近江 龍応山 西明寺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

イメージ 1①国宝三重塔

イメージ 2②国宝本堂

イメージ 3③国宝本堂

イメージ 4④二天門

イメージ 5⑤蓬莱庭

イメージ 6⑥参道石垣

 

訪問日:2018年8月
 
所在地:滋賀県犬上郡甲良町

 

 正良親王は弘仁元年(810)第52代・嵯峨天皇の第2皇子として生まれた。母は橘氏出身としては唯一の皇后となった橘嘉智子(檀林皇后)。

 

 双子の姉妹と考えられている正子内親王は、叔父にあたり弘仁14年(823)に即位した第53代・淳和天皇に入内し、天長4年(827)皇后に冊立された。

 

 天長10年(833)正良親王は淳和天皇の譲位を受けて、第54代・仁明天皇として即位、正子内親王が産んだ甥で従弟の恒貞親王を皇太子に立てた。

 

 西明寺の寺伝によると、仁明天皇の勅願寺となったのは、承和3年(836)のことで、この時に寺領が寄進され、諸堂が建立されたという。

 

 承和7年(840)淳和上皇が、続いて承和9年(842)嵯峨上皇が崩御すると、その直後に承和の変が発生し、恒貞親王は廃され、仁明天皇の第1皇子・道康親王が立太子された。

 

 道康親王の母は仁明天皇や檀林皇太后の信任厚く、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原良房(北家)の妹・藤原順子で、良房はこれを機にさらに勢力を強めていく。

 

 仁明天皇は承和12年(845)自身の更衣・三国町(貞登の母)側近の藤原有貞(南家)の密通を疑い、有貞を常陸権介に左遷した。

 

 幼少時から病弱だったという仁明天皇は嘉祥3年(850)病を得て道康親王(第55代・文徳天皇)に譲位し、その3日後に崩御、41歳だった。

 

 良房は娘の明子を文徳天皇に入内させ、同年明子が第4皇子・惟仁親王を産むと、良房は生後8ヶ月で立太子させた。天安2年(858)文徳天皇が32歳で崩御すると、9歳の惟仁親王が即位(第56代・清和天皇)する。

 

 

以下、現地案内板より

 

西明寺縁起

 

 当寺は平安時代の承和元年(834年)に三修上人が、仁明天皇の勅願により開創された寺院である。
 寺伝によると、本堂裏の閼伽池で三修上人が礼拝されると、池中より霊霞が立ち昇り、薬師如来が日光・月光両菩薩、十二神将を随えて現れたといわれている。
 上人はたいへん感激され、その薬師如来の尊像を立木に彫刻されて西明寺の本尊とされた。
 平安、鎌倉、室町の各時代を通じて祈願道場、修行道場として栄え、山内には諸堂十七、僧房三百を有する大寺院となり、源頼朝が来寺して戦勝祈願をされたと伝えられている。
 戦国時代には織田信長により焼き打ちされたが、幸に国宝第一号指定の本堂、三重塔(国宝)、二天門(重文)が火難を免れ現存している。
 その焼き打ち後、荒廃した寺を江戸時代延宝年間に天海大僧正、公海大僧正の尽力により、望月越中守有閑が、祈願、修行道場として復興され、その後、代々の住職が寺観の保持に尽力されて現在に至っている。

 

湖東三山 龍應山 西明寺

 

 

甲良町の文化財 蓬莱庭(国指定文化財)

 

 江戸時代延宝元年(1673年)、望月越中守(友閑)が、当山復興の記念として造られた庭園である。
 池の中央は折り鶴を形どった鶴島で左が亀島である。池の水の部分は心字池となっていて池泉回遊式である。
 築山の立石群は本堂に安置している本尊薬師如来と日光・月光の菩薩及び十二神将等の眷属を表し、植木の刈り込みは雲を形どって薬師の浄瑠璃浄土を具現化したものである。
 本庭園は小堀遠州の作庭を参考にした造園になっており、鎌倉時代の八角石灯籠(石屋弥陀六作)や連珠模様の室町時代を偲ぶ石灯籠がある。

 

甲良町教育委員会  龍應山 西明寺
 
 
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