山城 宇治上神社 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本殿と春日神社②国宝本殿③本殿と拝殿​​​​​​​④国宝拝殿⑤国宝拝殿⑥国宝拝殿

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:京都府宇治市

 

 藤原頼通は正暦3年(992)藤原道長の長男として生まれた。母は道長の正室で左大臣・源雅信の娘の源倫子、4歳年少の同母弟に藤原教通がいる。

 

 また彰子(66代・一条天皇中宮)は4歳年上の同母姉、妍子(67代・三条天皇皇后)は2歳、威子(68代・後一条天皇皇后)は8歳、嬉子(69代・後朱雀天皇東宮妃)は15歳年少の同母妹である。

 

 長和5年(1016)三条天皇が彰子が生んだ9歳の後一条天皇に譲位すると道長が摂政となり、長和6年(1017)頼通が藤原氏長者を譲られ、内大臣・摂政となる。

 

 寛仁3年(1019)に関白となり、治安元年(1021)左大臣に転じるが、治安3年(1023)、万寿4年(1027)道長が死去する。

 

 翌、長元元年(1028)関東で起きた平忠常の乱を朝廷は3年にわたり鎮圧できず、河内源氏の祖・源頼信(多田満仲の3男)がようやく平定した。

 

 長元9年(1036)後一条天皇が崩御、同母弟の69代・後朱雀天皇が即位し、引き続き関白を務める。同年、待望の長女・寛子が生まれる。

 

 しかし後朱雀天皇の皇后には禎子内親王(妍子の娘)が立てられ(嬉子はすでに死去)、頼通は正室・隆姫女王の姪の嫄子女王(敦康親王の娘)を養女にし中宮とした。

 

 寛徳2年(1045)後朱雀天皇が崩御、嬉子が生んだ70代・後冷泉天皇が即位、藤原氏を外祖父としない尊仁親王(71代・後三条天皇)が皇太弟となる。

 

 永承5年(1050)15歳になった寛子を後冷泉天皇の皇后とした。永承6年(1051)陸奥で前九年の役が勃発し、源頼義・義家父子が活躍する。

 

 永承7年(1052)道長の別荘だった宇治殿を寺院(平等院)に改修し、天喜元年(1053)西方極楽浄土を現出した阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立する。

 

 康平4年(1061)70歳で太政大臣となる。治暦3年(1067)関白職を同母弟・教通に譲り、准三后を宣下される。

 

 治暦4年(1068)寛子に子ができないまま後冷泉天皇は崩御し、後三条天皇が即位すると頼通は致仕して宇治に閑居した。

 

 後三条天皇は延久元年(1069)延久の荘園整理令を発布し、摂関家や大寺社の経済力を削ぎ、皇室経済の復興に努めた。

 

 延久4年(1072)第一皇子の72代・白河天皇(母は異母弟・藤原能信の養女・茂子)に譲位し、翌延久5年(1073)崩御した。

 

 延久6年(1074)頼通は83歳で死去した。白河天皇は応徳3年(1086)第二皇子の73代・堀河天皇に譲位し、大治4年(1129)崩御するまで43年にわたって院政を敷いた。

 

 

以下、現地案内板より

 

宇治上神社

 

宇治上神社は、明治維新までは隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ、離宮上社、離宮下社と呼ばれていました。祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子兎道稚郎子のほか、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。本殿は平安時代後期の、神社建築としては最古のものに属する建造物で、一間社流造の内殿三棟えお左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋をかけたものです。また、その身舎の扉には、建立時の絵画が遺されています。なお、境内に湧き出ている桐原水は、宇治七名水の一つとされています。

 

 

宇治上神社は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。

 

 宇治上神社の創建は古くさかのぼりますが、平安時代に平等院が建立されるとその鎮守社となり、その後、近在住民の崇敬を集めて、社殿が維持されてきました。

 本殿は、正面一間の流造の内殿3棟を並立させ、それを流造の覆屋で覆った特殊な形式となっています。建立年代については、蟇股の意匠及び組物などの細部の特徴から平安時代の後期に造営されたものとみられ、現存する神社本殿としては最古の建築です。

 また拝殿は鎌倉時代の初めに建てられたもので、現存する最古の拝殿です。意匠的には切妻造の母屋の左右に庇をつけた形であり、屋根はその部分が縋破風となっていることなど住宅風となっている点に特色がみられます。

 神のための本殿に対し、人の使う拝殿には住宅建築の様式が採用されることが多く、ここでは、拝殿が初めて建てられた頃の住宅建築の様式である寝殿造の軽快な手法が、鎌倉時代の再建にも受け継がれたと考えられます。

 本殿の後方に広大な森林が広がっており、こうした環境は緩衝地帯の一部となっています。

 

登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定、17日登録

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