信濃 信綱寺/打越城/尾引城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①信綱寺本堂②真田信綱らの墓③信綱寺山門④黒門(打越城跡)⑤枡形(打越城跡)⑥真田山城カラノ遠望

 

訪問日:2019年12月

 

所在地:長野県上田市

 

 真田信綱は天文6年(1537)真田幸綱の長男として生まれた。母は海野氏家老・河原隆正の娘・恭雲院(実名不明)。

 

 真田昌輝(天文11年生)、真田昌幸・真田信尹(天文16年生・双生児か)、金井高勝は同母弟と伝わり、妹が3人いた(根津信忠室・長坂昌国室・遠山右馬助室)。

 

 天文10年(1541)海野平の戦いの際は5歳だったが、両親とともに上野に落ち延びたと思われ、その後も父と行動を共にし、武田氏に仕えたと考えられる。

 

 永禄4年(1561)上杉謙信との(第4次)川中島の戦い時は25歳で、父とともに妻女山攻撃の別働隊に加わっていたという(甲陽軍鑑)。

 

 その後、武田氏の上野侵攻に携わった父に代わり、本領の信濃国小県郡の支配を任されていたと思われ、永禄10年(1567)正式に家督を継いだ。

 

 父や弟とともに、永禄11年(1568)駿河今川氏攻めや、永禄12年(1569)北条氏との三増峠の戦い、元亀3年(1572)徳川氏との三方ヶ原の戦いで活躍した。

 

 天正2年(1574)父の死去により名実ともに真田氏の当主となったが、天正3年(1575)長篠の戦いで昌輝とともに討死した。39歳。

 

 家督は3弟の真田昌幸が継いだ。与右衛門、信興、信光(孫とも)という子がおり、与右衛門は後に徳川氏に仕え越前松平藩士となった。

 

 また娘の清音院殿(実名不明)は従兄弟である昌幸の嫡男・真田信幸(信之)に嫁ぎ、真田信吉(沼田藩2代藩主)を産んだ。

 

 

以下、現地案内板より

 

大柏山 信綱禅寺

〔本尊 釈迦牟尼仏 曹洞宗〕

 

 当寺の創建は室町期、横尾城の東の梅ノ木に横尾氏の菩提寺として好雪斉大柏寺と呼ばれ、横尾氏滅亡(上田原合戦)後、真田信綱公が寺を打越に移し、大光智照禅師を迎え大柏山打越寺と名付けられた。その後昌幸公が長兄信綱公の牌所として寺堂を改築され、大柏山信綱寺と改められた。

 

開山 大光智照禅師(高山順京大和尚)

開基 真田源太左エ門尉信綱公

宝物殿 (血染陣羽織、昌幸・信之の古文書他)

金毘羅堂 (信綱公守護佛)

真田信綱夫妻・昌輝公・白川氏御墓所

行事 修正会、大般若、彼岸、第六天祭、信綱祭、写経、読経、禅、茶会他

 

 

市指定史跡 真田信綱の墓

 

種別 史跡

名称 真田信綱の墓

所在地 上田市真田町長 信綱寺

指定年月日 昭和47年4月1日

 

 天正2年(1574)真田幸隆(幸綱)が死去すると嫡子の信綱が真田家を継いだ。翌年の長篠合戦で武田勝頼軍は織田・徳川の連合軍に敗れたが、この戦いで信綱は弟の昌輝とともに討死した。真田家の当主となってからわずか1年、39歳の生涯を閉じた。

 戦死した信綱の首級は、家臣の白川兄弟が陣羽織に包み、主君着用の鎧胴と愛刀の「青江の太刀」(重要文化財・真田宝物館所蔵)とともに信綱寺へ運び、首級と鎧胴を桜の樹下に埋葬して手厚く弔った。この場所は現在では「墓前の桜」と呼ばれている。享保2年(1717)寺の移築に伴い、墓所は墓前の桜の位置から裏山の現在地に移され、墓石が建立された。また血染めの陣羽織と最初の墓所から出土した鎧胴は、寺宝として大切に保管されている。

 

平成28年2月 上田市教育委員会

 

 

上田市指定文化財(史跡)

真田信綱の墓

 

真田信綱は天文6年(1537)、幸隆の長子として生まれ、父病没の後38歳で家督を継いだが、翌天正3年(1575)、武田勝頼に従い織田信長と長篠で戦い、弟昌輝と共に戦死した。

信綱の首級は、家臣白川勘解由兄弟の手により陣羽織に包まれ鎧と共に大柏山打越寺まで運ばれ、墓前の桜の下に葬られた。その後打越寺は、信綱公菩提所として信綱寺と改称された。

享保2年(1717)、寺の移築に伴い、墓所が裏山の現在の場所に移され、夫人と共に懇に弔われている。

近年、夫妻の墓のとなりに昌輝の新しい墓が建立された。

 

真田信綱天正3年5月21日没享年39歳信綱寺殿大室道也大居士

真田昌輝天正3年5月21日没享年33歳嶺梅院殿風山良薫大居士

中央が信綱公、左が信綱公夫人、右が昌輝公の墓

 

 

市指定史跡 横尾城跡・内小屋城跡(打越城跡)

 

種別 史跡

名称 横尾城跡・内小屋城跡

所在地 上田市真田町長

指定年月日 昭和47年4月1日

 

 横尾集落の東側は内小屋と呼ばれており、中世における土豪の居館等の存在が推定される。内小屋は室町期の尾引城主横尾氏開基と伝わる打越寺(信綱寺)や、現在古城緑地広場となっている平地へと続いているが、平地一帯の南側には古城(打越城)と呼ばれる尾根が東西に長く続いている。この尾根の存在により、上州道方面からは館の存在が気付かれにくくなっている。

 また古城(打越城)尾根南方の急斜面にいくつも段郭が設けられ厳重に防備されている。これらの構えを見ると、打越城の尾根から信綱寺までを含めた一帯が古いころからの内小屋であると考えることができる。

 打越城は横尾地区の尾引城(横尾城)とともに、内小屋を守った重要な城といえる。

 

平成28年1月 上田市教育委員会