蝦夷 白老陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①大手

イメージ 2②表御門

イメージ 3③外郭

イメージ 4④詰御門

イメージ 5⑤内郭

イメージ 6⑥鹽竈神社

 

訪問日:2018年11月

 

所在地:北海道白老郡白老町

 

 三好清房(監物)は文化12年(1815)仙台藩士・三好清明の子として生まれた。安政2年(1855)仙台藩が幕府より蝦夷地警護を命じられると、2歳年少の氏家厚時(秀之進)らとともに白老から択捉まで探索する。

 

 探索の結果、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・泊(国後島)・振別(択捉島)に出張陣屋を築き、安政3年(1856)氏家が初代御備頭として白老に赴任する。

 

 安政4年(1857)からは氏家に替り三好が2代御備頭となり、安政5年(1858)再び氏家が3代御備頭として白老に1年間赴任している。

 

 安政6年(1859)三好は蝦夷地警護で失態があったとして閉門に処される。一方、氏家は万延元年(1860)3度目の御備頭となり、2年間務めた。

 

 文久2年(1862)三好は藩政に復帰して若年寄格となり、佐幕派の但木成行(土佐)を支持して尊攘派の重臣・遠藤允信と対立、文久3年(1863)遠藤を失脚させる。

 

 慶応3年(1867)には大政奉還に際して藩主・伊達慶邦に代わり上洛し、但木とともに会議に参加する。

 

 慶応4年(1868)奥羽越列藩同盟が成立し、仙台藩が盟主となる。しかし、三好は時代の流れを見て新政府への抗戦は無謀として帰順と会津藩征伐を唱える。

 

 これを裏切りとみた但木により、三好は自害に追い込まれた、享年54。同年、仙台藩は新政府に降伏する。

 

 一方、明治となり仙台再興に奔走した氏家は宮城県にも地元に基盤を置く銀行が必要と考え、渋沢栄一の支援を受け、第七十七国立銀行(現・七十七銀行)として明治11年(1878)業務を開始、その初代頭取となった。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 白老仙台藩陣屋跡

 

昭和41年3月3日史跡指定(国)
昭和51年7月8日追加指定(国)

 

 この陣屋跡は、安政3年(1856)蝦夷地の防備を固めるため、仙台藩が築いたものである。
 安政元年(1854)徳川幕府は鎖国を解いてアメリカ・ロシアと和親条約を結び箱館港などを交易場とした。
 このため幕府は、蝦夷地を直轄地とし、翌年仙台藩をはじめ津軽・秋田・南部の奥羽諸藩と松前藩に警備を命じた。(安政6年、庄内藩と会津藩も加わる)
 仙台藩の守備範囲は、白老から襟裳岬を越えて国後・択捉までの東蝦夷地であったため、白老に元陣屋を、広尾・厚岸・根室・国後・択捉に出張陣屋を築いた。
 元陣屋の面積は、6.6haで堀と土塁を円形・弧状に巡らして内曲輪と外曲輪を構成している。おこには、本陣・勘定所・穀蔵・兵具蔵・長屋などがあり、少し離れた東西の丘陵に塩釜神社と愛宕神社を祭った。
 元陣屋には、200名程の人々が駐屯して警備に当ったが、明治元年(1868)戊辰戦争のぼっ発によって撤収するまでの12年間慣れない土地での仙台藩士達の苦闘が、この陣屋跡に刻まれている。

 

文部省 白老町