紀伊 新宮堀内氏屋敷(全龍寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①全龍寺山門②全龍寺本堂③全龍寺境内④堀跡の水路

 

訪問日:2020年1月

 

所在地:和歌山県新宮市

 

 新宮行朝は堀内氏善の6男あるいは弟ともいわれる。慶長元年(1596)生まれともいうが遅すぎる気がする。初名を堀内氏弘といったが、新宮氏の名跡を引き継いで改名した。

 

 慶長5年(1600)父・氏善が関ヶ原の戦いで西軍に与して改易され、加藤清正に拾われて熊本に移った。行朝は紀伊を領した浅野幸長に500石で召し抱えられる。

 

 しかしやがて出奔し、慶長19年(1614)大坂の陣で豊臣秀頼の招きに応じ、弟(甥とも)の堀内氏久ら300人とともに大坂城に入った。幸長を混乱させるため紀州一揆を煽動したという。

 

 慶長20年(1615)大坂城は落城し、行朝は逃れたが大和で捕らえられた。一方、氏久は徳川家康の孫娘・千姫を連れて脱出し、徳川方の坂崎直盛のもとに出頭し、直盛とともに家康の本陣に送り届ける。

 

 家康に拝謁した氏久は旗本として下総に500石を与えられた。この功により、行朝も赦されて伊勢津藩主・藤堂高虎に仕えたという。

 

 

以下、現地案内板より

 

新宮市指定文化財

史跡 堀内氏屋敷跡

指定年月日 昭和39年6月8日

 

 戦国時代から近世初頭にかけて、奥熊野地方を支配した堀内氏の平城跡。

 周りが5町ばかりあり、四方を水堀で囲った屋敷であったようだが、現在は裏手(西方)と北方の一部にその名残の小川が残るのみである。

 堀内氏善は天正19年(1591)、豊臣秀吉から熊野総地の支配圏を許され、約6万石を領したが、関ヶ原の合戦で西軍に参加したため敗北した。

 堀内氏の勢力と、新宮城下町形成期の支配形態を考えるうえでも貴重な史跡である。

 

平成12年3月

新宮市教育委員会