区域は大島庄川崎郷を中心としてその周辺に及び、他国からも信者が参集した。

 戦国の世となりこの地に築城されて蔵王堂城と称した。南北両朝勢力の争点となって常に戦乱の地となった。

 元和2年蔵王堂城主となった堀直寄は、信濃川流域の変化による水禍のため城が危険となっているので長岡の地に移転しようと計画し、実行に着手した。しかし完成しないうちに村上へ国替えとなった。かわって元和4年牧野忠成が城主となり、堀直寄のあとをうけて長岡城を完成、蔵王堂城を廃城とし、城下町を長岡の地に移した。

 以後殿倉38の両村民は蔵王権現門前に居を移し権現を尊崇して来た。

 明治維新にあたり、政府が神佛判然令を出したので、神佛分離政策が強行されることとなった。

 その結果蔵王権現は金峯神社と改められ諸佛はすべて追放された。

 当時の蔵王権現別当三芳野千春は金峯神社の神官となっていたが、後佛門に復帰し明治18年安禅寺を復興し蔵王権現北方の地にあった毘沙門天を奉じて本尊とした。

 このようにして蔵王権現その他の諸佛は安禅寺本堂の奥に安置されて今日に至った。

 昭和53年安禅寺本堂並びに境内改修にあたり、わずかに地名にのみその名をとどめる蔵王権現について過去を追憶し、事由を石に刻んで後人の参考とする次第である。