壱岐 壱岐氏館(國方主神社/嶋分寺) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①國方主神社

②國方主神社③壱岐嶋分寺跡④へそ石

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:長崎県壱岐市

 

 現在の國方主神社境内が壱岐氏の居館跡だったといい、土塁や堀も残っていたらしいが見逃してしまう。西に隣接して壱岐国分寺跡(嶋分寺)があり、壱岐氏の菩提寺を嶋分寺に転用したという。

 

 今からちょうど1000年前の寛仁3年(1019)3月27日、正体不明の賊徒が50隻・3000人の船団で対馬を襲撃、略奪・放火・殺人などの悪逆行為を繰り返した。

 

 国司の対馬守・遠晴は島から脱出し、大宰府に逃れた。9〜11世紀当時、九州沿岸では新羅や高麗などの海賊による襲撃・略奪が度々報告されていた。

 

 ついで4月7日、賊徒は壱岐島を襲撃、急報を聞いた国司の壱岐守・藤原理忠は147名を率いて討伐に向かったが、多勢に無勢で全滅してしまう。

 

 賊徒はさらに壱岐嶋分寺を襲撃、嶋分寺は3度にわたりこれを撃退したが全滅した。指揮を取った常覚という僧は島を脱出し、事の次第を大宰府に報告した。

 

 嶋分寺は8世紀後半から末頃に壱岐氏の氏寺を転用して創建されたと見られ、抵抗の主体の一部は壱岐氏かもしれない。全焼した嶋分寺はこれ以降衰退したと見られる。

 

 賊徒による被害は、島民の男性44人、女性59人、子供29人、僧侶16人の計148人が虐殺され、女性239人が連行され、残ったのは諸司9人、郡司7人、百姓19人の計35人だったという。

 

 別の記録では365人が殺害され、1289人が拉致され、牛馬380頭、家屋45棟以上が被害を受け、壱岐島に留まったものはわずかに35人だったとされる。

 

 その後賊徒は筑前に侵攻し、4月9日には博多を襲った。大宰権帥・藤原隆家や大蔵種材らがこれを撃退、4月13日には肥前国松浦郡に侵攻したが、松浦党の祖・源知らが撃退した。

 

 賊徒は対馬を再襲撃し、朝鮮半島へ去っていった。対馬では36人が殺害され、男性102人、女性244人の計346人が連行されたという。

 

 連行された者の一人、対馬国判官代・長嶺諸近は連行途中に脱出に成功し、その後高麗に密出国して家族らの消息を探ったところ、賊徒の主体が刀伊(女真族)であると知る。

 

 刀伊は対馬から高麗に侵攻したが、高麗水軍がこれを破り、拉致されていた日本人約300人を保護していたという。帰国した諸近は7月7日大宰府にこれを報告した。

 

 そして9月に高麗使が保護した日本人270名を送り届けてきた。しかし諸近は密出国の罪で禁固刑に処されてしまった。

 

 

以下、現地案内板より

 

長崎県指定史跡

壱岐国分寺跡

 

昭和49(1974)年7月2日指定

所在地:壱岐市芦辺町国分本村触字中野1354番地外

指定面積:509.39㎡

 

 長崎県下に残る唯一の国分寺遺跡として貴重。

 奈良時代における国家の繁栄には目ざましいものがあったが、その反面、社会の矛盾があらわれだしていた。この社会の矛盾は政治の面にも動揺をおこし政変があいついでおこった。奈良時代のはじめ藤原鎌足の子、藤原不比等が政権を握り、律令制度の確立と皇室に接近することによって藤原氏の発展の基礎をつくった。不比等は娘の光明子を聖武天皇の皇后にたて、その勢力をのばしたが、不比等の4人の子が疫病でたおれ、政権は皇族出身の橘諸兄にうつり、玄昉や吉備真備が聖武天皇の側近となり力をのばした。天平12年(740)、藤原広嗣が玄昉、真備の追放をもとめて反乱をおこした。聖武天皇は、このような政治の乱れや飢饉・疫病による社会の不安をしずめるために、仏教の鎮護国家の思想にたよった。天皇は天平13年、国分寺建立の詔をだして、国ごとに国分寺、国分尼寺を建立させ、金光明経などの護国の経典を読ませ、天平15年には盧舎那大仏造立の詔を近江の紫香楽に造立しようとした。

 天平16年(744)7月、壱岐島にも島分寺(国分寺)がおかれることが決まった(続日本紀)。『延喜式』玄蕃寮に 壱岐島直氏寺、為島分寺、置僧五口とある。

 詔には造塔の寺は国の華であるから必ずよい場所を選んで永久的建築にせよ、とあるが、壱岐の国分寺は新たに建築されたものではなく、当時、すでにあった壱岐直の氏寺が島分寺とされた。そして、他の国分寺に配置される僧(20人)よりも少ない5人の僧がおかれることとなった。壱岐の経済力が弱かったための特別な措置であった。また、名称も特に「島分寺」とされ島分寺の経費(稲19029束余、殻にして1902石9斗)を九州の諸国が分担することとなった。また島分寺仏聖供料の稲1332束8分と講師ための4726束を筑前国が負担した。

