①城跡碑
②帰雲山
③地滑り跡
訪問日:2014年4月
所在地:岐阜県大野郡白川村
悲劇の内ケ嶋氏の城だ。天正13年11月29日(1586年1月18日)夜発生した天正の大地震では日本海の若狭湾から太平洋の三河湾や伊勢湾にまで津波被害が報告されており、近畿・北陸・東海にまたがる広範囲に被害がもたらされた歴史的にも類例のない大地震であった。
当時のことなので、当然各地の城郭にも被害が及んでおり、美濃大垣城は全壊、尾張清須城や蟹江城も壊滅状態、伊勢では長嶋城天守が倒壊した。また、越中木舟城は城主・前田秀継(利家弟)夫妻らが、近江長浜城では城主・山内一豊の娘や家老が地震の犠牲となった。
中でも一番被害が大きかったのは、ここ飛騨帰雲城で、城主内ケ嶋氏理をはじめ一族全員が死亡し、内ケ嶋氏は滅亡、300~400戸あったとされる城下町の領民のほとんどが死亡したという。
帰雲城の正確な位置はわかっていないが、写真③にみられる帰雲山の西側山腹が大崩壊を起こし、土石流となって麓の川を堰き止めたことにより「山津波」が発生し、城と城下町を飲み込んだと思われる。
とすると帰雲城は居館のような平城だったのか、それとも帰雲山の中腹か麓で丁度土石流の通り道にでもなったのだろうか、、、
以下、現地碑文より
帰雲城は、寛正の初め(1460年頃)内島上野介為氏によって築かれた城である。4代氏理の時代、天正13年(1585年)旧11月29日、東海・北陸・近畿に及ぶ広範の地域を襲った巨大地震によって帰雲山に大崩壊が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。
埋没前の、帰雲城の位置は確認されていないが、地勢・堆積土砂等からしてこの周辺地域と推測される。
平成11年6月 白川村