下総 国府台城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①櫓台②土塁③空堀④羅漢の井⑤總寧寺⑥江戸川畔カラノ遠望

 

訪問日:2019年12月

 

所在地:千葉県市川市

 

 関東では享徳3年12月(1455年1月)に鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことから、享徳の乱が勃発する。

 

 享徳4年(1455)幕命を受けた駿河守護・今川範忠に鎌倉を占拠された成氏は本拠を下総古河城に移す。一方、長禄2年(1458)に幕府が送り込んだ足利政知は伊豆堀越を本拠とした。

 

 古河公方方と幕府・堀越公方・関東管領方(以下関東管領方)はまさに関東を二分して30年近くにわたり激しく戦い続けることになる。

 

 太田資忠は扇谷山内家家宰・太田資清(道真)の子として生まれた。兄に太田道灌(資長・1432〜1486)がいる。道灌の甥という説もある。

 

 文明3年(1471)伊豆に迫った古河公方方を撃退した関東管領方は反撃に転じて古河城を攻略、成氏は千葉孝胤を頼り落ち延びた。

 

 この時、資忠は古河公方方の唐沢山城・館林城を攻略し、将軍・足利義政から褒賞された。しかし文明4年(1472)には早くも古河公方方が反撃し成氏は古河城に復帰した。

 

 資忠の子・太田資雄は道灌の養子となっている。文明6年(1474)道灌が江戸城で開いた歌合に資雄とともに参加した記録が残る(武州江戸二十四番歌合)。

 

 文明8年(1476)道灌が今川氏の内紛介入のため駿河にあった隙を突き、山内上杉家の家臣・長尾景春が武蔵鉢形城に拠り関東管領方に叛旗を翻す。

 

 文明9年(1477)景春に敗れた上杉顕定・定正は五十子陣から撤退、同年、景春に呼応した小机城主・矢野兵庫が資忠らが守る河越城を攻めたが、資忠がこれを撃退している。

 

 景春の動きは道灌らに封じられ、文明10年(1478)成氏は和議を打診し始める。同年、境根原合戦で関東管領方に敗れた古河公方方の千葉孝胤は下総臼井城に籠る。

 

 文明11年(1479)資忠は道灌の命により国府台城を築き、孝胤と当主の座を争う千葉自胤とともに臼井城を落としたが、この戦いで資雄とともに討死した。

 

 道灌は実子・太田資康(江戸太田氏)もいたが、もう一人の甥・太田資家(父は資忠説と太田資常説がある)を養子とした(岩付太田氏)。

 

 文明12年(1480)景春は没落、文明14年(1482)成氏と上杉家の間で和議が成立して享徳の乱は終結するが、文明18年(1486)道灌は暗殺される。

 

 道灌死後の長享元年(1487)扇谷・山内の両上杉家は決裂し、永正2年(1505)にかけて戦う(長享の乱)。これにより上杉家は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)が台頭する。

 

 

以下、現地案内板より

 

国府台城跡

 

 「鎌倉大草子」によれば、文明10年(1478)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。

 これより以前の康正2年(1456)、千葉自胤は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利成氏方に抵抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明である。

 国府台は標高20〜25mの下総台地の西のはしで、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。

公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。

 この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行なわれた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。

 天文7年(1538)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小弓(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。これに対して永禄7年(1564)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄6年にも合戦があったとする説もある)。

 永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。

 現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。

 この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。

 

市川市教育委員会

 

 

安国山 総寧寺

 

 総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳3年(1383)通幻禅師を開山として、近江国左槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。

 ところが、天正3年(1575)に至って、小田原城主北条氏政が、寺領20石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移した。

 その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文3年(1663)遂に徳川4代将軍家綱に願って国府台に移った。その折り幕府は寺領として128石5斗余、山林6万7千余坪を与えている。

 総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。しかも歴代住職は10万石大名の格式を以て遇せられ、江戸小石川には邸が与えられた。総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かる。

 明治5年(1872)学制の施行によって、第一大学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになったが、それは後、陸軍要地となり、昭和33年現在の里見公園となった。

 本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である2基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦の伝説にまつわる夜泣石等を存する。

 

昭和54年3月 市川市教育委員会