壱岐 瀬戸浦古戦場 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①海上より②碇石③烽火台​​​​​​​④資時墓⑤少弐の千人塚​​​​​​​⑥壱岐神社

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:長崎県壱岐市

 

 大宰少弐を務める少弐氏の3代・少弐経資は寛喜元年(1229)少弐氏2代・少弐資能の長男として生まれた。17歳年少の弟に少弐景資がいる。

 

 文永11年(1274)資能から家督を譲られるが、直後の文永の役では父が総司令官を務め、景資が「日の大将軍」として指揮を執ったが、経資の動向は不明。

 

 建治2年(1276)には鎌倉幕府は経資を大将に高麗征伐を計画し、博多に兵を集結させているが、実行に移されることはなかった。

 

 弘安4年(1281)弘安の役の壱岐島の戦いで奮戦して元軍を駆逐するが、長男・資時を失い、資能も戦傷により間もなく死去する。この時も経資らを大将に高麗出兵計画が持ち上がっている。

 

 戦功により筑前・筑後・豊前・肥前・肥後・壱岐・対馬の守護となり、大友頼泰とともに鎮西奉行として少弐氏の全盛期を築き上げた。

 

 弘安7年(1284)執権・北条時宗の死去に伴い出家して浄恵と号し、次男・盛経に家督を譲るが、家督をめぐり景資と対立する。

 

 弘安8年(1285)有力御家人・安達泰盛が霜月騒動で内管領・平頼綱に討たれると、景資は九州に下向していた泰盛の子・安達盛宗に呼応して岩門城に挙兵する。

 

 経資は頼綱方に与してこれを鎮圧、景資と盛宗を討ち取る。弘安9年(1286)大友頼泰らとともに鎮西談議所の奉行に任じられる。

 

 正応5年(1292)64歳で死去した。その後、永仁元年(1293)北条兼時・名越時家が鎮西探題に任ぜられ、鎮西談議所は廃止、北条得宗家の鎮西支配は強化された。

 

 少弐氏は筑後・豊前・肥前・肥後の守護職を失った。元弘3年(正慶2・1333)経資の孫の5代・少弐貞経らは鎮西探題を攻撃、北条英時を自害させた。

 

 

以下、現地案内板より

 

長崎県指定史跡

 弘安の役瀬戸浦古戦場

 

昭和50年(1975)1月7日指定

所在地 長崎県壱岐市芦辺町箱崎大左右触(瀬戸浦一帯)

 

 弘安4年(1281)の、2回目の元寇の時、対馬・壱岐を侵して6月初旬に博多湾に来襲した元軍(東路軍)は、鎌倉幕府の守備隊との間で激戦を展開し、一時は水城にまで迫る勢いであった。しかし東路軍は幕府軍の予想以上の反撃に遭い、江南軍の到着が遅れたこともあってか、6月中旬になって肥前鷹島まで退いた。

 当時の壱岐島は元軍の博多攻略の根拠地となっていた。そのため鎮西奉行・少弐経資は自ら陣頭に立ち、博多方面の警護をしていた薩摩・筑前・肥前・肥後の御家人達を率いて壱岐の瀬戸浦に攻めよせ、6月29日から7月2日にかけて元軍と激突することになった。戦闘は主に港の内外を中心とする海上はもちろんのこと、瀬戸浦の両岸やその周辺の陸地でも激しく繰り広げられたという。

 瀬戸浦は2㎞に及ぶ狭隘な入り江を有し、西側には少弐氏の居館 船匿城 があり、水軍の基地としては絶好の条件を備えていた。また壱岐から博多までの最短の地に当たることから元軍も拠点としていたものと考えられる。当時の壱岐の守護としては、今日わずかに文永10年(1273)11月16日の記録(「松浦文書」)にみられる武藤(のちの少弐)資能川確認できるだけである。瀬戸浦一帯が少弐氏の私領であったことから、その攻防戦は激しいものがあったと想像される。(この戦いについては、「龍造寺文書」弘安5年9月9日肥前守護北条時定書状に、

 『去年異賊襲来時、七月二日、於壱岐島瀬戸浦令合戦由事、申状幷證人起請文令披見畢』「去年、異賊襲来の時、七月二日、壱岐島瀬戸浦において合戦せしよしの事、申状ならびに證人起請文を披見しおわんぬ。」

 「去年(弘安4年・1281)、元寇が襲来した時、7月2日に壱岐の瀬戸浦で合戦に及んだという事、貴方からの上申書(恩賞を願い出た文書)、並びに天地神明に誓った起請文で拝見した。」と記されている。)

 また、ここに築かれている積石塚は、少弐経資の3男、資時の墳墓であるとされる。資時は当時19歳で一軍の将として勇敢に戦い、ついに倒れた。資時は、壱岐守護代であったとも伝えられるが詳細については確認できていない。

