摂津 東光山 菩提寺(花山院) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

イメージ 1①花山法皇殿

イメージ 2②薬師堂

イメージ 3③花山法皇御廟所

イメージ 4④有馬富士を望む

イメージ 5⑤山門

イメージ 6⑥十二尼妃の墓

 

訪問日:2018年9月

 

所在地:兵庫県三田市

 

 師貞親王は安和元年(968)第63代・冷泉天皇の第1皇子として生まれた。母は摂政太政大臣・藤原伊尹の娘の女御・懐子。

 

 安和2年(969)父・冷泉天皇が同母弟の守平親王(円融天皇)に譲位すると、生後10ヶ月にして立太子するが、天禄3年(972)伊尹の死去により後盾を失う。

 

 永観2年(984)円融天皇の譲位を受けて即位(花山天皇)、円融天皇の第2皇子・懐仁親王を皇太子とした。懐仁親王の母は藤原兼家の娘・詮子。

 

 寛和2年(986)19歳の花山天皇は女御・藤原忯子が妊娠中に死去すると、御所を出て剃髪して退位してしまう。これは摂政の地位を望む兼家が3男・道兼を使って仕掛けた罠だったという(寛和の変)。

 

 法皇となった花山院だが、長徳2年(996)故藤原為光の娘・四の君(儼子、忯子の妹)の元に通っていたところ、同じ屋敷に住む三の君に通う藤原伊周が誤解し、伊周の弟・隆家が花山院の衣の袖を弓で射抜くという事件が起こる。

 

 花山院はこの件に関し口を閉ざしていたが、やがて噂が広がり、伊周と隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に左遷された(長徳の変)。

 

 長徳4年(998)には平祐忠の娘・平子が花山院の第2皇子・昭登親王を生んでいるが、生年不詳の第1皇子・清仁親王(白川伯王家の祖)の生母は平子の実母・中務だという。この複雑な異母兄弟はともに冷泉院の子として育てられた。

 

 また、花山院が書写山円教寺の性空上人の勧めにより三十三所霊場を巡礼し、各寺院の御詠歌を作成して、現在の三十三所巡礼が定められたという。

 

 

 その後、この巡礼途中で気に入った摂津東光山で隠棲生活を送り、寛弘5年(1008)花山院東対にて崩御した。享年40。

 

 

以下、現地案内板より

 

花山法皇を慕いまつる 児玉尊臣

 

 山の鳥木々のしげみに啼きヽほひ
 みささきの邊のすがしあさかも

 

 奈良朝の頃大和長谷寺徳道上人は西国三十三所観音の霊場を開いた。その後三百年あまりを経て花山法皇がその滅びようとする霊場を再興されたその功徳は大きい。
 名僧の誉れ高い河内石川寺、佛眼上人、書寫山円教寺、性空上人を戒師とし、紫雲山中山寺、弁老上人を先導としてあらゆる雑苦をなめて、これを再興され晩年棲みつかれたのがこの東光山菩提寺である。
 この法のみ山には幾多の悲話哀説が残され、曰く琴弾坂、曰く十二尼妃の奥都城、曰く尼寺(にんじ)という地名の起源などすべて情緒纏綿として汲めども謁きぬ、なまめかしくもも悲しき物語りがある。
 今日はこの追慕の情切なる法のみ山に辱知の厚意により拙き歌の碑が建った。無上の光栄というか。

 

昭和45年5月 三田市郷土文化研究会議

 

 

花山院・十二妃の墓

 

 花山天皇(在位=寛和元年~2年)は、藤原氏との政争に敗れ退位した後剃髪し法皇となった。やがて弘法大師が巡ったという西国各地の寺院を巡拝したことが西国観音霊場巡りの始まりと伝えられ、隠棲生活を送った花山院は札所の特別番外とされ、今も参拝者が絶えない。
正式な寺名は東光山菩提寺
 山麓の集落尼寺には、都より法皇を追ってこの地に来た弘徽殿女御と女官たちが、女人禁制の山中に入いれず草庵を結び暮したと伝える。山中で修業する法皇に聞かせたいと登り口の坂で琴を弾いたことから、参道の坂を琴弾坂と呼ぶ。
 中央の五輪塔は弘徽殿女御のもので、周囲の十一基の石塔とあわせて十二妃の墓と呼ぶ。

 

三田市観光協会
 
 
イメージ 7