 壱岐の島分寺の成立の年は確実ではない。天平勝宝8年(756)、『続日本紀』によると諸国の国分寺に朝廷から仏具が下賜されるが、壱岐の島分寺はその恩恵にあづかっていない。この時点では壱岐島分寺は成立していなかったことになる。承和11年(844)、大隅・薩摩・壱岐に講師が再びおかれた。この時、すでに壱岐国分寺は成立していたことになる。また、安和3年(970)には壱岐国分寺の寺領地であった中浜荘を大宰府の安楽寺創建に際して寄進を行っている。10世紀以後、律令制が円滑にとり行われなくなるにしたがい、国分寺も衰退していった。政府の手による辺境の地の仏教による教化政策にかげりがみえてくる。

江戸中期に編纂された『壱岐国続風土記』には、64もの礎石があったと記載されている。また江戸末期の書物である『壱岐名勝図誌』によると、礎石は20あまり残存しており、柱穴1尺7〜8寸との記載がある。大正年間には複弁蓮華文軒丸瓦や唐草模様を配した軒平瓦が採集されている。

 このように以前から壱岐国分寺の所在地はつかめていたものの、詳細についてはほとんど不明であったことから、昭和62年から平成5年にかけて発掘調査が行われた。その結果、官寺として機能していた時期は、8世紀後半から11世紀初頭とし、衰退の原因として、律令制の崩壊、外国からの侵略(刀伊の入寇)をあげている。

 出土遺物は瓦(複弁蓮華文軒丸瓦、均正唐草文軒平瓦など)。須恵器、土師器、製塩土器、滑石製品、輸入陶磁器など多数。

 これまでの調査によると、須恵器が出土しはじめる時期は7世紀末ごろからであるが、数庁程度と少ない。

 創建時期の遺構としては、版築基壇をもつ建物ー塔跡、金堂跡、塀跡、門跡と考えられるものーがある。8世紀中頃から8世紀後半の時期にあたり、壱岐直の氏寺に相当するもので、この時期を「氏寺期」とする。壱岐氏と中央政権との強い結びつきを示す平城様式6284A型式の軒丸瓦は、この氏寺を飾った瓦であったと推定されている。

 8世紀後半以降から8世紀末頃までの遺構として回廊跡、遺跡が新たに造られており、二次的な製塩を行った跡さえもある。この時期が島分寺に転用された頃と考え、「島分寺期」とする。この時期は10世紀末から11世紀初頭頃まで続いたとされている。

七次にわたる調査にもかかわらず、各種の遺構の正確な名称や性格がほとんどわかっていない。これは、原位置をしめす礎石やその根固め石などが全くのこっていないことから、本来の建物の規模や配置が推定できないことと、壱岐直の氏寺の建物を国分寺昇格を機に増築しながら体裁を整えていったために、国分寺創建の一定の約束に基づく伽藍配置ではなく、加えて狭い寺域という地形的な制約もあって結果的に諸国の国分寺と比べ例を見ない伽藍配置となっていた、と思われる。一部ではあるが池跡が出土しており注目される。

 

平成19年3月

長崎県教育委員会壱岐市教育委員会

 

 

國方主神社由緒沿革

 

旧号國分天満宮國分天神

祭神少彦名命(國造り、病を治す神)

相殿菅贈相國(学問の神)

例祭日旧8月25日

 

由緒沿革

当社は延喜式内二十四座の内なり、壱岐島大七社の一ツなり、國方主と名付けられたのは、遠き神代に於いて少彦名命が大國主命と共に國土を二分して経営され給うに依る。又古来國分天満宮、國分天神と称するのは学問の神菅原道真公を祀るが故なり。

嵯峨天皇弘仁2年(812年)10月朔日、日輪の神勅を承けて鎮り給う。朝廷より神階を進められ給う。(1100年前)即ち文徳天皇仁寿元年正六位上(1100年前)後9代の各天皇より9回に亘り次々各1階づつ増し奉らる。

永禄5年、宝殿再建、波多藤童丸(1562年)

慶安4年、宝殿再建、松浦肥前守鎮信(1651年)

承応3年、拝殿造替、大宮司長田十太夫(1653年)

寛文3年、宝殿造替、大宮司長田(榊原)式部(1663年)

延宝4年、木鏡石額奉献、國主源鎮信(1676年)

元禄14年、石鳥居造替(1701年)

宝永6年、御殿造替(1709年)

天和3年、神輿造替

(社記)に依れば当社古くより朝廷の崇敬厚く毎年祈年祭には幣帛料を奉られ平戸領主壱岐を領有後益々崇敬加わり國主直参社となり名代参向せり。

明治7年5月村社に列せらる。

大正元年11月神饌幣帛神社に指定せらる。

 

昭和63年4月宮司就任記念 榊原伸