大和 登美山 鼻高 霊山寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①国宝本堂②国宝本堂③鐘楼④鎮守社殿⑤開山大師堂⑥三重塔

 

 

訪問日:2019年8月

 

所在地:奈良県奈良市

 

 小野富人(鼻高仙人)の名は霊山寺の縁起以外に見つけることはできない。当然歴代の右大臣のリストにはなく、天武天皇元年(672)壬申の乱で大友皇子に与した当時の右大臣・中臣金は処刑されている。

 

 天平8年(736)遣唐大使・多治比広成や副使・中臣名代らの要請により33歳の時に来日したインド出身の菩提僊那(婆羅門僧正)は行基に迎えられて平城京に入り、大安寺に住んだ。

 

 僊那は登美山の地勢が釈迦仏がいたインドの霊鷲山に似ていることから、行基がここに開いた寺院を霊山寺と名付け、聖武天皇から「鼻高霊山寺」の額を賜ったという。

 

 天平勝宝3年(751)僧正となり、天平勝宝4年(752)東大寺廬舎那仏像(大仏)の開眼供養の導師を務め、聖武天皇・行基・良弁とともに「東大寺四聖」と称される。

 

 天平宝字4年(760)僊那は大安寺にて合掌したまま示寂したという。57歳だった。登美山右僕射林に葬られた。

 

 

以下、現地案内板より

 

登美山鼻高霊山寺

 

 1300年の昔右大臣小野富人が薬草湯殿を建て薬師如来を祀って諸人の病を治されました。

この薬師如来が聖武天皇の夢枕におたちになり、孝謙皇女永年の病気を平癒守護されました。その為に天平6年聖武天皇の勅命にて薬師如来を本尊とする霊山寺が創建された。

北条時頼、徳川家康帰依せられ寺領の寄進知行の下付がありました。当山は勅願寺御朱印寺として天下泰平国家安穏万民豊楽の祈願寺として栄えました。明治維新の廃仏毀釈により伽藍の規模は半減するもなお国宝重文建物6棟、重文仏像什宝物30余点を所蔵しています。千余年前弘法大師駐留の際勧請された大辯財天の霊験により衰退することなく今日の隆盛を保っています。

 1200有余年来の祈祷伽藍と12万霊地の回向伽藍が並び、ばら庭園をはじめ広大な境内には四季の花や木が繁り参詣の人の心にやすらぎを与えています。

 

新旧所蔵文化財

 

本堂   国宝天平8年創建、弘安6年、昭和17年に解体修理

      本尊薬師如来他堂内仏像什物20余点重文

三重塔  重文鎌倉時代建立、初重内全面壁画

鐘楼   重文室町時代建立、吊鐘に縁起刻銘

鎮守社殿 重文中央三社室町時代建立、二社江戸時代建立

開山堂  本尊弘法大師、歴代徳川将軍の位牌祭祀

行者堂  神変大菩薩、理源大師、聖宝尊師祭祀

奥之院  弘法大師勧請大辯財天、七福神祭祀

黄金殿  商売繁盛福徳開運の辯財天祭祀、内外総金箔押

白金殿  辯財天の眷屈大龍神祭祀、内外総白金箔押

八体仏霊場 生まれ年干支、生まれ日星座お守り本尊祭祀

霊園本堂 地蔵菩薩(重文)鎌倉時代、千体地蔵尊祭祀

八十八カ所霊場 四国霊場の本尊を丸彫のした石仏群祭祀

地獄堂  鉄筋コンクリート浮彫立体地獄洞、世界最大地獄絵の一つ

大霊園  11haの吉相日本一霊園、数十万聖堂祭祀

薬師湯殿 大辯財天の薬示湧出、酸性緑礬泉

ばら庭園 人生の輪廻をテーマにした33aのばら庭園

 

平成7年8月吉日記