越中 国守館/国分寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①国守館址碑②旧伏木測候所③大伴家持像•歌碑④寺井の跡推定地⑤国分寺跡

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:富山県高岡市

 

 大伴家持は養老2年(718、天平元年・729説も)従二位大納言・大伴旅人の子として生まれた。母は丹比郎女とされている。

 

 天平18年(746)越中守として赴任し、天平勝宝3年(751)少納言に任ぜられ帰京するまで、下の2首など223首の和歌を詠んだ。

 

 立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず 神からならし

 東風 いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小舟 漕ぎ隠る見ゆ

 

 天平勝宝6年(754)兵部少輔となり、翌年に防人の検校に関わり、その防人歌を撰集して手を加え、『万葉集』巻20に採録した。

 

 天平宝字元年(757)兵部大輔となるが、同年の橘奈良麻呂の乱で大伴池主ら一族の多くが処罰され、家持は天平宝字2年(758)因幡守に左遷された。

 

 天平宝字7年(762)信部大輔に任ぜられ帰京するも、翌年、藤原宿奈麻呂ら3人とともに太師・藤原仲麻呂暗殺を計画したとして捕縛される。

 

 宿奈麻呂が単独犯行を主張したため罪には問われなかったが、天平宝字8年(764)今度は薩摩守に左遷される。

 

 同年、藤原仲麻呂の乱が発生するが、九州にいた家持は関わっていない。神護景雲元年(767)大宰少弐に転じる。

 

 神護景雲3年(769)大宰帥・弓削浄人(道鏡の弟)らが道鏡を皇位につけよとの宇佐八幡宮の神託を奏上するが、家持の動向は不明。

 

 神護景雲4年(770)称徳天皇が崩御し光仁天皇が即位すると、帰京し21年ぶりに昇叙(正五位下)、その後は順調に昇進し、天応元年(781)には従三位まで昇叙。

 

 しかし同年末(782年1月)光仁上皇が崩御した直後の天応2年(782)閏正月、氷上川継の乱が発生すると、これに連座して解官される。

 

 しかし3ヵ月後には元に復して、延暦2年(783)には中納言に昇進、延暦3年(784)には持節征東将軍(蝦夷征討のトップ)に任ぜられる。

 

 ただし陸奥に赴任していたかは不明で、延暦4年(785)68歳で死去するが、死没地は平城京と多賀城の両説がある。

 

 死去1ヶ月後に長岡京で藤原種継暗殺事件が発生、家持も関与したとして埋葬が許されず、官位も剥奪され、子の永主は隠岐へ流罪となった。

 

 『万葉集』特に巻17〜20については家持が深く関わっているとされ、全体でも4500強の作品のうち家持の長歌・短歌などは1割以上の473首が収められている。

 

小倉百人一首では中納言家持として『万葉集』にはない

 かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞ更けにける

が入集している

 

 延暦25年(806)桓武天皇により種継暗殺事件で罰せられた人々は生死にかかわらず恩赦を受け、家持も従三位に復した。

 

 

以下、現地案内板より

 

越中国守館跡(万葉遺跡)

 

朝床に 聞けば遙けし 射水川 朝漕ぎしつつ 歌う船人

 万葉集巻十九

 

天平勝宝2年(750)3月2日、越中国守大伴家持の館舎の朝床からはるか射水川を漕ぎ歌う船人の声を聞いてよんだ歌である。射水川(小矢部川)は当時この台地の下を流れていた。附近に大友・岸が館・大立などの地名が残っているが、このあたりを東館と呼び国守館の跡と推定されている。

 

高岡市教育委員会 伏木ライオンズクラブ 伏木文化会

 

 

万葉寺井の跡推定地

 

もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花

 万葉集巻19・4143

 

 天平勝宝2年(750)3月、越中国守大伴家持が寺井のほとりに咲く堅香子の花をよんだもので、越中万葉の中でも秀歌とされている。堅香子は、いまのカタクリのことで、春早く、紅紫色の百合のような花をつける。なお、寺井の跡については諸説がある。越中国庁推定地とされる勝興寺の西南に御亭角廃寺跡があり、一説に当時このあたりに国府寺があり、寺井が掘られていたのではないかとされている。

 

平成30年3月30日 高岡市教育委員会

 

 

富山県指定史跡 越中国分寺跡

昭和40年10月1日指定

 

 全国の各国々に国分寺・国分尼寺を建立する大事業は、天平13年(741)2月に発布された聖武天皇の「国分寺創建発願の勅」に始まると言われる。越中国分寺の創建年代を明記した資料は存在しないが、万葉集の代表的歌人大伴家持が詠んだ歌には、天平20年(748)に、「先の国師の従僧清見」の送別宴を催しており、天平勝宝2年(750)には布勢水海に赴いた一行に「講師僧恵行」の名がある。国師、講師は国分寺の最高僧職であることから、この頃にはすでに国分寺があったと考えられる。

 越中国分寺は、昭和11年の発掘調査により、薬師堂近辺で奈良時代後期の瓦や、その他の遺物が出土した。また、薬師堂の柱の基礎に据えられた石材のうち4個は未加工ながら、小堂に不釣合いな巨石を用いていることや、堂の土盛りの基礎と堂の東側に残る土盛り基礎の跡を結んだ規模から、金堂跡と考えられている。その他にも、境内より南行する国分参道と呼ばれる古道が発見されたことから、昭和40年、薬師堂境内を含む周辺約1500㎡が、越中国分寺跡として県の史跡に指定された。

 

平成25年9月2日

富山県教育委員会 高岡市教育委員会