 

平成20年3月  長崎県教育委員会 壱岐市教育委員会

 

 

碇石

 

発見地 壱岐市芦辺町八幡左京鼻沖合

材質  花崗岩 全長 242㎝

重量  約300㎏

 

中央部が太く先端に向かって先細りとなる本体の前面は楕円形をなしている。

 碇石は木製の碇軸木に綱をもって固縛するための綱掛け溝が設けてあり、中世日本船の絵に描かれている碇と一致している。

 中国泉州発掘の碇石や長崎県鷹島南岸の海中から引揚げた13世紀の中国船の碇石とは明らかに型式を異にしている点は重要であり、このことから左京鼻沖合から発見された本碇石が中世日本にいけるやや大型の外洋船に使用されたものと推定される。

 1281年、第二次日本遠征に踏み切ろうとしている元帝国に対して、執権北条時宗の指導により、九州沿岸には石築地(防塁)を築き、対馬、壱岐には守備兵を配置して防衛体制を整えた。

 壱岐には鎮西奉行少弐経資が我が子少弐資時を守護代に任命して防衛に当らせた。この時に兵員、武器、軍馬、兵糧等の輸送に九州としては大型の船舶を当てた。

 弘安4年5月26日、壱岐瀬戸浦に侵攻した元の東路軍と大激戦の末、少弐資時以下全員玉砕したことは歴史の示すところである。玉砕数ヶ月前に守備兵等の輸送に当った数隻の大型船は主なきままに瀬戸浦に沈んだものと思われる。

 材質が外国産の花崗岩を使用しているが、この時代、博多の港には石材まで輸入していた事実から、その石材を日本船に使用したものと考えられる。

 本碇石が単なる日本船のものと考えるより歴史に照らして弘安の役に殉じた日本将兵と深い関係にあったものを考えるべきであろう。

 

 

煙台(のろし、すすみ)

 

 天智天皇2年(663)唐・新羅の連合軍による白村江の敗戦後、壱岐は朝鮮半島への兵站基地の性格は弱まり、国防第一線の要地となりました。

 日本書紀には天智3年に「対馬、壱岐、筑紫国に防人と烽を置く」とありますが、この地瀬戸にも防人がおり烽塔があったのです。

 烽場には石を四面に積み上げた烽台と石を「コ」字形に並べた烽台とがありますが、前者は比較的平坦な地形に設けられたようです。石を並べたのは馬渡島に遺っています。

 延喜式という古い本に烽のことを次のように定めてあります。

 火炬(たいまつ)の相互の間隔は25歩(約45m)とし、烽を置く場所は40里(22㎞)の間隔にするようにと定めてあります。烽は、昼は煙を一刻(30分)あげ火は一本、火束が燃えきるまで燃やすこと(夜間)。

 はっきり使の船とわかれば火を1ヶ所あげること。賊船とわかれば2火を、賊船200隻以上は3火をあげよと定めてあります。火炬は乾いた草(葦)を芯として松脂のついたタイマツを挟んでおくこと。

 煙を立てる用意は、蓬、萱、藁と生柴を一緒に燃やすようにきめてあります。壱岐島の烽を馬渡島で受け、呼子、大宰府へと伝えるしくみでした。

 馬渡島(八の尾辻)に玄武岩の大きな塊石を一辺4mの「コ」字型に配置した烽台が遺っていますが、ここにあるのはそれの復元です。江戸時代まで使用されたもので、豊太閤の烽台を踏襲したものと思われますが、現地の地形が延喜式に定める条件と合致しているので古代の烽台を後年整備して使用を続けたものと思われます。

 

 

少貮の千人塚

 

 壱岐に上陸した元軍は、島の人々を見つけしだい危害を加えました。老若男女子供の区別なく極めて残酷な方法であったと伝えています。

 元軍は武器も持たず、ただ逃げまどう島人を追い求め、容赦なく矢を射かけ、太刀を振りおろし、時にはなぶり殺しを楽しんでさえいたのです。このように残虐行為をくりかえした元軍が通過したあとは、島人の死体が累々と横たわっていたのです。

 かろうじて生き残った人々は、死体を集め、埋葬し、塚をつくりました。多くの人の死体を埋めたことから、この塚は「千人塚」と呼ばれるようになりました。

 

この千人塚の分布で元軍の侵攻範囲を知ることができます。現在の芦辺町域内には、弘安の役で主な戦闘行為があったことがうかがわれ、箱崎新田の元寇塚(中島塚)、諸吉本村触の千人塚(八つ塚)、裏町の千人塚、波止町の千人塚(千人堂)などがあります。