近江 姨綺耶山 長命寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①伽藍

イメージ 2②本堂

イメージ 3③三重塔

イメージ 4④護摩堂

イメージ 5⑤三仏堂・鐘楼

イメージ 6⑥長命寺山

 
訪問日:2019年3月

 

所在地:滋賀県近江八幡市

 

 伊庭氏は近江源氏佐々木氏の祖・佐々木義経(1000-58)の曾孫・実高が建久年間(1190-99)近江国神崎郡伊庭に居住したのがはじまりで、伊庭貞隆は守護代として影響力を持つ伊庭満隆の子として生まれた。

 

 長禄4年(1460)佐々木氏の当主・六角政堯が満隆の嫡男(貞隆の兄か)を殺害して幕府に廃嫡され、2年前に追放された従弟・亀寿丸(六角高頼)が当主に復帰、貞隆は守護代としてこれを補佐する。

 

 応仁元年(1467)からの応仁の乱では西軍に与した高頼とともに東軍の政堯や京極氏と戦う。応仁2年(1468)観音寺城が京極氏により落城するが、城を明け渡した留守居・伊庭行隆は貞隆の子・貞説の初名かも。

 

 文明3年(1471)政堯を討ち取るが、その後も近江守護職の地位は安定せず、応仁の乱終結後の文明10年(1478)ようやく高頼は幕府から近江守護に補任される。

 

 長享元年(1487)9代将軍・足利義尚が高頼征伐のため近江に親征(鈎の陣)、高頼は甲賀に逃れ、貞隆は山内政綱とともにゲリラ戦を展開し、延徳元年(1489)義尚の陣没により守護職に復帰した。

 

 しかし延徳3年(1491)10代将軍・足利義材による第二次六角征伐を受けて政綱が討死するが、明応2年(1493)明応の政変により義材が失脚、高頼は明応4年(1495)守護職に復帰した。

 

 政綱が討死したことで権力が貞隆に集中することを恐れた高頼は文亀2年(1502)伊庭領に侵攻、湖西に逃れるが反撃に転じ、高頼は観音寺城から蒲生定秀の音羽城に落ち、文亀3年(1503)細川政元の仲介で和睦した。

 

 永正4年(1507)政元の暗殺により失脚した11代将軍・足利義澄を保護して家臣・九里信隆の水茎岡山城に匿う。これを巡り再び高頼と対立、義澄死後の永正11年(1514)高頼は信隆を謀殺して義材支持を表明する。

 

 貞隆は湖北に逃れて浅井亮政の支援を受けて抵抗し、一度は帰参するも永正13年(1516)またも叛旗を翻し六角勢が水茎岡山城に押し寄せるも撃退する。この時の戦火で長命寺の伽藍は全焼した。

 

 永正11年(1520)水茎岡山城は陥落し、貞隆・貞説父子は没落し、消息不明となる。

 

 
以下、現地案内板より

 

重要文化財 長命寺本堂  明治37年2月18日指定

 

 本堂は永正13年(1516)の焼失後、大永2年(1522)から大永4年(1524)にかけて再建されたことが勧進書に記されており、寺内で現存する最古の建築である。昭和5年(1930)から昭和7年(1932)にかけて解体修理が行われた。
 桁行7間、梁間6間(正面20.41m、側面20.50m)、一重、入母屋造、檜皮葺の大建築で、当所は、正面の全て、東面の正面から1間、西面の正面から3間を吹放しとし、扉や壁面を造っていなかった。外陣内部は柱が並び、荘厳である。奥の内陣には須弥壇が築かれ、真中に再建当初からの厨子(重要文化財である本堂の附)があり、千手観音立像を中心に左側に聖観音立像、右側に十一面観音立像(全て重要文化財)が安置されている。
 本堂は、中世の和様仏堂の好典型としても貴重な遺構であり、無駄な装飾を用いない、格調の高い建築である。

 

平成20年5月 姨綺耶山 長命寺

 

 

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